第22話 恋しい人

再び信志の愛を取り戻した黄杏は、幸せな日々を暮らしていた。

他の妃の羨望を、一心に受けながら。


「今夜の寝所は、また黄杏の元ですか?」

一緒に夕食をとっていた白蓮は、何気なく尋ねた。

「……ああ。」

まるで当たり前だと言わんばかりに、返事をする信志。

「ここのところ、毎日ですね。」

「それがどうかしたか?」

白蓮はほんの少しだけ、信志の顔を見た。

喜怒哀楽もない、無表情。

要するに信志の中では、毎晩黄杏の元へ通う事は、毎晩自分の部屋に帰るという感覚なのだ。


「……他の妃から、またため息が漏れ始めております。」

だがさすがにこの言葉だけは、紳士の箸を持つ手を、止めたようだ。

「黄杏の元へ通うなとは、申しません。ただ他の妃の事も、頭の片隅に置いて下さいませ。」

冷静な白蓮の発言に、信志は返す言葉もない。

「分かった。」

「やけに素直でございますね。」

「そなたの言う事は、尤もだ。」

そしてまた箸が進む信志に、白蓮は胸が苦しくなった。


”今少しだけ、見逃してほしい”

そう言うと思っていたのに。

信志は返って、自分の気持ちを抑えているような気までしてくる。

そう。

正妻の白蓮から見ても、思い悩む程に、信志は黄杏に恋をしているのだ。


「幸せだこと……」

「えっ?」

顔を上げた信志は、もう自分の知っている信志ではない。

自分の事は、母か姉ぐらいにしか、思っていないのだろう。

「……こちらの話です。」

「ああ。」


そして時は過ぎ、夕食を終えた信志は、黄杏の元へと屋敷を出る事になった。

「お気をつけて。」

屋敷の玄関で、白蓮が見送る。

他の妃の屋敷に行く夫を見送る事に、すっかり慣れてしまった自分がいた。

「白蓮。」

「はい。」

知らない間に、信志は白蓮の手を握っていた。

「許してくれとは、言わぬ。」

「王?」

「ただ……分かってくれ。」

白蓮は、息が止まりそうになった。


「ええ……分かっております。黄杏はいい妃です。」

すると信志は、久々に白蓮に笑顔を向けた。

「そうであったな。さすがは私の伴侶よ。」

そう言って信志の手は、スルッと離れて行った。

”伴侶”と呼ばれて、嬉しいはずの白蓮。

だが白蓮を照らす月明かりは、寂しいものだった。


そんな白蓮を置いて、信志が向かった先は、恋しい妃・黄杏の屋敷だ。

「お待ちしておりました。」

黄杏は毎晩、信志を笑顔で迎えてくれた。

自分への気持ちは、変わっていない。

そう思えた黄杏は、どこか吹っ切れたのだ。

そして信志も、あの村で逢瀬を交わしていた黄杏に戻ったみたいで、また熱くなっているのが分かっていた。

誰にも知られていない恋に、互いだけを信じあっていた日々。

そんな甘い時間が、今もこうして二人の間に、流れているのだった。


その夜の事。

一緒に寝ていた信志と黄杏の耳に、女の叫び声が聞こえた。

「どこからだ?」

体を起こした信志に、隣の部屋に控えていた女人が、うろたえた様子で答える。

「あれは……黒音様の屋敷からでございます。」

それを聞いた信志は、上着を羽織った。

「信志様!」

「ここから離れるなよ、黄杏。」

そう言って信志は、黄杏の屋敷を出た。

黒音の屋敷と、黄杏の屋敷は、目と鼻の先。

一番に駆け付けた信志は、黒音の屋敷から出ていく、男の姿を見た。


「黒音!」

屋敷の入り口を開くと、奥の方で女人達と固まって震えていた。

「大丈夫か?」

信志は黒音の前に、膝を付いた。

「は……い……」

震えている黒音を、信志は片腕で抱きしめた。

「怖かっただろうに。何が起こった?」

すると側にいた女人の一人が、大声で叫んだ。

「盗賊です!」

「盗賊!?この後宮に、盗みを働こうとする者がいるのか!」


黄杏や黒音がいる屋敷の前には、宮中の中にもう一つ門を置き、出入りする者を見張っていた。

夜になっても、護衛の者は数人、この屋敷の敷地内を警備しているはずだった。

「護衛の者はどうした?」

信志が辺りを見回しても、その姿はない。

「どこにいる?」

信志が探そうとしても、女人は動かない。


「皆、黒音様を軽く扱っているのです。」

「これ!」

黒音が女人の一人を止めた。

「他のお妃様に比べて身分が低く、寵愛も薄いと、護衛の者も警備をしてくれません!」

驚いた信志は、黒音を見た。

「本当か?黒音。」

だが黒音は、黙ったままだ。

「お願いです、王。盗賊が入ろうとしたのは、これが初めてではありません!護衛の少ないこの屋敷を、狙っているのです!どうか!我らが安心して、眠れるようにしてください!」

女人が泣きながら、訴えてきた。

他の女人も、口惜しさと恐ろしさで、震えながら涙を流す。

一人だけ、そう黒音だけが、己の扱いを黙って受け入れているようだった。


「黒音。」

信志は、黒音を抱き寄せた。

「そのような事になっているとは、露知らず。すまなかった。」

「信寧王様……」

黒音の目には、涙が薄っすら光っていた。

「今日は私もここに泊まろう。」

信志の言葉に、一同安心した表情を見せた。

「誰か。黄杏に伝えてくれ。今夜は戻れなくなったと。」

「はい。」

黒音の女人の一人が、立ち上がった。

「理由を問われたら、黒音の屋敷の警護だと説明してくれ。」

「畏まりました。」

そして女人が黄杏の屋敷に発った後、黒音と信志は、寝所へと入った。


「お休みの中、起こしてしまい申し訳ございませんでした。」

黒音が頭を下げると、信志は黒音を背中に手を当てた。

「よいのだ。私の事よりも、そなたが怖い思いをしたであろう。さあ、私がついている上、今夜は安心して眠るがよい。」

そう言って信志は、黒音を寝台に横たわらせた。

だが信志は、灯りの側に座っているだけだ。

「……王は、横にならぬですか?」

「私の事は案ずるな。」

まだ盗賊に気を取られているのか、外をちらちらと見ていた。

それを見て黒音は、起き上がった。


「どうした?」

振り返った信志の隣に、黒音は座った。

「私も、起きています。」

「心配するな。構わずに寝ていなさい。」

「いいえ。我が主人が起きていると言うのに、隣で寝ている妃などおりません。」

顔を合わせた二人。

「私が寝ていなさいと、申したのだ。」

「これでも妃の端くれです。王のいる前で、おいそれと寝ている訳にはまいりません。」

信志は微笑んで、黒音の頬をそっと撫でた。

「黒音には負けた。」

「王……」

黒音の頬に、信志の温もりが伝わる。

「私も休む故、そなたも休みなさい。」

そして信志は、黒音の寝台に横になった。

「はい。」

嬉しそうに信志の横に眠る黒音。

だが信志は、そのまま目を閉じて、眠ってしまったようだ。

黒音にとっては、久々の夫婦一緒の夜だったと言うのに。


実はこの盗賊騒ぎも、黒音の発案。

この頃、ずっと黄杏に夜を持っていかれて、地団駄を踏んでいたのだ。

そしてそうとは知らない黄杏は、出て行った信志が、今夜戻らない事を、黒音の女人から伝えられた。

「分かりました。では、王の衣類をお願い致します。」

「畏まりました。」

綺麗に畳んだ信志の衣服を、黒音の女人に渡す事になるとは、微塵にも思っていなかった。

黒音の女人が屋敷から出て行った後、黄杏も悲しい月明かりを見ていた。

他の妃の元へ、信志が行ってしまうのは、もう慣れてしまった。

だから悲しいわけではない。

ただ、心の中がぽっかりと、空いてしまったようだ。

まだ自分には、こんな気持ちが残っているのか。

黄杏は胸に手を当てた。

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