【短編】隣の席の女子が、自分のにおいを嗅いで欲しいと、お願いをしてくるのですが。

手嶋ゆっきー💐【書籍化】

僕は、彼女の香りに惹かれていく。

「西場君……私臭くないかな? ヘンな匂いしない?」

「えぇっ。えーっと……」


 季節が春から初夏へ移ろい、やや汗ばむような陽差しがまぶしいある日のこと。

 高校一年の関川由里子せきがわゆりこは、唐突に隣の席に座る男子——西場幸にしばこうに声をかけた。

 彼女は恥ずかしいのか少し顔を赤らめて、うつむいている。

 こうは彼女の方を向き、鼻をヒクヒクさせ、くんくんと匂いを嗅いだ。彼は、人一倍匂いに敏感だ。彼女の方向に顔を向けると、少し距離があるのにも関わらず、かすかに由里子から漂う香りを感じとった。


「大丈夫、良いにお……変な匂いなんかしないよ?」

「そっか。良かった」


 安心して笑顔をこぼし、はにかむ由里子。

 平静を装っている幸の内心はというと——。


 やっべえ。すっごく、いい香りがする。甘く石鹸のような、さわやかな香り。ボディーソープ? それともシャンプー? どこのメーカーの使っているのかな?


 と、大いに盛り上がっていた。そんな気持ちを隠すのに必死に声のトーンを抑える。

 肩まで伸びた、ストレートの髪から漂う由里子の香りは、幸の心をくすぐっていた。

 これがまさか、毎日行うになろうとは、この時点で幸は思いもよらなかった。


 それにしても……なぜ聞いてくるのだろう?


 由里子は、クラスでは一人でいることが多かった。いじめられてるわけでもなく、彼女自身が他の人との距離を置いているようだと幸は考えていた。

 薄々感じていたのだが、隣の席になったことでよく見えるようになり確信を深める。


 幸は彼女に好意を持っていた。隣の席になるまで、あまり話したことはなかったものの、彼女の前髪を分けるクセが可愛いと思っていた。だから席替えで隣になったことは、嬉しくて仕方なかったのだ。「その上、匂いを嗅いでくれなんて。いったい、どんなご褒美なんだ!」と、彼はとても喜んだ。単純な男なのであった。


「あの……どうしてそんなこと聞くの?」

「あっ。あのね、西場君って、匂いに敏感そうな表情をしていたから」

「えぇっ?」


 まずい。もしかして匂いに喜んでいたのバレている? 変態だと思われている?


 幸は心配になったが、どうやら違っていたようだ。


「前ね、西村君が持ってきてた机の奥のお菓子のこと、匂いで気付いたでしょう?」

「ああ、アイツが持ってきたのがカビてたやつね。取り出したら袋の中に腐海が誕生していて、あの時は騒ぎになったなぁ」

「うん。それで、匂いに敏感なのかなって」


 すると幸には別の疑問が湧く。そもそも、なぜ、聞くのか?


「どうして匂いが気になるの?」

「それは……あの、昨日、先輩に告白されて……」

「えぇっ?」

「付き合おうと思ってるから」

「えぇぇっ?」


 がーん! 幸は、ショックで声が出そうになるのを我慢した。

 そんな……いきなり、失恋なのか? つらい。つらすぎる。モウ、イキテ、イケナイ……。

 幸は絞り出すように言葉を発した。


「そ、そう、おめでとぅ」

「うん、ありがとう! だから彼に嫌われたくなくて……」


 由里子の顔は、少しだけキラキラしていた。それは幸には受け入れがたい事実だった。しかし、弾む彼女の言葉が彼に希望を与える。


「毎日、私の匂いを感じて欲しいの……」

「はえぇっ?」


 彼女の声に幸は何かがひしゃげるような変な声を発した。妙に色気を感じる彼女を見ると、とても恥ずかしそうにしている。幸はその姿にとても可愛いと興奮をした。

 由里子の香りを、堂々と、毎日嗅げる……! 内心では、「やったぜ!」という気持ちが渦巻いていた。


「わ、わかった。する」

「ありがとう!」


 由里子は、ぱっと表情を明るくした。その顔を見て、幸は気分が高揚し、頭の中で語り始める。


 を兼ねたことをお願いされたんだ。断るなんてとんでもない。できる限り、しよう! 彼女が喜んでくれるなら、それでいいじゃないか。影から応援する男。その名は……幸。


 彼の脳内で早くも、英雄物語が語られていた。


 この日から毎日、彼にとって幸せで、少し切ない時間が放課後に訪れることになったのだった——。




「あの西場君……お願い……」


 翌日の放課後、教室にて。昨日と同じように、由里子が少し顔を赤らめながら、視線を下げ聞いてきた。

 これから部活動で先輩に会うのだろう。幸は、そう考えるとキリリと胸が痛む。

 しかし、しょうがない。彼女の方を向いて、すんすんと匂いを嗅ぐ。すると、昨日と同じような由里子の甘い匂いを感じた。心地よいシャンプーの香り。

 彼女はとても清潔にしているのか、汗をかきにくいのか、シャンプー以外の香りを感じなかった。


「大丈夫だよ」

「わかった。ありがとう」


 由里子の顔が綻ぶ。やや紅潮している頬を見て「ああ、この一瞬の笑顔のためにやってるんだな」と、自らのに悦に浸った。

 スキップしそうな勢いで去って行く由里子の背中を見て、幸は今だ解決しない問題を考え始める。


「なぜ、匂いがそんなに心配なのだろう? コンプレックス?」


 そう独りごちる。多分、クラスの中で皆と距離を置いているのは、それが原因なのだろう。

 そして……もう一つの事実に行きつく。匂いが心配でも、変だったとしても、幸ならどう思われても大丈夫——つまり、男としてまったく意識されていない。下手すると嫌われてもいいとすら思っているのかもしれない。だからこそ、匂いのことを頼めるのだ、と。


「はぁぁ」


 幸は一人で落ち込む。もっとも、毎日好きな人の匂いを嗅げるという特典がある以上、落ち込んでいたとしても、たいしたことはなかったのだが。彼は、少しだけ肩を落として、その日は帰宅した。


 幸は、自宅に帰ると、由里子のことを姉に聞いてみることにした。姉は社会人。ポニーテールがよく似合うと幸は感じている。


「姉さん、聞きたいことがあるんだけど」

「んー? 好きな子でもできた?」

「ぶっ。いや、そんなんじゃなくて」

「図星か……そういう話大好物だよ。話してみ?」


 彼は姉の好奇心を無視して、疑問だけを言うことにした。


「女子が匂いを気にすることってあるの?」

「だいたい気にするんじゃない?」

「いや、気にするにしても……隣の席の男子に聞く? つきあってる先輩に嫌われたくないとかで」

「ふーむ。好きな子にそう言われたんだ。まあ、まだ脈はありそうだなぁ」

「いや、そうじゃなくて……えっ? マジ?」


 話が脱線しても、姉の言葉に食いついてしまう。幸は分かっていても、やめられない自分に落胆しつつも、話を聞くことにした。脈があるって?


「まだ、その彼氏とは距離があるってこと。あんたには聞けることが、彼氏には聞けていない。それだけ彼氏が好きなのかもしれないけど、その距離が縮まない以上、チャンスがある」

「そこを詳しく……!」

「そうだなぁ。コンプレックスがありそうなら、聞けたらいいかもなあ。当然彼氏に話していないだろうし」

「ふむふむ」

「まあ自分のコンプレックスも話してあげれば、警戒も緩んで聞けるかもしれないな」

「何を話せばいい?」

「それくらい考えな。もう一つ、多分そのうち嗅がなくていいと言われる日があると思う。その時は、絶対嗅ぐなよ!」

「えっなんで?」

「察しろ。もし、言われても嗅いだなら、アタシがあんたをめる」

「えっ。はぁ……」


 幸は姉にめられないように、気を付けようと思いながら、自分の部屋に戻る。


「あれ? 聞こうと思ったこと聞けたんだっけ?」



 数日後。姉から聞いた作戦を決行した。自分のコンプレックスを伝え、由里子のコンプレックスのことを聞き出す。すると……うまく心を開くのに成功したのであった。

 コンプレックスの原因は、予想より重い話だった。



「あのね……私が小学校の頃、生き物係をしていたの。朝、ウサギが具合が悪そうで抱っこして先生のところに行ったんだけど、ウサギがすごく強い臭いがしたの。それでね、先生に預けてから、私はそのまま教室に行ったら、臭いって男子に言われて……」

「はぁ。そんなの、どうしようもないし関川さんの匂いじゃないのに」

「うん……。その日以降、臭い女、臭い女、っていじめられて」

「許せないなぁ。関川さんが優しいからそうなったのに。男子ってヤツは……」


 幸はわざと、偉そうに、分かったふりをして説教をする真似をした。僕はそんな男達とは違う、と宣言するように。すると、その大げさな様子が面白かったのか、由里子は口元を少し緩めた。


「西場君も男子だよ?」

「あっ。そういえば」


 ふふっと笑った由里子につられて、幸も笑う。彼女の笑顔に益々惹かれる幸だった。すると、彼女は少し真剣な目つきになり、幸の瞳を見つめた。


「ありがとうね。いつもお願い聞いてもらって」

「ううん。僕も疑問が解けて良かった」


 幸は、お願いというより全部ご褒美です! と、心の中で叫んでいた。


「西場君の意外なところが聞けてよかった。しっかりしてそうなのに、方向音痴なんて」

「それ関係ないよね? でもね、マジで困ってるの。もし僕が迷ったら関川さん、代わりに地図アプリを見てくれると嬉しい!」

「うん、いいよ!」


 由里子は、はじけるような、満面の笑顔で答えた。

 あれ? なんかいい感じじゃね? と幸は思った。同時に、ああ、この笑顔を独り占めできたらどんなにいいことか、とも。



 数日後。幸はなんと、新たな能力を獲得した! それは、匂いから由里子の気分が分かるという能力だった。実生活には全く役立たないが、幸にとってはこの上ない能力であった。

 実際の所、気のせいで、表情から読み取っていただけだが、幸は能力だと確信していたのである。


 すんすん……今日は少し元気が無さそうな匂いがする。幸はそう感じた。


「いい匂いがするけど昨日と違うような」

「シャンプーを替えたの」

「あ、そうなんだ。うん、大丈夫だよ」

「……ありがと」


 前の方が良い匂いだったんだけどなぁ。と幸はのんびりと思った。でも、そんなの好みだし、彼女が好きで替えたのなら、僕もその匂いも好きになるのだろう。幸は少しがっかりした気分になった。

 幸は、由里子に元気が無く、どう接していいか分からなかった。そのため、当たり障りのないことを言うに留めた。幸には、去って部活に行く由里子の背中が泣いているようにも見えた。


 もし明日も元気がないのなら、理由を聞いてみるかな。匂いが変わったのと関係があるのだろうか?



 翌日。やはり、匂いは変わったままだった。それに昨日より、もっともっと元気がないようだ。


「今日も大丈夫だよ。でも、どうしてシャンプー替えたの?」


 少し抗議するように言うと、幸は自らが放った言葉に後悔をした。由里子の目が広がり、幸を見つめたからだ。彼女の目は、少し潤んでいるように見えた。


 あっ。これはやっちまったかな。強く言い過ぎた?


「うん。実はね……、先輩が、替えろって」

「えっ? なぜ?」

「こっちがいいって……彼が好きなアニメに出てくる女の子が使ってたって……」


 幸は由里子の言葉が、さっぱり理解出来なかった。そんな理由で、わざわざ替えろというのは——彼女をなんだと思ってるんだ、と憤る。

 女の子と付き合った経験なんて無い。だけど、幸はもし由里子と付き合ったらと毎日妄想していた。その幻の景色の中にいる自分が答えるとしたら……と考え、思いついたセリフを口にしてみる。


「はあー。よく分からないな。僕だったら好きなの使えばいいと思うのに。彼女が選ぶならさ。しかも、アニメって」

「……やっぱりそうだよね? 西場君もそう思うよね?」


 幸は、彼女の反応を見て、正解を選んだのだと確信した。そして調子に乗って追い打ちをかける。


「うん。個人的には、前の方が好きだけど、関川さんが好きなものを使えばいいと思うよ?」

「前の方が私も好き」


 由里子は、にこりとして言った。その笑顔を見て幸は、さらに調子に乗る。


「好き?」

「好き」


 ああ、好きな人が自分に向けて言うこの言葉は、なんて甘美なんだと幸はうっとりする。


「好き?」

「好き」

「好き?」

「って……何回言わせるのっ?」


 由里子が笑ったのと同時に、ふわっと、シャンプーの匂いと違う、がしたように幸は感じた。汗の匂いだろうか? 興奮した彼は、つい無言になる。


「…………」

「どうしたの? なんか顔赤いよ?」


 幸の目の前には、いつの間にか近づいてきて、顔をかしげた由里子がいた。幸は、先ほどの香りをますます強く感じた。それに、彼女の大きな胸が彼の視界に入り、追い打ちをかける。


「あ、いや、ごめん。関川さんからいつもと違う……匂いがして」

「あっ。もう……。西場君……」


 由里子は少し頬を膨らませ、そっぽを向いて距離を置いた。しかし決して声は嫌がるようなものではない。

 二人とも夕日に照らされているように、頬を真っ赤に染めた。

 しばらくの沈黙の後、幸が先に口を開く。


「ごめん……」

「ううん。いいよ…………また明日からも、お願いね!」


 彼女の声は明るくなり、少し弾んでいた。


「うん」

「じゃあ、ばいばい!」

「じゃあね。また明日」


 幸は、はじけるような笑顔で手を振る由里子を、いつもよりも何倍も可愛いと思った。それに……急に、曇り空が晴れるように清々しくなった、とも。「女子って分かんないな」と思いつつ、鼻に残る彼女の香りの余韻を楽しむ。



 由里子は、その日、彼氏である先輩に別れを告げたのだった。



 数日後。衣替えの日がやってきた。新しい制服の匂いがクラスに充満する。それは、幸にとって心地よいものだった。

 しかし、そんな平和な時間は放課後に突如、壊された。


「ね、今日もお願い! もーそれじゃわかんないかもしれないから、もっと近づいて欲しいな」


 二人きりの教室。

 由里子は前より幸に接近して、嗅いでもらうようにお願いをしてくる。

 最近、クラスの皆と彼女が話をするのを、よく見かけるようになっていた。コンプレックスが解消したわけでは無いだろうが、何かが吹っ切れたのかもしれない。


「な、何で、そんなに近づくの?」

「だって、夏服になったでしょ? 薄着になったら、もっと体の匂いを気にしなきゃと思って」

「そんな……十分、分かるからっ。大丈夫、とても良い匂いです!」


 思わず敬語になるほど、幸はパニックになっていた。

 由里子の意見は、どうも腑に落ちない。よく分かるなら近づかなくても良いのでは? 実際、彼女の香りは離れていてもよく分かる。

 最近は暑い日も多くなり、彼女の汗の臭いも感じられることもあった。それは決して不快なものではなく、むしろ心地よく感じる。

 それに薄着になった分、彼女の体の線がよくわかる。少し透けて見える肌の色は刺激が強く、前屈みになった瞬間に隙間から見える景色が妄想力に追い打ちをかける。


 幸は噂で、彼女が先輩と別れたことを耳にしていた。しかし、本当なのか、本人に聞く勇気が無い。


「ほんと?」

「うん。嘘は言わない」


 そういえば、放課後のこのの時間は、最近、妙に長くなっている。もっとも、その事実は彼にとって嬉しいことではある。


「ねぇ、西場君! 今度、香水買いに行くのに付き合って!」

「いいけど……なんで僕なの?」

「いいから! お願いね」


 はあ、と溜息をつきつつ幸は思う。もし、先輩と別れていたら、彼女を嗅ぐ理由がなくなる。もし、まだ付き合っていたら、噂を信じかけていた分、ショックだ。



 聞くべきか聞かざるべきか、いつまでも悩み続ける幸であった。






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*作者からのお願い*


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