第3話 真夜中の恋人

次の日。

信志は、改めて自分が落ちた池を、昼間に見た。

夜だったとは言え、こんな大きな池に気づかなかったなんて。

それほど酔っていたのか、それとも月に見とれていたのか、思い出すだけで恥ずかしさが、込み上げてきた。


「今日もご機嫌、麗しゅうございます、王。」

「そうか?」

「はい。今日もと言いますか、昨晩からですが。なにか良い事でもありましたか?」

昨日の夜の事を思い出した信志は、また笑い出してしまう。


「王?」

「いやいや、何でもない。そうだ、忠仁に聞きたい事がある。」

「何でしょう。」

信志は、池の辺りにある大きな石に、腰掛けた。

「世話をしてくれている村の娘に、条件を出しているそうだな。」

忠仁の、眉がピクッと動いた。

「お耳に入りましたか。」

「そうだな。何故だ。」

「なるべく早く、お妃様を決める為でございます。」

忠仁は、尤もらしい理由を述べる。


「では、兄のいる娘は、条件に合わないと言うのは?」

「今後の政治の混乱を、招かない為でございます。」

忠仁は、信志の目の前に、膝を付いた。

「王は、敬虔の乱をご存じですか?」

「ああ。100年も前の、家来が起こした反乱だ。」

「その通り。敬虔は、当時の王の母君の兄上。つまり叔父上様に当たります。それから妃になられる方は、兄のいない娘だけと、定められています。」

「そう……か……」

信志は、唇を噛み締めた。


「白蓮様も紅梅様、いづれも第1子。青蘭様には兄上がいらっしゃいましたが、戦で王と共に撃ち果てられました。例外はございません。」

信志は、言葉もなかった。

何よりも歴史を重んじるのが、王の勤めだと、幼い頃より聞かされていたからだ。

「分かった。」

「ご理解頂き、安心しました。」

だが信志の頭には、あの無礼な程に、自分の心に入って来た黄杏が、浮かんでは消え、消えては浮かんできた。


そして黄杏も、月夜の晩に会った信志と言う役人を、忘れる事ができないでいた。

この村の男とは違う、洗練されていて、優しそうな人。

そして、月に見とれて池に落ちてしまうような人。


今日も会えないかと、宴の準備をした後、また庭に降りて見た。

「やあ、また会ったね。」

「信志!」

黄杏は、また信志に会えた事に、胸を弾ませていた。

「風邪はひかなかった?黄杏。」

「ううん。私、こう見えて丈夫なの。信志は?」

「私はこの通りだ。」

両手を広げると、見事な刺繍が施されている服が、黄杏の目に飛び込んできた。


「素敵。信志は、いつもこんな素敵な服を、着ているの?」

「うーん。大体はね。人の前では、しっかりした服を着なくてならないと、父上に言われてたからね。」

「そうなの。信志の家は、お金持ちなのね。」

こんな田舎の、小さな村で育った黄杏には、想像もできない世界だ。


「今日も宴があるのね。いつまで続けるつもりなのかしら。」

黄杏は、どんどん集まってくる客人を見ながら言った。

「予定では2週間程って事だから、もう少しだね。」

「そっ……か。そうしたら、信志も、一緒に都に帰ってしまうのね。」

信志は、そっと黄杏を見つめた。

「寂しい?」

「あっ……いや……せっかく知り合ったのに、勿体ないなって思って。」

「勿体ない!?君、面白い事ばかり言うね。」

信志は、また笑い出す。

「だって!この村には、あなたみたいな……」

言葉を止めた黄杏に、信志は顔を近づける。

「あなたみたいな?何?」

「あの……」

端正な顔立ちが、自分の目の前にある事に、気恥ずかしさを覚える黄杏。

顔を赤くしながら、顔を背けた。


「黄杏!」

台所から、小太りの女が呼んでいる。

「はーい!」

返事をした黄杏は、スルッと信志からすり抜けた。

「明日も来るよ。」

信志は、黄杏にそう告げた。

「明日も、月明かりが綺麗だといいね。」

「えっ……」

そう言って信志は、大広間へ続く廊下へ。


「王、どちらに。」

心配した忠仁が、駆け寄って来た。

「心配するな。子供でもあるまいし。」

「しかし、王に何かあっては、私は国民に顔を合わせる事ができません。」

「はははっ!」

「笑い事ではありません!」

信志が振り返ると、忠仁は真顔でこっちを見ている。

「分かった。危ない事はしない。」

「当たり前です。この前のように、池に落ちるような事は、なさらないように。」

信志は、子供みたいに心配されている自分に、呆れてきた。


ふと台所の方を見ると、遠くに黄杏の姿が見えた。

「あの者達にも会って、お礼を言いたいものだ。」

「それならば、私から伝えておきます。妃になれない者には、近づかぬように願います。」

信志は、ぎゅっと拳を握りしめた。


台所にいる黄杏はと言うと、今日も配膳の準備だ。

「終わり!美麗、お願い!」

「はーい。今日もお疲れさま。」

美麗が王のお膳を持って行くと、台所には一息つく時間ができる。


「はぁーあ。」

慌ただしく配膳の用意をした黄杏も、床に腰を降ろした。

「そう言えば黄杏。最近、客人と逢い引きしてるんだって?」

「えー!うっそー!!」

黄杏の周りに、女達が集まってくる。

「どんな人?」

「うん。王様の家来みたい。」

黄杏は、恥ずかしそうに答えた。

「いいなぁ。上手くいけば玉の輿じゃん。」

女達は、途端にお腹を空かせた動物のような顔になる。


「王様の妃にはなれないけど、中央の役人の愛人にでもなれないかね。」

「愛人……」

黄杏は、女達の変わりように、呆れる。

「だってさ。見た?あの男達。村の男とは違って、むさ苦しくないし。何より高貴な顔立ちしてるじゃない!」


黄杏は、信志の顔を思い浮かべた。

端正な顔立ち、いい香りがしそうな雰囲気。

何より物腰が、柔らかい。


「そうね。」

「でしょう!黄杏、頑張りなさいよ!」

女の一人は、黄杏の背中を叩いて、励ました。

するともう一人、近くにいた女が、黄杏の耳元で囁いた。

「まだ、身体を許すんじゃないよ。」

「えっ?」

驚く黄杏に、女は話を続けた。

「散々体だけ弄んで、帰る時には知らない顔って言うのも、多く聞くからね。ちゃんと、連れて行って貰ってから、関係を結ぶんだよ。」


突然黄杏に振ってわいた、男と女の事情。

そんな事を信志が、するようには見えないけれど。

黄杏の胸の中では、ざわざわと何かが、うごめく。

信志の気持ちを、確かめた訳でもないのに。


ー 明日も、月が綺麗だといいね ー


黄杏は、明日が満月だと言う事を、思い出した。


その次の日の夜。

宴が終わるのも、明日で終わりだ。

もしかしたら、信志に会えるのは、今夜が最後かもしれない。

そんな事を思ったら、黄杏は泣けてきた。


「どうして、泣いているの?」

月明かりの下に現れたのは、信志だった。

「ううん。何でもない。」

涙を拭った黄杏を、信志は抱き締めた。

「信志?」

「黄杏。何でも話してほしい。君の事、もっと知りたいんだ。」


黄杏は信志の手を、そっと握った。

「私もです。私も信志の事、もっと知りたい。」

「黄杏……」

信志の腕の中で、見つめ合う二人。


月明かりが雲に隠れたのを見計らって、二人は唇を重ねた。

「このまま、時が止まってしまえばいいのに……」

「悲しそうに言うね。」

「だって、時が流れてしまえば、宴もやがて終わってしまって、信志は都に帰ってしまうもの。」

俯いた黄杏の顎を指で上げ、信志は黄杏と見つめ合う。


「あなたが、都に帰ってしまうのは、悲しくて堪りません……」

信志は、また流れ落ちる黄杏の涙を、指で拭った。

「私も、同じ気持ちだ。都に帰りたくない……そなたと毎晩、こうして会っていたい……」

「信志……」

「黄杏……」

二人は、お互いの名を呼び合うと、また熱く唇を重ねた。

何度も何度も、唇を重ねる度に、信志は黄杏を、きつく抱き締める。


「もう、我慢できないよ、黄杏。」

黄杏を抱き締めながら、庭先に通じる廊下の戸を、右手で開ける信志。

「信志?」

「気持ちを確かめ合ったんだ。君を抱いてもいいだろう?」

すると黄杏は、廊下を通り越して、側にある部屋の中に押し倒された。


月夜に照らされた信志の、熱に帯びた顔が、浮かび上がる。

その男らしさに、黄杏の心臓も早くなる。

「黄杏。私のものになってくれ。一生、大切にするから。」

掬われた手の甲に、信志の舌が当たる。

その柔らかな舌の動きに、思わず声が漏れた。


「甘い声だ。もっと聞きたいよ。」

すると信志の荒い息使いが、今度は耳元で聞こえる。

「待って……」

「えっ?」

信志は、そっと黄杏の顔を見た。


「こんな事聞くのは、無粋だって分かっているんだけど……」

「黄杏?」

「私は……あなたの妻に、なれるの?」

胸を射ぬかれたような信志は、身体を起き上がらせた。

「ごめんなさい、違うの。」

黄杏も身体を起こして、信志にしがみついた。

「周りの人に恋しい人がいるって言ったら、体だけは許すなって……」

「えっ?」

「その人が都に帰る時に、連れて行ってもらえなかったら、ただ身体を弄ばれるだけだって!私、私!そんな事、嫌なの!あなたと離れたくない!」

黄杏が叫ぶと、信志は再び、黄杏をきつく抱き締めた。


「信じてほしい。」

「信志……」

「私は何があっても、君を離さない。」

信志は身体を離すと、黄杏の頬を両手で覆った。

「私は、そなたを妻に迎えたい。そなたは?」

「私も、あなたの妻になりたい……」

「黄杏。約束できる?何があっても、私から離れないと。」

「はい。何があっても、信志を離さない。」

そして二人は、ゆっくりと唇を合わせた。


後ろに身体を倒しながら、着ている服を、一枚一枚脱いでいく信志と黄杏。

「君の肌は、白くて綺麗だな。」

「あまり見ないで、恥ずかしいから。」

黄杏が顔を覆うと、信志はその手を顔の脇に、持って行った。

信志の顔も、ほんのり赤く染まっている。

「信志?」

「不思議だな。こんなにも、心を通わせる相手が、いるなんて。今まで知らなかった。」


そして黄杏と信志の体は、ゆっくりと繋がった。

「信志……私、もうダメみたい……」

「私もだ……心も体も、一緒に溶けていく気がするよ。」

こうして、黄杏と信志の蜜月は、密やかに甘く始まりを迎えたのだった。

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