第40話 子を成す意味
「王?」
「全く……私の妃達はなぜこうも、私が通う場所を勝手に決めようとするのだ。」
「も、申し訳ございません!」
紅梅は、慌てて謝る。
「黄杏の元へ通えと申すが、そなたの元を訪れたい時は、どうしろと言うのだ。我慢しろと言うのか?この私に?」
「えっ!あっ、いえ……その……」
困りながら、半分嬉しそうに照れる紅梅を見ていると、信志は紅梅もまた、愛おしいと思うのだ。
「黄杏の元も行く。だがそなたの元へも参る。紅梅も、紅梅のお腹の子も、跡継ぎが産まれる事と同じくらい、大切だからな。」
信志は、紅梅の肩を軽く叩こうとして、思いとどまった。
「……どうしたのですか?」
紅梅が、大きな瞳で信志を見つめる。
「いや……これからは、こうしなければな。」
そう言うと、紅梅の肩をそっと抱き寄せた。
「信寧王様……」
紅梅が信志の胸に、体を預ける。
王にとって自分はずっと、部下のような存在だと思っていた。
そして黄杏が宮殿に来てからは、もっと遠くに行ってしまったと。
もう自分の元へは、来てくれないのだと思っていた。
だが今は、一番欲しかった王の愛情が、何より近くにある。
「王……私は、幸せです。」
「そうか?これからもっと、幸せな暮らしが待っているぞ。私と紅梅と、産まれてくる御子との暮らしがな。」
「はい……」
それでもどこか、この幸せは一時的なものだと、感じていた紅梅。
だが不思議な事に信志の愛情は、紅梅が思う以上に、続く事になった。
お腹に子が宿り、半年が経つと言うのに、信志は毎晩欠かさず、紅梅の元を訪れていたのだ。
「今日も、私の子は健やかか?」
夜になると必ず寝台で、紅梅の大きくなったお腹を、信志は愛おしそうに摩った。
「もう少しで7か月になるのか。産まれてくるのが、楽しみだな。」
時には、耳をお腹につける事もあった。
「ああ。動いている、動いている。紅梅に似て、元気な子だ。」
子はかすがいだと言うけれど、こんなにも移ろ気な方を、自分の元へ引き留めておけるとは。
紅梅は、嬉しいどころか怪しくも感じていた。
ある日。
紅梅が大きなお腹を抱えて、外へと出ると、そこには花の手入れをする黄杏の姿があった。
こんな姿、見せる事はできない。
黄杏の子が流れたのは、この頃だから、ふとした事で思い出してしまうかも。
紅梅は黄杏に声を掛けずに、神殿へと行こうとした。
「あら、紅梅さん。」
だが幸か不幸か、黄杏から声を掛けられてしまった。
「お腹、大きくなりましたね。」
ここまで言われると、無視する事もできない。
紅梅は、ゆっくりと後ろを振り返った。
「……お元気そうね、黄杏さん。」
「紅梅さんも。」
手に綺麗な花を持っている黄杏は、なぜか和やかな雰囲気を醸し出している。
「なんだか黄杏さん。王が来なくても、大丈夫そうね。」
「そうなの。」
黄杏は頬に手を当て、突然困った顔をした。
「少し前までは、王がいらっしゃらないと、胸が潰れそうになるくらい悲しくて、眠れない時もあったのに。最近、王がおられない方が当たり前になってしまって……寂しくもならないなんて、一体どうしてしまったのかしら。」
紅梅は、口をあんぐりと開けてしまった。
王がいらっしゃらないと、胸が潰れてしまう?
そんな可愛いこと、自分は一度も思った事がない。
しかも、しばらく王がお訪ねにならないのなら、それはそれで、他の妃とよろしくやってるんでしょうよと、半ば諦めの気持ちも生まれると言うのに。
寂しくならない事が、おかしい?
紅梅は、ため息をついた。
「紅梅さん?」
「あなたには、つくづく負けたわ。」
「えっ?」
黄杏は、首を傾げている。
「どちらかと言えば、私が紅梅さんに負けたような気がするけれど。」
「ああ、なに?私の方が、先にお子が産まれるから?」
「はい。」
真面目に答える黄杏に、紅梅は白目を向く。
「あなたって、本当にお目出度いわね。」
「だって、そうでしょう?王をお慕いして、ここに来たんだもの。会えなかったら、悲しくなるのは、当然だと思うけれど?」
ここまでくると、黄杏の為に、一肌脱いであげたくなる。
まるで、姉のような気分だ。
「心配しないで。私が、王に言ってみるから。」
「ええ?」
「大丈夫よ。王はそろそろ、私だけの生活に、飽きている頃だし。密かに青蘭さんと、逢瀬を楽しんでいると思うし。」
それを聞いて黄杏は、また悲しい顔をする。
「やっぱり……青蘭さんの元へは、行くのね……」
「ああ、ほら!あの人は、半ば浮世離れしているところがあるから!」
紅梅は、黄杏の肩を揺らしながら、彼女を励ます。
「黄杏さんは、前と同じように、王をお迎えする準備をしていればいいのよ。」
「紅梅さん……」
そして紅梅は、にっこり微笑むと、大きなお腹を抱えて、屋敷へと戻って行った。
その日の夜。
紅梅は早速、王である信志に、黄杏の元へ通うように促した。
「黄杏の元へ?」
「はい。今日、黄杏さんとお話させて頂きましたが、とても寂しがっておられましたよ。」
そう言うと、信志はどこか複雑そうな顔をした。
「……そうは言っても、そなたには子が産まれるのだし。」
「それは、王の言い訳ではありませんか?」
紅梅と信志は、しばし見つめ合った。
「言い訳?私が、黄杏を避けているとでも?」
「はい。私に先に子ができました故、黄杏さんに合わせる顔がないのでは?」
信志は、紅梅から目線を反らした。
「やはり、そうなのですね。」
紅梅はここでも、ため息をついた。
紅梅から見ても、二人が思い合っているのは、明々白々。
すれ違っている原因だとすれば、自分しかないのだ。
「黄杏さんは、私に子ができた事など、なんとも思っていませんよ。」
信志は、ちらっと紅梅を見る。
「それよりも、王がお訪ねにならない事も、いつも気にかけていらっしゃいます。」
「黄杏が?」
その歪んだ顔は、紅梅から見ても、妬むくらいだ。
「お訪ねになって下さいませ。好き合おうて、一緒になった仲ではありませんか。」
自分で言うのも、辛くなってくる。
子まで成した夫の、想い人は違う人なのだ。
それを感じてか、信志も紅梅を抱き寄せる。
「すまぬ。」
「何を謝るのですか?」
「黄杏の事……子が産まれるまで、一緒にいると言ってたのに……」
心なしか、信志の抱きしめる力も、強くなる。
「いいのです。それに……」
紅梅は、信志から体を離した。
「それに、子を授かったのは、黄杏さんのお陰だと、この前お話致しましたでしょ?」
すると信志は、フッと鼻で笑った。
「そう、だったな。」
何か吹っ切れたような表情。
それがまた、運命の歯車が、回り始めた瞬間だった。
次の日の夜。
王の今夜の泊まり先は、黄杏の屋敷だと決まった。
何か月振りに、夫の顔を見るのだろうと、黄杏は考えたが、なぜか心は踊らない。
「ご公務、お疲れ様でございました。」
「ああ。」
信志を屋敷の玄関で迎えても、お互いよそよそしい。
「お酒を、召されますか?」
「そう、だな。」
席についた信志に、酒を勧めても、どこか心ここにあらずと言った雰囲気だ。
「どうぞ。」
久しぶり過ぎて、酒を注ぐ黄杏の手が震える。
「……緊張しているのだね。」
「申し訳ありません。」
ここで話が弾むと思っていたが、黄杏は謝ったきり、一言も話さない。
一体、どうしてしまったと言うのか。
「紅梅から、黄杏が寂しくしていると、聞いたのだが……」
「はい……」
「そうでも、なさそうだね。」
そしてまた重い空気が、信志と黄杏を包む。
「なんだか私達は、すれ違ってしまったようだね。」
黄杏は、じっと信志を見つめる。
元はと言えば、足が遠のいたのは、信志の方。
だがそれは、紅梅の懐妊と言う、お目出度い事もあったからで、それを責める気は、黄杏にはない。
もっと言えば、懐妊した妃よりも、自分の元に通わせるだけの魅力が、自分になかったと言えば、それまでだ。
「……それも、致し方のない事だと、思います。」
信志は、盃を黄杏に近づけた。
「そなたは、離れていた私に、嫌みの一つも言わぬのだな。」
黄杏は、酒を注いだ。
「嫌みの一つでも申せば、何か変わるのですか?それに、嫌みを言われたら、お困りになるのは信志様の方でしょう?」
「そうであったとしても、少しの嫉妬ならば、返って可愛いと言うものだよ、黄杏。」
酒を呑み干す信志を、大人しく見つめる黄杏。
「そうですね。そう言う事も、いつの間にか、忘れてしまったのかもしれませんね。」
黄杏は、窓の外に浮かぶ、月を眺めた。
その姿が、なんだか侘しい感じに見えて、信志は思わず、黄杏を後ろから抱き寄せた。
「……もう二度と、寂しい思いはさせないよ。」
「ええ……」
気が抜けた返事。
まるで黄杏は、違う人になってしまったようだ。
「なんだかそなたは、世捨て人のようだね。」
「世捨て人……ですか?」
その言葉に、ようやく黄杏は、笑顔を見せた。
「ああ。まるで、一切の欲を浄化したかのようにね。」
そう言って、信志も笑った。
「欲なら……まだございます。」
黄杏は、信志の手を握ると、体を離し向かい合った。
「私は、あなた様のお子が、欲しいのです。」
「黄杏……」
あまりの真剣な黄杏の瞳に、信志の方が、気恥ずかしくなる。
「……そう言えば、紅梅に薬草をあげたのは、そなただったね。紅梅に先に子ができたから、自分も欲しくなったのかな。」
「それも、あるのかもしれません。」
普通なら、違うと否定するところだと言うのに、正直に認める黄杏。
それはそれで、可愛らしいとも思える。
「それよりも、好いた方のお子が、私は欲しいのです。」
信志は、それを聞いて、目から鱗が落ちた気がした。
今迄の自分は、妃達が競って子が欲しいと言うのは、自分の確固たる地位を、誰よりも早く築きたいが為だと思っていた。
王に仕える妃達は、子がいるかいないかで、死に場所さえも天と地程変わってしまう。
祖父王や父王の妃達の末路を、身近で見てきたからこそ、そう分かるのだ。
好きな男の、子が欲しい。
それは、王である自分の妃になっていなければ、黄杏は故郷の村で、当然そのような人生を送っていたかもしれない。
それなのに、自分を好きになってしまったせいで。
自分が黄杏を、王宮に連れて来てしまったせいで。
女として、当たり前のような人生も、黄杏にはまるで宝石を探し当てる程、遠い夢のようになってしまった。
「ああ、そうだな。」
信志は、黄杏をぎゅっと、抱きしめた。
「でも、私は……あなた様の事が、誰よりも好きだから……あなた様とのお子を、私が産みたいと思うのです。」
それを聞いた信志は、黄杏の肩を掴む。
「嬉しいよ、黄杏。」
信志は、黄杏を壊れる程、強く抱きしめた。
「私も、そなたに私の子を、産んでほしいと思う。」
「信志様……」
見つめ合った信志と黄杏は、どちらからともなく、寝台へと横になった。
久しぶりの、二人の情事。
朝がくるのも分からない程、何度も何度も情熱的に抱き合った。
「愛してるよ、黄杏。」
「私もです、信志様……」
それから、2か月後。
黄杏に、懐妊の兆しが現れた。
医師が診断したところ、黄杏は子を身ごもっていった。
直ちに、忠仁は黄杏の懐妊を宣言した。
その事を誰よりも喜んだのは、愛し合う信志と、
黄杏の為に、人生を捧げた兄・将拓だった。
黄杏の懐妊を聞きつけた紅梅は、たくさんの祝い品を連れて屋敷へとやってきた。
「まあ、こんなに?」
「意外と必要な物って、多いのよ。」
そう言いながら、紅梅は大きなお腹を抱えて、椅子に座った。
「それにしても、あなたってちゃっかりしてるわね。」
「私が?」
黄杏は、自分を指さした。
「ええ、そうよ。久しぶりに王が訪れたと思ったら、いつの間にかお子ができてるし。」
「それは、紅梅さんも一緒だと思うのだけど。」
黄杏と紅梅は、顔を見合わせて、笑いあった。
「ところで、私達の産まれてくるお子だけれど。」
お茶をすすりながら、紅梅は大きく息を吸った。
「先に皇子を産んだ方が、国母になるのね。」
黄杏は、目を大きくしながら、紅梅を見つめた。
「……ええ。」
「あら、なんだか他人の話みたいに、感じているようね。」
黄杏は、紅梅にお茶を注いだ。
「白蓮様のお話だと、一度懐妊したお妃から、跡継ぎは産まれると言う事だから、今の時点ではあなたの方が、確率は高そうだけれどね。」
紅梅は、お茶を飲みながら、ちらっと黄杏を覗いた。
「それは、産まれてみなければ、分からないじゃない。姫君の可能性だってあるわ。」
黄杏は、ずっと下を向いている。
「あのね、黄杏さん。私、何もあなたを差し置いて、私が国母になりたいって、言ってる訳じゃないのよ。」
紅梅は黄杏の手に、自分の手をそっと添えた。
「私がお子を授かったのは、あなたが薬草をくれたお陰だし。それにね、黄杏さんにもお子ができて、私、ほっとしているのよ?」
「そうなの?」
「そうじゃない。私一人だけお子を産んだら、黄杏さんが流産したのも、黒音さんが亡くなったのも、私が何かしたからだって、思われるじゃない!」
紅梅は、ハッとして口を押えた。
「ごめんなさい。嫌な事、思い出させて。」
「ううん。」
黄杏は一度目を閉じた。
「そうね。どちらが先に男の御子を産んでも、恨みっこなしね。」
「そうよ。」
黄杏と紅梅は、手を取りあった。
「どんな名前が、つけられるのかしら。」
「きっと、王と同じような名前が、つけられるわよ。」
二人は一緒に、空を眺めた。
「どちらにしても、王にとっては、初めての御子なのね。」
「そうだわ。やっと王も、お父上になられるのね。」
それが自分の手で叶えられるとなると、紅梅も黄杏も、誇らしく感じられた。
「無事に生まれる事を、願っています。」
黄杏は、紅梅に一礼をした。
「私も。願わくば、皇子が産まれる事を。」
「まあ。紅梅さんったら。」
それから、1か月した後。
紅梅は産気づき、屋敷の中に産婆が駆け付けた。
だが、2日経っても生まれない。
業を煮やした信志は、紅梅の屋敷を訪れた。
「まだ生まれないのか!」
「もう少しでございます。」
うんうん唸る紅梅を他所に、女人達は産まれた時の産着や、産湯の準備で大忙しだ。
「ああ、紅梅。無事であってくれ。」
信志は、ずっと手を握りしめ、御子が無事生まれてくる事を祈った。
だが二日目の夜になっても、まだ御子は産まれない。
「王よ。今日のところは、一旦引き上げた方が……」
女人が気を利かせて、王に休むよう申し伝えた時だ。
「産まれます!」
産婆が叫んだ。
「紅梅!がんばるんだ!」
今にも産所に入りそうな勢いの信志を、女人達が止める中、紅梅の唸り声と共に、御子は産声を上げた。
「御生まれになりました!」
産湯につかった御子が、産婆の手で信志の元へ、届けられた。
「姫君でございます。」
信志の腕の中で、元気よく動き回る御子は、紅梅によく似ていた。
「王……男の御子でなく、申し訳ありません。」
紅梅の目には、涙で濡れていた。
「どうして謝るのだ。こんなにも、元気な御子を、産んでくれたと言うのに。」
信志は、紅梅の頬を軽く撫でた。
「よく……やってくれた、紅梅。」
「王?」
「よく……産んでくれた。感謝しても、感謝しきれない。紅梅、ありがとう。」
信志は涙ぐみながら、産まれた御子を抱きしめた。
「そうだ。御子の名を、決めなければな。」
信志は涙を拭くと、じっと御子の顔を眺めた。
「……明梅はどうだろう。」
紅梅は、手で顔を覆った。
「私の一文字を、授けて下さるのですか?」
「ああ。紅梅のように、美しくて強い女性になってほしいからな。」
紅梅は、うんうんとただ、頷くしかできなかった。
しばらくして、紅梅の父・忠仁も屋敷を訪れた。
「姫君でしたか。」
両手に抱いた忠仁も、涙目になっていた。
「紅梅を初めて抱いた日の事を、思い出します。」
信志にとっても初めての御子だが、忠仁にとっても、初めての孫がこの日、産声をあげたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます