第39話 紅梅の元へ

ある日。

忠仁から信志へ、一つの報告がなされた。

「おめでとうございます。第3妃・紅梅様、懐妊の兆しがございました。」

「紅梅が……」

信志は公務の途中で、椅子から立ち上がった。


「よかった。いつぐらいに産まれる?」

「来年の春ぐらいかと。」

「そうか。今から春が待ち遠しい。」

信志は、ソワソワと部屋の中を、歩き出した。

「忠仁。そなたも、感慨深いだろう。」

「はい。」

忠仁の目には、薄っすらと涙が、溜まっていた。


そして信志は、ある事を思い出して、ハッとする。

「……今度の子は、無事生まれてきてくれるだろうか。」

その一言に、忠仁も俯く。

「こればかりは、どうにもなりません。運を天に任せるしか……」

「そうだな。」

信志は、気が落ち着いたのか、椅子に座った。

「紅梅には、黄杏や黒音のように、悲しい思いをさせたくないものだ。」

信志は、窓の外から白蓮の屋敷を、見下ろした。


あれから白蓮の屋敷には、一切足を運んでいない信志。

噂ではやせ細って、一日の大半を、横になって過ごしているとか。

だが、白蓮の元を訪ねようにも、訪ねられない。

完全に、機会を失ってしまっていた。


「それと、白蓮様の事なのですが……」

忠仁の一言に、信志の体がビクッと飛び上がる。

「白蓮が、どうした?」

「はい。医師の見立てでは、このままですと、餓死する恐れもあると。」

「えっ?餓死?白蓮が?」

信志は驚いて、筆を入れていた箱を、落としてしまった。

慌てて拾おうとする信志の横から、忠仁の手が伸びる。

「忠仁……」

「どうか一度、白蓮様を見舞って頂けないでしょうか。」

落とした筆箱を拾いあげ、忠仁は机の上にそれを置いた。

「ああ……そうだな。」

信志は、忠仁が拾った筆箱を、しばらく見つめると、ハッとしたように、王宮を出て、白蓮の屋敷へと向かった。


だが白蓮の屋敷まで来て、予想外の事が起こった。

「奥様は、王にお会いしたくないそうです。」

「なに?」

信志は、廊下の奥にある、白蓮の部屋を見た。

「私は、白蓮の夫だぞ?妻が死ぬかもしれないと言う時に会えないとは、どういう事か。」

「申し訳ございません。奥様がどうしても、会えないと申しております。」

頭を下げる白蓮付きの女人を横を、信志は黙って通り過ぎた。


「信寧王様!」

「私が勝手に通っただけだ。そなたは、罪に問われぬ。」

そう言うと女人は、追って来なくなり、信志は真っすぐ白蓮の部屋へと入った。

「白蓮。」

暗い部屋の中、寝台の上に、横たわる人影があった。

それが白蓮だと分かると、信志は急いで、その枕元に近づいた。

薄っすらと目を開けている白蓮。

飲み物も口にしていないのか、唇は乾燥していて、ひび割れていた。

「白蓮、私だ。」

話しかけると、白蓮の目がだんだん、開かれていく。

「ああ……王よ……」

嬉しそうに微笑む白蓮だが、直ぐに顔を背けてしまった。

「どうした?」

「いえ……今の私は、やつれてしまって、とても王にお見せできるような、顔ではありません。」

そう言って、両手で顔を隠した。

「白蓮?」

信志は、その白蓮の手を、顔をから離した。

「……少し痩せただけで、いつもの美しい白蓮だ。さあ、顔を見せてくれ。」

白蓮はほんの束の間恥ずかしがると、ゆっくり顔を信志の方へ向けた。


白かった肌も少しくすんで、目の下には黒いクマもできている。

頬には張りがなく、口元や目元にも小さなしわができていた。

これがおそらく、年齢相応の顔なのだろう。

夫の為に、王妃と言う立場の為に、白蓮は日々美しくあろうと、努力していたのだ。

「……悪かった。少し言い過ぎた。許してくれ、白蓮。」

「いいえ。黒音が死んだのは、私のせいです。私がもっと……」

「いいんだ。」

信志は、白蓮の顔を見つめた。

「白蓮。そなたがいくら自分を責めても、もう黒音は帰ってこない。それよりも、亡くなった黒音の分まで、そなたは生きなければいけないだろう。」

白蓮の目から、涙が流れた。

「それに、こんなやせ細って寝込まれたら、喧嘩もできぬではないか。早く元気になって、また夕食を一緒にとろう。」

力強く手を握る信志に、白蓮は頷くしかなかった。


「そうだ。めでたい話があるのだ。」

「めでたい?……もしかしたら……」

白蓮の顔が、少しずつ明るくなっていった。

「ああ、そうなのだ。また私の子が、できたのだ。」

「まあ!」

嬉しさのあまり、白蓮はよろめきながら、起き上がった。

「大丈夫か?」

「ええ。もう横になっている暇など、ございません。」

しばらく寝たきりであったと言うのに、どこにそんな力があったのか。

少し前の白蓮とは、全く違う人のように、元気になっていた。

「それで、どの妃の元に?」

「紅梅だ。」

「まあ!紅梅なの!」

白蓮は頬に両手を当てて、喜んだ。

「それは忠仁も、喜んでいることでしょう。」

「そうだな。」

そして白蓮は途端に、ソワソワしだした。


「お祝いの品は、どうしたらいいかしら。黄杏の時は産着でしたし、黒音の時は……」

信志は、白蓮を抱き寄せた。

「同じ品でよい。皆、白蓮からのお祝いの品を、心から喜んでいた。」

「そうでしたの?ああ、よかった。」

自分の事のように、紅梅の懐妊を喜ぶ白蓮を、信志は愛おしそうに、見つめた。

「そなたは……私との結婚は、運命だったと言ったね。」

「えっ……は、はい。」

急に思い出し、頬を赤くする白蓮。

「今は、その運命に感謝する。白蓮が、私の妻で本当によかった。」

「王……」

白蓮の顔が、信志の胸にうずまった瞬間、二人のわだかまりは解けた気がした。

「だから白蓮も、早くよくならなければ。」

「はい。」

しばらくして、白蓮の部屋から出てきた信志は、紅梅の元へと足を運んだ。

「紅梅。」

「信寧王様!」

足取り軽く、紅梅は信志の前へやってきた。

「こらこら。もう、そんなふうに、はしゃいではいけないよ。」

「ふふふっ。これで最後にします。」

紅梅の顔は、緩みっぱなしだ。


「紅梅、おいで。」

「はい。」

手を広げた信志の腕の中に、紅梅は寄り添った。

「よくやった。紅梅。」

「ありがとうございます。」

ぎゅっと抱きしめる信志に、紅梅も強く抱きしめ返した。

「体調はどうだ?つわりなど、酷くないか?」

「はい。黄杏さんの時は、つわりが酷いと聞いたのですけど、私は何もなくて。まだ、早いのでしょうか。」

「ないのなら、その方がよい。見ているこちらも、辛くなるからね。」

そして改めて、紅梅と顔を見合わせた信志。

「……本当によかった。紅梅の元に、赤子がきてくれて。」

「王……そんなにも、私の事を考えて下さっていたのですか?」

「ああ。そなたは人一倍、子を産む事に熱心だったからね。思い出すよ。そなたを、妃として迎えた日の事を。」


武道の大会で、決勝に進んだ紅梅。

最後の相手は、誰でもない信志だった。

『それにしても、女であるそなたが、私の相手とは……誉めてつかわす。』

『有難うございます。』

女隊長を務めていた紅梅。

ここで王に勝てば、どうなるかは立場上、分かっているはずだ。

『このまま試合をしても、そなたはわざと私に負けるであろう。』

『えっ?』

顔を歪ませた紅梅。

『どうだ?私に勝ったら、そなたの願いを一つ叶えてやる。何がほしい?』

どうせ絹の衣服や、髪飾りと答えるだろうと思っていた。

だが、紅梅から出た言葉は、違うものだった。


『王の……お妃にしてください。』

『えっ?』

あまりの願い事に、周りはざわついた。

『私なら、必ずや王の子に相応しい、強い御子を産んで差し上げます。』

その真っすぐな瞳に、信志も狼狽えた。

『……いいだろう。私に勝ったら、そなたを妃にしてやる。』

もちろん、信志とて本気ではなかった。

女相手に、本気で戦うなど、有り得なかったからだ。


『では、行きます!』

だが、長刀を持った紅梅は、意外に強かった。

『ぐぅぅうううう!』

思いの他、後ろへ飛ばされた信志。

『はぁあああああ!』

尚も、紅梅の攻撃は続く。

『ああ……王相手に、あそこまで!』

見ている誰もが、紅梅はこの試合に勝っても、打ち首にされると思っていた。

『はははははっ!』

紅梅の攻撃を受けた信志は、高らかに笑った。

『私の負けだ、紅梅。』

『えっ?』

『そなたを、私の妃に迎えよう。』

信志の一言で試合は終わり、しかも新しい妃まで、決まってしまった。

慌てたのは、紅梅の父である忠仁だ。

『それは、誠ですか?』

小さい頃から信志に仕えてきた忠仁にとって、今ここは、運命の分かれ道だ。

『ああ。私の妃になって、強い御子を産んでくれ。』

そう言われた紅梅は、誰よりも明るい表情をしていた。


「あの時は、このような日が来るとは、正直思っていなかった。」

「まあ。」

信志と紅梅は、手を取り合って、見つめ合った。

「……紅梅。強い子を産んでくれ。」

「はい!」

そして信志は、紅梅の隣に座った。

「それにしても、この機会によく懐妊したものだ。」

信志はまだ、紅梅に子ができた事が、信じられなかった。

「それは……」

紅梅は、言おうか迷ったが、黄杏の微笑む顔を思い浮かべると、重い口を開いた。

「黄杏さんが、懐妊しやすい薬草を、分けて下さったおかげです。」

「黄杏が?」

信志は、驚いた。

お妃同士、表面上の付き合いはあったとしても、相手に子ができやすい薬を送るなんて。

「王……これからは、黄杏さんの元へ、通って下さい。」

紅梅は、微笑みながら言った。

「いや……しばらくは、そなたの元へ通う。黄杏の時も、黒音の時もそうしてきた。」

だが紅梅は、首を横に振った。

「私は、大丈夫です。」

「紅梅?」

そこには、悲しさや切なさと言った負の表情は、全く見当たらなかった。

「人づてに聞きました。白蓮様に、『跡継ぎは、一度懐妊したお妃から産まれる。』と、神託が下ったようですね。」

「あれは……」

神託?

亡霊の戯れなのか。

だが白蓮が信じている事を、むやみに否定する事もないから、放っておいたと言うのに。

「だとすれば、その神託に合うお妃は、黄杏さんお一人。今は、私よりも黄杏さんの元へ行って頂くのが、よろしいかと思うのです。」

そう言って、紅梅はにこにこと笑っている。

その様子を見た信志は、ため息を一つついた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る