忘れられない恋がある。あの頃私はまだ精神的に幼くて、恋だとか、愛だとか、口に出して騒ぐことはできなかったけど。大人になった今では、ちゃんとわかる。あれは、間違いなく、あたしの初恋だった。


 その初恋の人、佐野 まことに出会ったのは、中学2年生の、9月のことだった。一目惚れ……なんて、ロマンチックなものだと良かったんだけど、あたしたちの出会い方は、そんなにいいものじゃなかったんだよね。


『猫の目で見る世界』


 そうタイトルをつけて、あたしがあの絵を描いたのは、たぶん、幼い頃に聞いた子ども番組の博士の話があったから。


 四つ切り画用紙いっぱいに描いた、猫の目。その奥に広がるのは、深くて静かな海の底の景色。魚やイルカやクジラが泳ぎ、海底の砂場や岩場にはサンゴやエビや、貝がたくさん。普通そこはないはずの家具や文房具の姿もある。海の生き物たちは、それらと自然に共存している。猫の目の中は決して狭くはないけれど、外の世界に興味を持った魚たちが、目から飛び出していく。すべてが青と、緑と、少しの黄色に滲んだ世界。


 学校の美術の時間に、課題として描いたものだった。題材は何でもいいよ、と言われたから。何も考えず、その絵を描いた。


 ……それがまさか、学校の廊下に飾られることになるなんて。それも、あんな恥ずかしい『感想文』とともに。



「ひより~、あんたの絵、飾られてたよ」


 登校した朝の教室で、ニナがそう声をかけてきたとき、はじめ何のことだかわからなかた。だけど、ニナが意地悪い顔で続けた言葉ですぐに話が繋がり、あたしは愕然とした。


「『世界は、もっと素晴らしいものに見えているのかもしれません。私はそう信じます』」


 さーっと、全身の血の気が引いた。


 なんで、なんで、なんで。あれは、授業の感想文のはずだった。美術の先生しか、見ないはずのものだった。だから無防備に、思うままを書いたのに。それなのに、まさか晒されようとは、ひどい裏切りだ。


「あんたって、ロマンチストだったんだね、ひより」


 あたしは駆け出していた。絵が飾られているという、西棟の一階の廊下に向けて。


 授業終わりに配られた感想文。あなたがこの絵を描いた理由を教えてください。プリントに印字された問いに、あたしは答えた。


『猫の目は、たった3色しか色を識別できません。他にもたくさんある色がわからないなんて、可哀想だってはじめは思っていました。でも、猫には猫の見え方で、その世界が私たちとは違ったふうに見えていて、もしかしたら、私たち人間よりも、世界はもっと素晴らしいものに見えているのかもしれません。私はそう信じます。その気持ちを込めて、この絵を描きました』


 あんな恥ずかしい"語り"、誰にも見られるわけにはいかなかった。イタいやつだと、思われてしまうから。


 中学生というのは難しい年頃で、周囲の視線が異常に気になるし、他人のちょっとした言動にも、裏の意味があるんじゃないか、あたしをバカにしてるんじゃないかって敏感になってしまう。


 あのねぇ、と大人は説く。それが、当然の真理だとでもいうように。


『人はね、誰しもそんなに暇じゃないんだよ。自分のことでいっぱいいっぱいで、他人には実際、毛ほども興味がない。だから、そんなにおどおどしなくたって、いいんだよ。アンタのことなんて、誰も気にして見てないんだから』


 そんなわけない。だってほら、あの集団。あの女子の仕草ひとつをとって、何日もバカにして盛り上がってる。ほら、あの男子だって。たった一回の失言が尾を引いて、今日もみんなにハブられてる。


 今頃教室では、ニナがあたしの感想文のことを言いふらしているかもしれない。

『ひよりってば、語っちゃって、イタいよね』

 あの子の声が聞こえるようだ。教室に帰るのが怖い。みんなが一斉にあたしをみて、笑うんだ。きっと、そうに決まってる。


 どうして、あんな絵を描いてしまったんだろう。どうして、あんな感想文を書いてしまったんだろう。どうして、先生はあの絵と感想文を飾ったの? まさか、あたしをイジメの標的にでも仕立てるつもり? 


 そんな被害妄想じみた非難と後悔を抱えながら、あたしは絵のもとへと必死で走った。

 

 感想文だけでも、何が何でも、破り捨てないと。


 やっとの思いで西棟の廊下にたどり着き、件の絵を見つけた瞬間、あたしの頭は真っ白になった。男子が立っていた。あたしの絵の前に。


「見ないで!」


 悲鳴のような叫びが喉をつく。焦りにまみれた、ひどい声だった。


 絵の前にいた男子が、ゆっくりと振り返った。メガネをかけた、大人しそうな子だった。そう認識したとたん、肩から力が抜けた。あたしの感想文をネタにして、面白おかしく騒ぐようなタイプには見えない。そういうことをするのは、往々にして、クラスの中心的な目立つタイプの男子で、大人しそうなこの子ではあり得ない。


 あたしはずかずか進み出て、絵の横に画びょうで留められた感想文を引きはがした。


「……この絵、君のですか」


 見た目通りの穏やかな声音で、その男子は言った。とぼけるつもりだったけど、胸元の名札を見られてしまった。名札の名前は、絵の下に書かれた名前とおなじ。


「だったら、なに」


 あたしの感想文はたぶんもう、読まれている。恥ずかしくて、強い口調になってしまった。だけど、その子は気にする様子も、ひるむ様子もなかった。それどころか、


「作者の方に会えて光栄です!」


 きらきらした目であたしを見る。


 もちろん、あたしはどん引きだった。やばいやつに捕まったって、冷や汗ダラダラだ。それにこの子、あたしのこと、『君』って呼んだ。中学生のくせに、まるで大人みたいに。


 これまで、他の生徒の絵がこうして飾られているところをあたしも見たことがある。でも、こんなふうに立ち止まってまで絵を鑑賞する人をはじめて見た。ああいうのは、壁の模様のひとつとして、誰も気に留めないものだと思ってた。ただその前を通り過ぎ、あるときふっと違和感を覚えて、今までそこにあったはずの模様が消えていることに気付く。そうなってから、ああ、ここにはたしか絵が飾られてたんだけって、大した感傷もなく、思う。なのに、この男子ときたら、まるで美術館の絵を鑑賞する評論家みたいに、後ろで手なんか組んじゃって、あたしの絵をじっくり見てる。……おかしすぎる。


「猫が見る世界の美しさと、彼らが見ることのできない色に対する憧れ。その哀愁が見事に表現されています。素晴らしいです」


 なんか、語り始めちゃったし。これは、まずい。


「ああ、この絵を見ていると泣きそうになります。ぼくは、この絵の猫といっしょだから」


 あたしは気づいた。このメガネくんは、一緒にいたらダメな人種だ。やばいやつだって、みんなが避けていく、集団の中のつまはじき者。話をしているところを誰かに見られたら、あたしまで同類だと思われてしまう。


「この絵、どうするんですか」

「は、え?」

「返却されたら、どうするんですか」

「どうって……普通に、持って帰るけど……」

「持って帰って、どうするんですか。飾るんですか」

「いや、あの、」

 いつも、どうするんだっけ。持って帰って、その辺において、しばらくうろちょろしてるけど、そのうち無くなってる。たぶん、お母さんが拾って捨てるんだ。


「もしよかったら、この絵を、ぼくにくれませんか」


 だれが、あたしが、あんたに、この絵をあげる?


 混乱した。だって、学校で描く絵なんて、あげるとか、もらうとか、そういうのが歓迎されるたぐいのものじゃないでしょ。


 チャイムが鳴った。朝の会が始まる。助かったと、じりじり後退する。


「ぼく、佐野誠っていいます!3年2組の!また交渉に伺います!」


 いや、いや、いや、来ないでよ、怖いから。

 背中に声を受けながら、あたしは教室に逃げ帰った。



 結局、あたしの感想文のことが教室で話題に上がることはなかった。


「えー、はがしてきちゃったの? ウケる。いいこと言ってたのに」


 ニナはころころと笑いながら、次の瞬間にはもう興味を無くしたように、塾のウザい先生について話し始めた。


 少々白けた気持ちで、あたしは感想文をゴミ箱に捨てた。

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