第16話 紅梅との夕食
「いないではないか。」
「あれ……」
もしかして、気を使ってくれた?
そんな事を考える間もなく、紅梅を抱き上げた王は、彼女の屋敷に、たどり着いた。
医師が傷の手当てをし、その間も、王は紅梅の側に寄り添う。
紅梅には、それが何とも奇妙に思えて、仕方がなかった。
稽古の途中で、紅梅が怪我をするなど、今に始まった事でもなく、その時も手当ての最中に、側に付いていてくれる事はなかったからだ。
「王……私は大丈夫ですから、公務に戻って下さい。」
「そう申すな。」
医師が包帯を巻き終わると、王は医師に尋ねた。
「どうだ?傷は残りそうか?」
「いいえ。傷も深くはありませんし、長さも縫う程ではありません。怪我されたのは、親指の付け根でございますから、血が多く出て驚かれたのでしょう。」
「そうか……よかった。」
医師が一礼をし、紅梅の部屋から去ると、王は早速紅梅を抱き寄せた。
「信寧王……様……」
自分に気持ちがないと知りつつも、抱き寄せられると幸せな気持ちになる紅梅。
「今日は、夕食を共にするか?」
「えっ!?」
あまりの驚きに、紅梅は体を押し離した。
「どうした?そんなに驚く事もなかろうに。」
「いえ。ご夕食はいつも、白蓮奥様とご一緒なのでは。」
「まあ、いいではないか。たまには。」
初めてと言うくらいに見た、王の優しい微笑み。
それを見ると紅梅は、それ以上断る事はできなかった。
「はい。嬉しゅうございます。」
「では、そうさせよう。」
王は紅梅の女人に、夕食は紅梅の屋敷で摂る事を伝えた。
それは、いつも夕食を共にしている白蓮の元へも、伝えられた。
「そう……」
目を細める白蓮。
「黄杏様のご懐妊を妬んだ紅梅様が、王をたぶらかしたのでしょうか。」
白蓮付きの女人が、耳元で囁く。
「滅多な事を言うものではありませんよ。あの方も、王の妃ですからね。」
「失礼しました。」
女人が頭を下げると、白蓮は口許に手を当て、クスクス笑う。
「それに紅梅さんは、王に何かをねだるような方ではない。王の気まぐれでしょう。」
「奥様……」
王が夜、白蓮の元へ通って来ない分、夕食の時間を如何に白蓮が大切にしているか、女人は痛い程知っていた。
「やはり、夕食を共にするのは、正后の役目だと、王にたしなめられては?」
「ふふふ……そのような役目も、決まり事もないのよ。」
白蓮は、信志がいつも夕食の時に座る、椅子を見つめた。
「ただあの方は、小さい頃から私と夕食を共にしていらっしゃるから、他の方と夕食を摂ると、しっくりこないだけなのです。」
「はあ。そうなのですか?」
「ええ。」
白蓮は椅子の向こうにある、窓を目を細めて見た。
丁度、紅梅の屋敷の屋根が見える。
こんなに近くにいながら、何もできない。
白蓮は、やるせない気持ちを抱えていた。
さて、紅梅の屋敷に運び込まれた夕食は、普段紅梅が使っている机いっぱいに、広げられた。
「こんなに、豪華な食事を召し上がっているのですか?」
「そうだな。」
王は紅梅の隣に座ると、王宮に向かって手を合わせた。
慌てて紅梅も、手を合わせる。
「では、頂こうか。」
「はい。」
すると片手が使えない紅梅に変わって、王自ら、皿に料理を取り分けた。
「信寧王様。紅梅様のお食事は、私達が……」
紅梅付きの女人が、焦りながら王に近づく。
「いいのだ、いいのだ。」
そう言って、次から次へと皿に料理を盛った後は、それを紅梅の口許に持っていき、箸で食べさせようとする。
「お、王!」
これには紅梅も、困りに困った。
「ほら、口を開けて。」
「でも……」
「我らは夫婦ではないか。何を恥ずかしがる事がある。」
王のその言葉に、意を決した紅梅は、思いきって口を開けた。
「旨いぞ。」
王が口に入れてくれたのは、シャキシャキの野菜だった。
「うん。」
「こっちもな。」
次はとろけるような、豚肉だ。
「美味しい。」
「そうだそうだ。旨い物を食べれば、傷も早く治る。」
紅梅は食べながら、王をずっと見つめていた。
「本当に、有り難うございます。」
「どうした?急に。」
「私の為に、このような場を設けて頂いて。もしかしたら、怪我をした事も、気にされているのですか?」
「ははは。まあ、それを理由にしたのは、否めないな。」
「えっ……」
すぐ横で、料理を食べている王に、心臓の鼓動が早くなる。
「先に……黄杏に子ができて、気落ちしているだろう。」
「い、いえ……」
「すまぬな。そなたは、子が好き故、早くに作ってやらねばとは、思っていたのだが。」
優しい言葉に、本来ならば嬉しくなるはずなのだが、黄杏あっての訪問かと思うと、心から喜べない。
「……なんだか、元気がないな。」
「いえ。」
せっかくの、久しぶりの夜。
その上、夕食を共にしてくれるなんて。
本当は心の底から嬉しいはずなのに、微笑む事さえできない。
「もしかしたら今日は、来ない方がよかったか?」
「い、いえ!」
怪我をしている方の手で、王の腕を掴む。
「痛い!」
「大丈夫か?」
うずくまる紅梅を、王は心配した。
「王……私……」
本当はもっと、自分の元へ来てほしい。
本当はもっと、自分に気持ちを向けてほしい。
本当はもっと……
自分を愛してほしい。
それが言えなくて、紅梅の目には、だんだん涙が溜まっていく。
「紅梅……」
そんな気持ちを知ってか知らずか、王はいつものように、抱き締めるだけ。
紅梅の胸に痛みは、益々大きくなっていった。
夕食が終わって一段落すれば、紅梅は夜の営みの準備をする。
湯殿に入り、念入りに体を洗う。
香を炊き、王の疲れが取れるような、部屋の雰囲気を醸し出す。
「おいで、紅梅。」
胸を肌けさせて、手招きをする王。
いつもはこの手招きに吸い寄せられて、王の胸に抱かれるのだが、今日は違った。
「紅梅?どうした?」
顔を覗かれ、焦らすのもここまでと、腹をくくった。
紅梅は後ろを向き、自分から服を脱いだ。
元から武術で鍛えた体。
背中も腰もお尻も、無駄な肉が無く、引き締まっている。
「ほう……」
王は炎に浮かび上がるその後ろ姿を、眺めて楽しむ。
「いい体をしている。今まで、気づかなかった。」
そして人差し指で、紅梅の背中をツーっとなぞった。
「ふっ……」
声が漏れる紅梅。
触られた直線が、徐々に熱くなっていく。
「紅梅。」
王が肩に口付ける。
「……っ」
声にならないため息と共に、王と紅梅は、寝床へ横たわった。
「そう言えば、そなたとゆっくり、情を交わす事もなかったな。今日は、ゆっくりと時間をかけて、睦合おうか。」
「はい……」
紅梅は、ようやく自分にも、黄杏や青蘭と同じような、甘い時間が来るのだと思った。
体に触れられ、優しい瞳に自分が写る。
「信寧王様……」
「王……」
正に二人が、肌を合わせようとしていた時だった。
「王!大変です!」
忠仁が、紅梅の屋敷に駆け込んできた。
「どうした!」
王は直ぐに、布を紅梅に掛け、上着を羽織る。
寝所の扉を少し開け、忠仁は小声で伝えた。
「黄杏様が、切迫流産の危険がございます。」
「何!?黄杏が!?」
その叫びは、紅梅にまで届いた。
黄杏に何かあった?
昼間、あんなに元気そうだったと言うのに。
「分かった。直ぐに行く。」
「はい!」
忠仁が屋敷を出ると、王は服を着た。
それを見て、紅梅は見送りに来る。
「すまない、紅梅。」
「いいえ。今は、黄杏さんの方が、大事です。」
王は紅梅を抱き寄せ、背中をポンポンと叩くと、屋敷を出ていった。
残された紅梅は、一人寝所に座り、呆然としている。
何も今後一切、王が訪ねて来ない訳ではない。
黄杏も、これを乗り切れば、元気に子が産める。
だけど、どうしてだろう。
今、自分がこうして、一人で寝所にいる事が、悲しくて悲しくて、仕方がない。
「うっっっ……」
涙が止まらない。
ようやく、王を自分だけのモノに、できると思っていたのに。
紅梅はその夜、涙に明け暮れた。
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