エピローグですか?
深い皺が刻まれた指が、キーボードの上を滑らかに舞う。
その指と同様に、その人物の手にも顔にも多くの皺がある。それらの皺は、その人物がこれまで重ねてきた人生という名前の時間の積み重ねに他ならない。
モニターを眺める眼鏡の奥の瞳には、とても真剣なものが見て取れる。
今、その人物が行っている作業は、おそらくその人物にとってとても大切なものなのだろう。
その後も真剣な表情で、その人物はキーボードの上に指を滑らせ続けた。
ミスのない正確なキータイプは、その人物が完全にそれに慣れきってきることを無言で物語る。合わせて、その人物の生真面目な性格も。
それから一時間はその作業を続け、ようやくきりがついたのか、その人物はふぅと肩から力を抜いた。
それに合わせるかのように、傍らに置いておいた携帯電話が着信を告げる。
受信のボタンを押し、電話を耳に当てた途端、その向こうから聞き慣れた声が響く。
『どうですか、先生? 原稿の方、順調に進んでいますか?』
「ああ、今しがた完成したところだ。一度推敲してから、そちらに送るよ」
『ありがとうございます! いやあ、本当に先生はいつも正確に〆切を守ってくださるから助かりますよ。他の作家の先生方も、先生のような人ばかりだったら私どもの仕事ももっと楽なんですがねー』
「ははは、こればかりはその人の性格だからね」
先程モニターに向かっていた時とは別人のように、その人物は朗らかな表情で言葉を交わした。
彼は高名な小説家である。
高校生の時にとある体験をして、それがきっかけで文章を書くようになったのだ。
彼が体験したのはかなり珍しいものだったので、最初はそれを記録する意味で細々とエッセーを書いていた。
とはいえ、折角書いたものをそのまま単なるパソコンのデータとして死蔵しておいては勿体ない。どこかで公表してみたらどうだ、と友人の一人に勧められて、とあるインターネットの投稿サイトに投稿するようになった。
もちろん、そんな一個人のエッセーに多くの人は目も向けない。それでも、徐々に一部のコアな人々の間でそれなりに有名な存在となっていった。
やがて彼のエッセーを読んだある人物が、その体験を元にした小説を書いてみないか、と彼に持ちかけたのだ。
もちろん小説を書くのだから、彼の実際の体験ばかりではなく、それを元にしたある程度の演出や脚色も必要になる。それでもその提案をおもしろく感じた彼は、四苦八苦しながらも小説を書いていった。
異世界の異種族であるエルフの少女を、主人公にしたファンタジー小説。
異世界からやって来たエルフの少女が、こちらの世界──日本でさまざまな人々と事件に出会い交流や親交を深めていく、どちらかと言えばほのぼのとしたストーリーの小説だった。
彼自身の才能もあっただろう。また、彼の周囲には良きアドバイザーも揃っていたのも理由のひとつだろう。
最初は細々としたアクセス数しかなかった彼の小説は、徐々に読む人間を増やしていき、ついには出版という日の目を見るようになる。
彼が初めてその著書を世に出したのは、大学生を卒業しようかという年齢の頃。その後は小さな会社に務めながら小説を書き続け、30歳を越える頃には小説を己の生業とするようになった。
そんな彼もいつの間にか60歳を越え、もうすぐ70歳に手が届くような年齢になった今では、押しも押されぬ巨匠作家の一人として数えられるまでになったのだ。
そんな彼が、いつだったか何かのイベントにゲストとして出席した時、ファンの一人からこんな質問をされたことがあった。
「先生の書くファンタジー小説は、人物やストーリーも魅力的ですが、背景となる世界観もいつも細かく作り込まれていますよね? どうやってあんなに細かな世界観を作り出すのですか?」
というこの質問に、彼はにこやかにこう答えた。
「実は僕の妻は異世界出身のエルフなのです。その妻から僕は、出身地である異世界のことをいろいろと聞いているんですよ。だから、別に細かく世界観を設定しているわけじゃなく、単に妻から聞いた話をそのまま小説にしているだけなんです」
彼のこの答えに、そのイベントに集まっていた者たちは大きく笑った。
誰もが、その答えは彼の冗談だと思ったのだ。
まさか、彼の妻が本物のエルフであるとは、誰一人として思いもしなかっただろう。
その後、彼は自分の書いた原稿を一通り推敲し、その体を椅子の背もたれにぎしりと預けた。
丁度その時。
彼の書斎の扉をこつこつと叩く音と共に、長年彼が耳にしてきた澄んだ声が聞こえる。
「どうですか? お仕事ははかどっていますか?」
「ああ、一区切りついたところだよ」
彼がそう答えると、扉が外から開かれて、一人の少女が書斎に入って来た。
雪のように白い肌と、その肌を彩る輝く金髪。そして何より、その金髪より突き出した長くて尖った特徴的な耳。
彼女はお盆を持ち、そのお盆の上には彼愛用の湯呑み。もちろん、その中味は緑茶である。
「お茶淹れましたけど……飲みますか、ヤスタカさん?」
「もちろんもらうよ、エル」
巨匠作家とその妻──康貴とエルは、いつものように楽しそうに微笑み合った。
「お仕事が一区切りついたのなら、お散歩にでも行きませんか? 桜がとっても綺麗ですよ?」
エルに言われて、康貴は書斎の窓から外を眺める。
確かに彼女の言う通り、窓から見える桜は今が満開のようだった。
「そうだね。これ以上は急ぎの原稿も他にないし、今日はゆっくりしようか」
「はいっ!!」
康貴の言葉に、エルは嬉しそうに笑う。
「じゃあ……今日はどんな設定にします?」
「そうだな……うん、今日は『夫婦』にしよう」
「はい、分りました。ツィールくん、お願いね」
そう口にしたエルの傍らに、小さな人影が一瞬だけ現れる。その直後、若々しいエルの体が、康貴と同じぐらいの年齢の老婆へと変化する。
幻の精霊であるツィールと契約して早数十年。確かにこちらの世界のマナは薄いが、それでもエルの精霊使いとしての実力は確実に伸びていて、こうして全身を幻で覆っていても数時間は効果を保てるようになっていた。
エルはこのようにして幻を使い分け、康貴の「妻」になり「娘」になり、時には耳だけを隠して「孫娘」となって、二人で仲良く出かけていく。
ご近所からも、仲のいい家族として見られているようだ。ただし、「娘婿」の姿だけは誰も見たことがないので、どうやら康貴の「娘」は一度結婚はしたものの、子供を連れて出戻ったと思われているらしい。
こうして外見的に釣り合った夫婦として、康貴とエルは仲良く寄り添いながら散歩へとでかけるのだった。
近所の桜並木を、桜の花を眺めながらゆっくりと歩く康貴とエル。
こうして、エルと一緒に桜を眺めながら歩くのはこれで何度目だろう。隣を歩くエルの姿を横目で見ながら、康貴はこれまでの人生を振り返った。
突然現れた、異世界からの来訪者であるエルフの少女。
出会い、恋に落ち、そして結ばれた、康貴にとってはまさに運命であった永遠の少女。
もちろん、これまでの長い人生の間、些細なことから大喧嘩をしたことだって何度もあった。それでもこうしてあの時の約束通り、彼の人生が終焉を迎えるその時まで、エルは自分の傍にいてくれるだろう。そのことが、康貴には何より嬉しい。
「なあ、エル」
「何ですか?」
「僕ももう、それほど長くは生きられない……僕が死んでから、エルはどうするつもりなんだ?」
決定的に違う人間とエルフの寿命。康貴はあとせいぜい10年から20年ほどしか生きられない。いや、もしかすると残された時間はもっと短いかもしれない。
それに対し、エルの寿命はまだまだ400年以上は続くのだ。
今の康貴にとって、自分がいなくなった後のエルのことは、他の何より心配なのだった。
「そうですねぇ……結局、私たちの間には子供は生まれませんでしたし。タカシさんとアオイさんはあんなに家族や親族が一杯なのに」
彼女の言葉通り、彼らは最後まで子宝には恵まれなかった。
人間とエルフでは生物として違い過ぎるのか、それとも、生まれた世界が違うことで子を成すことができなかったのか。
もしかすると、単に康貴とエルのどちらかの肉体的な問題だったのかもしれない。
何が理由かは分らないが、やはり子供が生まれなかったことが康貴には少し寂しかった。
そんな彼らとは対照的に、隆とあおいは子宝に恵まれまくった。
3人の子供とその配偶者たち、そしてその孫を合わせると20人近い大きな親族となっている。
隆は現在、父の後を見事に受け継いでこの町の市長として活躍し、あおいはその妻として元気に暮らしている。20代、30代の頃はやや疎遠になっていたものの、お互いに年を取った今では、昔通りにしょっちゅう康貴たちと顔を合わせる間柄だ。
康貴がそんな旧友たちのことを考えていた時、横からはっきりとした決意のある声が響く。
「……近い将来、ヤスタカさんが天寿を全うしたら……私はあの短剣を使おうと思っています」
世界を渡る魔力を秘めた短剣。あの短剣を、今でもエルは大切に保管してある。
「自分の世界に戻れるかは分りませんが……仮に全く知らない第三の世界に行ったとしても、私は冒険者ですからね。どんな世界だって生き抜いてみせますよ」
自信に満ち溢れた表情で、エルは朗らかに笑う。
「でも、そうすると……こちらの世界での私の戸籍、どうしましょうか?」
「放っておけばいいさ。戸籍がいつまでも残っていたからといって、誰かに迷惑をかけるわけじゃないしね。どうせエルが異世界に旅立って数十年が過ぎてから、戸籍の消し忘れとかで少し問題になる程度だ」
人間の寿命はある程度決まっているので、それを大きく過ぎた場合、戸籍だって当然それなりの処分をされるはずだ。
実際にどんな問題になるかはその時にならないと分らないが、康貴は当然その時に生きてはいないし、エルもこちらの世界にはいないだろう。
「でも、それまで……まだ時間はありますよね?」
「ああ。僕も今すぐくたばるつもりはないからね。あと10年……いや、20年はがんばるつもりだよ」
「はいっ!! まだまだ二人でがんばりましょう!」
これまでそうしてきたように、康貴とエルはそっと手を繋ぐ。
これからも、二人は今まで通り寄り添って生きていくだろう。
ゆっくりと桜の花の下を歩く二人の頭上に、ちらほらと幾つかの桜の花びらが舞い落ちる。
それはまるで、二人のこれまでを、そしてこれからを祝福するかのようだった。
居候はエルフさん ムク文鳥 @Muku-Buncho
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