第12話 他の妃へ
紅梅に、他の妃へ行くように、自分から進言するものだと言われた黄杏は、湯殿から戻ってきた信志に、どうしても言う事ができなかった。
今まで、信志と共に夜を過ごしてきた黄杏。
もう、信志無しの夜など、考える事もできなかった。
「どうした?黄杏。今日は、元気がないな。」
そんな時は、信志は優しく髪を撫でてくれる。
この優しい温もりを、他の妃に分け与えなくてはならないなんて。
黄杏は心の中で、“もう一日だけ、許して”と、唱えた。
「信志様。今日は、お願いがあるのです。」
「どんな?」
信志は、黄杏の顔を覗いた。
「今日の夜は、激しく抱かれとうございます。」
信志は、目をぱちくりさせる。
「これはこれは……嬉しいお願いだな。」
「そうですか?」
「ああ。惚れた女に、そんなお願いをされて、嫌だと申す男などいない。」
この日は、いつもよりも早く、寝所に入った黄杏と信志。
部屋の中には、いつもよりも、二人の甘い声が響き渡る。
「黄杏……そなたの気持ちに応える為に、激しく抱いていたら、もう……」
「待って……まだ……」
「まだ?今日は、いつもよりも、ねだるな……」
「お願い……まだ……」
黄杏の目に、涙が溜まる。
そんな黄杏を見て、信志は額に口づけを落とした。
「どうした?何かあったのか?」
「いいえ……」
顔を背けて、自分を見ようとしない黄杏に、信志は優しく動く。
その快楽に溺れて、閉じていた黄杏の口も、ほんの少し開く。
「誰かに、何か言われたのか?」
柔らかな声が、黄杏の耳に届く。
「気にするな。私達を引き裂くなど、誰にもできぬ事だ。」
黄杏が涙目になりながら、信志を見た。
相変わらず熱を帯びた瞳。
自分だけの信志。
「黄杏、そなただけだ。何があっても、離したくないと思う女は……」
黄杏は、そっと信志の首に腕を回し、力強く抱き寄せた。
「信志様……どうか、私のところだけではなく、他のお妃様の元へ、お通い下さいませ……」
信志は、顔を上げた。
だが黄杏は、目を合わせてはくれない。
「私は、もう十分でございます。」
その言葉とは裏腹に、涙が止まらない。
「だから、泣いていたのか。」
「いえ……」
「嘘を申すな。本当は、他の妃の元へ、行ってほしくはないくせに。」
自分の本心を見抜かれ、黄杏は両手で、顔を隠した。
「誰かに言われたのか?」
「いいえ。」
信志は黄杏の首元に、顔を埋めた。
何も知らない黄杏が、他の妃の元へ行けなどど、自分から言うはずはない。
だが、その言葉を言うという事は、誰かにそうしろと、圧力をかけられているのだ。
このまま黄杏の元へ通い続ければ、その者の手によって、黄杏の命が危なくなるかもしれない。
「分かった。明日から、他の妃の元へも通おうとしよう。」
その言葉を聞いて、黄杏の胸は締め付けられた。
心のどこかで、通うのはそなたの屋敷だけだと、言ってほしかった。
「泣くな、黄杏。これが最後の逢瀬ではない。」
「はい……」
「なるべく早く、戻ってくる。」
「はい。」
何を言っても、今は嘘にしか聞こえない。
「黄杏……黄杏!」
そんな時は、相手の名前を呼ぶしかなかった。
「信志様ぁあ!」
「っ!」
その夜は、二人で一緒に果てた後、朝が来るまで、肌を合わせて寝るのであった。
次の夜。
信志は、どの妃の元にも、行く事はなかった。
湯殿の近くの、休憩所に横になった。
だが直ぐに、白蓮に見つかってしまった。
「まあ、信寧王様。このような場所で寝られると、風邪を召されますよ。」
白蓮は、信志の頭の横に座った。
「今日は、どなたの元へ行かれるのですか?」
「どこにも行かぬ。」
そう言った信志が、寂しそうに見えた。
その寂しそうにしている原因が、ここにこうして寝ている事と、関係していると言うなら、白蓮はこのまま信志を、放っておくわけにはいかない。
「信志。」
名前を呼ぶと、信志の身体が、ピクッと動いた。
「今日は、私の屋敷に来なさいな。」
「その言い方、久しぶりに聞いた。」
「そうね。でも、あなたがまだ王の座に着くまでは、このような言い方だったわよ。」
幼い頃に出会ってから、信志は白蓮の唯一の友達だった。
夫婦となっても、ただずっと一緒にいる時間が、増えただけ。
そして、床を共にするようになっても、一番近くにいる、一番大切な人。
その事に、変わりはないのだ。
「さあ、行きましょう。」
白蓮は信志を抱き起こすと、静かに自分の屋敷へと、連れて行った。
「……もし、どのお妃のところへも行きたくない時は、私のところへ、来ていいのよ。」
「白蓮?」
「あなたが帰ってくる場所は、ここなのだから。」
白蓮と信志は、何年か振りに、見つめ合った。
「こうして君の顔を見るのも、いつ振りなんだろうか。」
信志は白蓮の頬に、そっと手を添えた。
「あまり……見ないで下さい。昔と比べて、年をとりました。」
「私もだよ、白蓮。」
しばらく見つめ合うと、どちらからともなく、相手を抱き寄せていた。
まだ勉学にも勤しんでいない、子供の時から、側にいた白蓮。
祖父が死に、皇太子になった時も、父王が死に、王の位を継いだ時も、当たり前のように側にいた。
襲いかかってきた隣国に出兵し、たくさんの血を見て、虚しさにかられていた時も、ただ側にいて、何気ない日常が大切だと教えてくれたのも、白蓮だった。
青蘭を迎えた時も、紅梅を迎えた時も、もちろん黄杏を迎えた時にも、変わらずに接してくれた、良妻だ。
「白蓮……私の子が、欲しいか?」
信志の胸の中で、白蓮は目を閉じた。
欲しく、ないわけがない。
信志の祖父も父王も、何人か妃がいたが、いづれも数人のお子がいた。
どの妃も、自分の子を持って、幸せそうに暮らしていた。
なのに信志は、未だに子がいない。
それは単に、自分に子ができない原因があるのではと、苦しんでいた。
それなのに、“やはり子が欲しい”など、甘えた事が言えるのだろうか。
「返事がないな。」
「……お許し下さい。」
すると突然信志は、白蓮を抱き上げた。
「お、王?」
「大人しくしていろ。」
3歳下の信志が、急に男らしく見えた。
白蓮の胸の鼓動が、早くなる。
ここ何年も、抱き締め合ったりすら、していないと言うのに。
そんな事を思っている間に、信志は白蓮の寝所に入り、寝床に彼女を下ろした。
「もう何年も、枕を交わしては、いなかったな。」
「いえ……私の事は、いいのです。」
「よくない。本来なら跡継ぎは、正后から生まれるものだろう。」
信志は、白蓮の肌に唇を這わせると、絹の服を少しずつ剥がしていく。
「信志……」
堪らなくて、信志の腕を掴んだ時だ。
この前の夕食の時を、思い出した。
ー 男として心も身体も受け入れて貰える。それが自信に繋がるんだ。 ー
白蓮はそのまま、信志に身を委ねると、自分でも恥ずかしくなるくらい、甘い声をあげた。
白蓮は、小さい頃から、白い肌をしていた。
それは、他の妃と比べても、変わらない白さだった。
薄暗い中に浮かび上がる、雪のような綺麗な肌。
「白蓮……君の肌は、変わらずに白い。」
「恥ずかしい……」
元々睦み合う時には、開放的で大胆な白蓮。
それも久しぶりに見る為、余計にゾクゾクする信志。
だが、睦み合っている最中に、あんなに白かった白蓮の肌に、小さなシミがあるのを、信志は見つけた。
顔をよく見ると、若かった時よりも、少し肌がくすんでいるようにも見える。
あんなに豊かで絹のようだった髪は、艶を失い少なくなった気もした。
撫でた頭の後ろには、白髪が1本混じっていた。
「白蓮……」
「ん……」
夫から久々に貰っている快楽に、白蓮の目はトロンとしている。
あの美しかった白蓮が、知らぬ間に、それを失っていた。
どうしてもっと、早くに気づいてやれなかったのだろう。
若さは、永遠ではないのに。
「……綺麗だ。」
少しくすんだ顔も、若い時と同じように、紅く染まる。
「本当に、心からそう思うよ。」
「信志……」
久しぶりに肌を合わせた夫婦は、昔を思い出しながら、今を楽しむ。
それは長い間、連れ添った者にしか持てない、甘美な香辛料のようだ。
情を交わした後、自分の胸の上で眠る白蓮は、嬉しそうに微笑んだ。
「女は可哀想だなとお思いでしょう?男は年をとっても、それが年輪になるけれど、女は年をとれば、萎れていく花のようで……」
「それでも……側で風に揺れていてくれる事に、変わりはないのだろう?」
それが白蓮なのだと、信志は知った。
さて、他の妃へと伝えた黄杏は、この宮殿に来て初めて、一人寝の寂しい夜を迎えた。
いつもは、一緒にお酒を飲む時間なのに、一人でお茶を飲み、冷たい寝具の上に、横たわった。
深夜になっても寝付けず、黄杏は何気なく外に出た。
月明かりが、綺麗な晩だった。
初めて信志と出会った時も、同じように月明かりが綺麗だったと思うと、寂しさは増した。
その時だった。
左側から、足音が聞こえた。
「あなたも、眠れないの?」
「青蘭さん……」
長い髪を結ぶ事なく、横に流している。
「今日は信寧王様、いらっしゃってないのね。」
黄杏は、なんとなく背中を向けた。
「気にする事はないわ。そんな夜もあるもの。」
だが青蘭は、そんな黄杏にでさえ気使う。
「青蘭さんは、一人寝など寂しくないのですか?」
少しキツメに言っても、眉一つ動かさない。
「王が、他のお妃の元へ行ったと聞くと、悲しくはならないのですか?」
すると青蘭は、黄杏と一緒に、月夜を見上げた。
「黄杏さん。私はね、この国に人質として、来たのよ。」
「人質?王は、一人残されたあなた様を、可哀想に思って連れてきたと。」
「まあ。そんな事を、王はあなたに話しているの?」
青蘭は、怒っているのか、驚いているのかも分からない。
だが、自分の事を新しい妃に話しているのは、どことなく気にかけているようだった。
「……信寧王に会ったのは、父が殺されたと聞いて、自ら敵に向かって行った兄を、探していた時。炎が燃え盛る中、なかなか兄を見つけられなくて……」
それは信志から話を聞いていて、黄杏も知っていた。
「もう、兄も殺されてしまったのかもしれないと、途方に暮れていたの。そこへ、信寧王が現れた。」
そう話す青蘭の表情は、冷たかった。
「もちろん、捕まれば死ぬ覚悟でいたから、王の手を振り払ったのだけど、王は私がついてくるまで、ここを動かないと、炎の中、じっと待っていて……」
青蘭を見て、一目で気に入ってしまった信志の顔が、炎の中に浮かんだ。
「ここに来た時も、死に損ないだと思っていた。生きているのか、死んでいるのか、分からないまま時が過ぎて……王から、妃に迎えたいと言われた時も、何の感情もなかった。王を慕う気持ちはなかったけれど、命を救ってくれたご恩は、返さないといけないなんて、初めは受け入れたけれど。」
そう語る青蘭を見て、黄杏は悔しくなってきた。
信志は、そうだと知っていても、青蘭を想っていたのだ。
叶わなくても、気持ちが通じなくても、この方の元へ通っていたのだ。
「黄杏さん。他の妃の元へ王が行って、寂しくないのかと、お聞きになったわね。」
「はい。」
「答えはいいえよ。もう、寂しいと思う気持ちも、失せてしまった。だから、王が私の元へ来たとしても、それは形式のようなものだから、気にしないで頂戴。」
“はい”とは言えなかった。
信志の気持ちを考えれば、形式だなんて。
言葉を返さない黄杏に、何も言わずに去っていった青蘭。
月明かりの中、愛し合うと言う事は、いかに奇跡的な事なのか。
黄杏は益々、奇跡的に出会った信志に、会いたくて会いたくて仕方がなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます