第6話
と、まあそんな大変なことがあったのにも関わらず、伊織は案外と平凡としたまま放課後の時間まで過ごしていた。少し、いつもと変わった事があったとするならば、クラスの何人かの女の子に話しかけられた事や、友達の伊達くんや紫宮くんに確認したところ、本当にその生徒会の女子生徒の名前は春花さんだったことぐらい。
ただ、伊織にとって幸いだったのは綾乃が春花さんの事を知っていると言う事で、体育着を返してくれると言ってくれた事だ。
でも、綾乃も伊織が春花さんの体育着を渡すと、「変な事をしてない?」と確認をいれてきた。女子高生にとっては体育着はなんかのステータスなのかと伊織は疑問に思った時に、その少女は声をかけてきた。
どこか懐かしいような感情が伊織を喚起して、そうして、声は聞こえた。
「ねえ、ちょっといいかしら?」
クラスのとびっきりの美少女。それは二択で綾乃と冷泉さん。そして、それが綾乃でないならば、伊織に声をかけたのは冷泉さんだった。冷泉さんに話しかけられた事に、驚いた顔をしている綾乃と伊織に、冷泉さんはその形の良い眉を顰めながら静かに問う。
「新田君と少し話したいのだけれど?」
伊織はごくりと喉を鳴らす。別に緊迫している状況ではないのだが、何というかとびっきりの美女というのは自然に緊張感が出てしまうものなのだと実感する。
でも、そんな事を思いながら、綾乃と冷泉さんってどっちが可愛いんだろうと、やってはいけない比較をしていると、綾乃の冷静な一声が誰もいなくなった教室に響いて、伊織の意識は現実に回帰した。
「もしかして、いっくんと冷泉さんって日直?」
このクラスの日直は席の隣どうしの人で行う。即ち、今日の担当が冷泉さんであるならば、もう一人は伊織。
「そうね。新田君は忘れていたみたいだけど。」
「あ!」
「いっくん、最低だよ」
冷たく刺さる美少女二人の視線に伊織は醜く言い訳をする。
「仕方ねえだろ?俺は変な女に水をぶっかけられたんだから!」
「男が言い訳とかダサい。」
だけど、綾乃は非常に厳しい。
「いっくんなら好きに使ってくれて良いから」
「いや、俺はお前の持ち物じゃないんだが。」
「そう。ありがとう。」
「いや、冷泉さんもそれはやめて欲しいな」
そうして、教室を出て行こうとする冷泉さんについていく伊織の背中を綾乃は見つめる。だけど、なんか嫌な胸騒ぎがしたのを綾乃は否定しきれなかった。
そうして、廊下を歩いている最中、伊織は並走するのではなく冷泉さんの若干後ろを歩いていた。当たり前だけど、会話はない。勿論、冷泉さんに話しかけられたのも今日が初めてだし、元々、伊織は幼馴染以外の女子の対応が上手ではない。それに、そもそも伊織に話しかけるもの好きな女子なんていない。今日の春花さんは例外だが。
だから、全く話さない伊織に声をかけてきたのは冷泉さんだった。
「ねえ」
「はい」
冷泉さんは振り返って、その黒がかった茶色の瞳で伊織をじっと見つめる。
「新田君は親族がいるのかしら?」
「親族?」
「いや、言い方が悪かったわね。ご兄弟の話よ。」
「兄弟?いや、いない。姉と妹がいるだけだね。」
「そう」
だから、伊織は残念そうに頷く冷泉さんを見て、話は終わったとばかりに前を向いていた。なんで冷泉さんがそんな事を聞いてきたかは疑問だが、何かあったのだろうと勝手に自分で納得しながら。
そうして、伊織は日直の仕事の一環で、ゴミ捨て場にゴミ袋を放り投げる。だが、どうやら、伊織達は来るのが遅かったみたいで、辺りに人は誰もいなくて、もうやることもないだろうと判断した伊織は冷泉さんに向き返った。もう帰りましょうかとでも言う為に。
だから、その美少女が薄ら笑いしている様子はなんかどっかで見た記憶があって、少し怖かった。
何か恐ろしい事を言いそうで。
どっかで風が吹いて伊織の髪をかきあげた。
「ねえ、新田君、私と付き合ってくれない?」
「え?」
「聞こえなかった?付き合って欲しいのだけれども」
若干、フリーズした伊織はすぐに正気を取り戻して、応対する。
「あー。どっかにって事?良いよ、どこ?」
「違うわ。私と、その・・・恋愛契約を結んで欲しいの。」
「まじ?」
「まじね」
頷く冷泉さんとかなり引きつった顔をしている伊織。
「話したの初めてだよね?」
「そうね。初めてね。」
空に広がる雲を見て、心を落ち着ける。そうして、もう一度冷泉さんの綺麗な顔を見て、一言。
「昔、結婚の約束とかしたっけ?」
「あなたは何を言っているの?」
「ですよね。」
伊織には分からない。なんで、小さい頃に結婚の約束も何もしていない少女に今、告白をされているのか。だけど、冷泉さんはそれを明確に明らかにした。
「別に、新田君が宮本さんと付き合うのは全然構わないわ。」
「え?」
「いや、好きなんでしょ?彼女のこと?」
「え?なんで知ってんの?」
「そんなの見てれば分かるわよ。」
「まじ?」
「まじね」
そして、伊織は天を仰ぎながら、冷泉さんに疑問を投げた。
「どういうこと?」
「私には、婚約者がいるの。だから、高校の間は特に何も起こらないように平穏に過ごしたいの。毎日、告白されるのもこの前の教室に来たような3人組みたいなのに絡まれるの正直、面倒臭いの。」
「つまり?」
「告白されたり、絡まれたりした時の為の「彼氏」っていう保険が欲しいだけなの。」
冷泉さんの婚約者と言う存在にビビりながらも、伊織は思う。確かに、綾乃みたいに女子のグループで固まっていない冷泉さんは告白や絡まれたりする的になっていることは事実だ。
「それで?」
「告白されたり、絡まれたりするのが嫌ならば彼氏を作るしかないわ。でも、私には婚約者がいるから、誰か私の事を好きな人と付き合うのは出来ないわ。私に必要なのは高校生の時だけの恋人だから。高校生の時だけで、きっぱり諦めてくれる人じゃないとダメだし、そんな人を私の事を好きな人から選ぶのは難しいわ。」
つまり、冷泉さんに必要なのは冷泉さんの事を好きでは無い恋人。
「だから、冷泉さんの事を好きじゃない俺なら良いと。」
「そうなるわね。新田君は宮本さんの事が好きだから。」
「でも、なんで俺なんだ?」
根本的な疑問。そもそも、なぜそれが伊織なのか。
「これね。」
そうして、冷泉さんは一枚の現像された写真を差し出す。そこに写っているのは、屋上の鍵を閉めている伊織と友達の伊達君と紫宮君。
「私がお昼を食べていた時、見つけたのよね。この前、教室に来た3人組が屋上にいるのを確認して、新田君達が屋上の鍵を閉めていたのを。」
「え?」
「別に、先生に言うつもりも全く無いし、私、個人としては3人組から私を守ってくれた新田君達には感謝してるわ。だけど、新田君に私の申し出を断る拒否権は無いわ。」
「ちょっと、待って。」
伊織たちが屋上の鍵をしめた事によって3人組が屋上から出られなくなって、ずっと屋上にいた事によってすごく怒られたのは知っているが、まさかそれをみている人がいたとは。
「別に、新田君はただ怒られるだけで済むとは思うのだけど、他の3人は部活のレギュラーでしょ。まだ一年生とはいえ、この学校には推薦枠もあるし。もし、私が言ったらどうなるんでしょうね。」
冷泉さんがふふっと不気味に笑う姿も充分怖いが、それより伊織の気になる事が一つ。
「待って。他の3人って言った?」
「そうだけど。あー。勿論、京極君もいたわよ。」
「え?」
「京極君は止めていたみたいだったけど、新田君がやらせていたわよね?」
「そ、そんなの知りません。」
「京極君は止めていた筈なのに、新田君のせいで部活動停止みたいな事になったらどうなるのかしらね。」
京介の性格上、もしバレたりしたら自分も伊織達と同罪だとか言い始める筈だ。というか、そもそも京介は何もやってない。伊織達が屋上の鍵を盗んできて、閉めていたのを見ていただけだ。でも、もし事件になったりしたら、京介は絶対に自分も伊織達と一緒にやったとかいう筈だ。
別に、伊織は正直、部活動停止になろうが、推薦枠を取り消されようがどうでも良いが、京介が推薦枠とか部活動とかが取り消されたりするのは非常にまずい。京介の周りにいる人達も騒ぐだろうし、何より綾乃に知られるだろう。伊織にとって一番怖い事は、綾乃に嫌われるのであるから。
伊織は知った。この世界で一番、怖いのは女だと。
「一つ聞いてもいいか?」
「何かしら?」
「俺は冷泉さんの彼氏として何をすればいいんだ?」
ただ、告白避けとして使いたいだけであるならば、別に伊織的にはどっちでも良い。でも、デートとかに行くのは面倒くさい。何度でも言うが、伊織が好きなのは綾乃だ。
「別に私が告白されている時に、側にいてくれるだけで良いわ。」
「本当にそれだけか?」
「何でわざわざ嘘をつくのよ?」
「まあ、ならいいけど。」
「でも言っておくけど、俺は適当だぞ。」
「そうじゃなきゃ、新田君に声をかけてないわ。」
「知ってるならいいけど。」
そして、地面に体育座りして、何かを考えている伊織の側に立って、冷泉さんは言葉を続けた。
「だから、よろしくね。新田君。」
これから何度も何度も見る事になる意地の悪そうな微笑をその悪魔みたいな綺麗な顔に携えて。
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