第7話

とはいえ、伊織には大して変わることはなく、結構平凡に日常は過ぎていった。冷泉さんも伊織に話しかけていた冷泉さんとは別人なのかと思うくらい変わらないまま静かに、クラスの中に存在している。わざわざ書き留めるような無いような日常は当たり前過ぎて、逆に新鮮な気がするくらい。


相変わらずの、学校に行っている意味があるのかと問いたくなるような空気みたいな存在。授業も寝てばっかりいたせいか、気づいたら数学Aの方は完全に分からなくなっていて驚いた。驚いている場合では無いのだが、今更勉強する気もしない。高校の数学が考えることなんてほとんど無くて、暗記ばっかりなんて姉が言っていたが、本当にそうだった。だからこそ、勉強量がそのまま成績に直結するとか言うのも嘘じゃ無いらしい。


とはいえ、中間テストはあるしなあと、どう考えても答えが出る筈のない事を考えていたところ、近くでした声に気づいて、伊織は驚いた顔で顔を上げた。


机を挟んで真正面には、明らかに歓迎していない顔で一人の女子生徒が立っていた。


「三回も呼んだんだけど」


その女子生徒は不機嫌さを隠さない様子で、座っている伊織を見下ろしている。二重に見下されている様な気がするのも当然な程の上からの目線。クラスの中でも一番目立つグループの中心的な存在。つまり綾乃を含めたグループを仕切っている女で、杉下 恵美という。


綾乃がエミちゃんと呼んでいた少女で、綾乃の友達と胸を張って言える程に、ぱっちりと開いた大きな目も、巻いているんじゃないかと推測できる、クルンとした髪の毛もよくその少女を表している。軽く化粧をしているその顔は入学そこそこでも、綾乃や冷泉さんには及ばないもののかなり可愛いとの評判があると聞いた。


「イヤホンしてないのに、私の声が聞こえないの?」

「ごめん。俺の事まだ見えてるんだと思って。」

「はあ?」


伊織的には、席替えを勝手に仕切って、伊織を教室の端に追いやったその杉下 恵美に対する最大限の皮肉だったのだが、どうやら通じなかったみたいだ。


「はあ。まじ、こいつキモい。もう、いいからこっちきて。」


座っている伊織の腕を乱暴に引っ張って、杉下恵美は伊織を教室から出そうとする。だけど、とっさの杉下 恵美の行動に意表をつかれた伊織はバランスを崩して、机にぶつかる。


「痛っいなあ。」


実際はそこまで痛くはないが、杉下恵美に対する多少の恨みを込めた言葉を放つ。だけど、そんな言葉も虚しく、伊織は二階の階段の踊り場へと引っ張られていった。





人が来ない場所といえば、学校の中でもそんなにない。屋上、ゴミ捨て場、踊り場くらい。ゴミ捨て場という所は、この前、冷泉さんに告白された所で、そう考えたら伊織は入学してからそんなに経っていないのにも関わらず、もうその3つの場所をコンプリートした事になる。


そんな関係ない事を考える程に、杉下 恵美の顔は告白とはどう間違ってもならない様な視線で伊織を睨みつけていた。


「あのさ、なんでここに呼ばれたかわかる?」


嫌いな質問の仕方の一つだ。綾乃も怒った時にこんな質問の仕方をする。「なんで私が怒ってるのか分かる?」みたいな。というか、分からないからここに来ている訳なのだが。


「知りませんけど。」


できる限りの塩対応で言葉を返しておく。


「こんなんもわからないから、インキャなんだよ。キモ。」


明らかに、呟いている感じの音量じゃないが、伊織は黙って聞こえないふり。


「じゃあさ、単刀直入にいうけど。タクと関わらないでくれない?」

「タク?紫宮の事?」


伊織の記憶が正しければ、紫宮というのは伊織の数少ない仲の良い友達の一人だったはずだ。


「そう。タクが可哀想だから、タクには二度と構わないで」


若干、フリーズする。こいつは何を言っているのだろうか?


「うん?どういう事?」

「だから」


なんで分からないのみたいな不機嫌さがその少女の顔面に浮かび上がる。


「新田みたいなインキャにつきまとわれて、タクの株が下がるのが可哀想だから絡まないでって言ってるの」

「俺はそんな事、紫宮に言われたことが無いんだが?」

「タクは優しすぎるの」

「はい?」

「タクは優しすぎるから、あんたみたいなインキャとつるんであげてるの」

「はあ?」


多少イラっとした感情を静かに沈める。


「だったら、それでいいじゃん。俺と絡んでくれるタクが優しいって事を。」


くだらない話に付き合わせないで欲しいというのが伊織的な思い。


「馬鹿なの?あんた」

「はあ?」

「タクの将来の事を考えたら、あんたみたいな奴が邪魔になるからに決まってるでしょ」

「はあ?お前、大丈夫か?」


今度こそ、本当に何を言っているのかが分からないトーンで声が思わず漏れる。そういえば、綾乃が話していた記憶によれば、エミちゃんという少女は勝気な性格にも関わらず、彼氏が大好きなそう。で、あればこのような思考になってしまうのだろうか。


「将来ってなんだよ?」

「タクのこれからの大学生になるとか、そういう未来」

「それに、俺が何の関係があるんだよ?」

「タクに迷惑がかかるかもしれないじゃん。っていうか、絶対あんたはタクの邪魔になる。」


憤然とした様子で話す彼女に伊織は。


「根拠は?」

「え?」

「だから、根拠は?」

「え?」

「俺がいつかの紫宮の邪魔になるっていう根拠は?」

「そ、それは・・・・・・勘だけど」

「勘、そうですか。勘ですか。」

「は?なんか文句あんの?」

「無いですけど。」


だいたい、恵美が伊織に文句をつけてきたのは、伊織が紫宮と絡むと紫宮の株が下がるとかいう話だったと思うのだが。単純に考えて、論点がずれている。


「そもそも、俺じゃなくて紫宮に言えよ」


キッとしたした表情で恵美はこちらを睨む。


「それに、彼氏には言えないのに、弱い奴には言えるっていうのもなあ」

「言ったし」

「え?」

「私はちゃんとあんたとつるまないでって、タクに言った。」

「それで?」


驚いた様子をそのままに、言葉を促す。


「でも、笑って濁された」

「じゃあ、それが全部だろ」


笑って濁した時点で、紫宮には伊織と縁を切るという選択肢は無かった筈だ。それなのに、伊織の元にまで来るということは、彼女の愛はだいぶ深いようだ。


「そもそも、おかしいでしょ?」


しかし、話は終わったとばかりに、教室へ戻ろうとしていた伊織の視線は引き戻される。


「何で、タクはあんたたちと帰るの?」

「え?」

「何で、彼女の私とじゃなくて、あんた達と一緒に帰ろうとするの?」


予想をしていなかった場所に話題が飛んで、伊織は若干焦る。


「何で、彼女の私が一緒に帰ろうって誘っても、俺は友達と帰るからって言われなきゃなんないのよ」

「えっと・・・」

「なんであんたの成績がやばくて勉強を教えなきゃなんないからって、私とのデートを潰されなきゃなんないのよ」


正直、「関係ないだろ」という思いが強いが、よくよく考えてみればそもそも彼女が伊織に突っかかってきた原因は、紫宮が友達を大事にしているのに腹が立ったからなのかもしれない。


そうであれば、伊織にも悪い部分はある。彼女がいた事がないから分かりはしないが、恵美

の気持ちが全く理解できないという事はない訳であるし。


「まあ、ごめんな」

「あんたなんかに同情されたくない」


それでも、不機嫌な様子を変えない恵美に


「でも、お前。紫宮の名前を「王子様はあと」って登録すんのは良くないと思うぞ。」

「は?」


その瞬間、空気が固まったみたいに、恵美の表情が固まる。


「お前、気づいてないかもしんないけど、結構分かるぞ。」


今、初めて偶然恵美のケータイを見た伊織ですら、「王子様はあと」が誰からの通知かが分かるのに、他の人が気づかない訳がないと思う。


そうして、だんだんと状況を理解して、顔を真っ赤に染めた恵美が叫ぶ。


「し・・・・し、死ね!マジ死ね!べ、別にタクじゃないし、これ。マジ言ったら殺すから。」


そうやって勢いよくセリフを吐きながら、踊り場から出て行く彼女を見て、伊織は「はあ」とため息をついた。


そうして、ようやく教室に戻れると伊織が足を踏み出した瞬間に、透き通った声が聞こえて、伊織は跳ね返った。


「新田君?」


そこには意地の悪そうな表情を浮かべた黒髪の少女が立っていた。

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