エピローグ

 エピローグ



 鍵穴に差し込んだイグニッションキーを時計回りに九十度回転させると、数回ばかり電気モーターが空回りした後にぶるぶると車体が震動し、運転席に腰を下ろしたルッツ兵長は『ソ連版ジープ』とも呼ばれるGAZ-67のエンジンを始動させた。雨除けの幌が下ろされたGAZ-67の助手席には、ソ連赤軍の武装歩兵の死体から奪い取った、比較的ましな状態の外套シューバ防寒帽ウシャンカを身に纏ったイエヴァが腰を下ろしている。

「壮太、本当にいいのか? 今なら未だ間に合うぞ?」

「ああ、俺の事は気にするな。どうせ、陸路じゃ日本までは帰れない。今年の春には帰国ダモイ出来るって噂を信じて、気長に捕虜生活を満喫させてもらうさ」

 車外からそう言ってルッツ兵長の最後の誘いを断った俺は、少しばかり自嘲気味に笑った。当然ながら本当に生きて日本に帰国ダモイ出来る保証はどこにも無かったが、今はこうでもしないとルッツ兵長もイエヴァも納得しないだろうから、適当な方便でもって誤魔化すしか方法が無い。

「俺の心配ばかりしてないで、お前らの方こそ気を抜くんじゃないぞ? ブラーツクの街まではなんとか逃げられたとしても、そこから先は未知の領域だ。計画通りに鉄道を利用出来ればいいが、そうでないと、車か徒歩で国境を目指す事になる。どちらにせよ、命懸けの大変な旅路だ」

「ああ、分かってる。だがそれでも、俺とイエヴァはソ連を脱出してみせるさ」

「そうか。そうだな。幸運を祈ってるよ」

「俺達も、お前の幸運を祈っている。じゃあな、壮太」

「じゃあな、ルッツ、イエヴァ」

「壮太、きっとあなたなら大丈夫。またいつか、生きて会いましょう」

 最後にイエヴァが助手席からそう言うと、ルッツ兵長が運転するGAZ-67は雪道を走り始めた。俺は頭上で大きく手を振りながら、走り去るその後ろ姿を静かに見送る。そして収容所ラーゲリとは間逆のブラーツクの街の方角へと走り続けたGAZ-67は、やがて地平線の彼方にその姿を消した。

「これで良かったんだよな……」

 手を振るのを止めた俺はそう独り言ちると、外套シューバの襟を立てて小雪混じりの寒風から身を守る。ほんの半時ほど前までは頭上に輝いていた満月も今は厚い雪雲の陰に隠れ、再び雪が降り始めたかと思えば見る間に気温が下がり、防寒帽ウシャンカの耳当てを失った頬に吹く風が冷たい。

「……ああ、そうさ。これでいいのさ」

 俺は再び独り言ちると、寒さのために紅潮した顔に達観するような笑みを浮かべた。そして肩を竦めて身体を上下左右に揺すり、肌を突き刺すような身も凍る寒さに、一人ぼっちのままジッと耐え忍ぶ。

 半人半蛇の怪物と化した魔女ヴァレンティナを打ち滅ぼす事に成功した俺は、ルッツ兵長とイエヴァの二人とは袂を分かち、このシベリアの地に残留する事を選んだ。その理由を端的に一言で言ってしまえば、先程ルッツ兵長にも語ったように、ドイツやウクライナならまだともかく陸路で日本まで逃亡する事が極めて困難だからである。そして俺は、守るべき女性が隣の席に座っている彼とは違って、わざわざ危険を冒してまで故郷を目指す必要も無いのだ。つまり逆に言えば、ルッツ兵長とイエヴァは、何が何でも故郷まで逃げ帰らなければならない。それが愛し合う二人の、命を賭してでも果たさねばならない責務なのだから、俺はその責務が無事果たされる事をこのシベリアの大地からずっと祈り続ける。

「おお、寒い」

 俺は再び肩を竦め、ぶるぶると背筋を震わせた。するとそんな俺の背後に複数の男達が近付き、モシンナガン小銃の銃口をこちらに向けながら、怒鳴りつけるような粗雑なロシア語でもって警告する。

「そこのお前! 動くな! 両手を頭上に挙げて、こちらを向け! そうだ、ゆっくりとだ!」

 言われた通り両手を挙げながら振り返ると、そこにはモシンナガン小銃を構えた『のろまのアントン』ことアントン二等兵が、仲間の警戒兵カンボーイら数名と共に立っていた。魔女ヴァレンティナとの一件など微塵も知らされていない彼らの顔には一様に、困惑と疲労の色が滲む。どうやら上官であるマシェフスキー大尉の乗ったスターリンⅢ型重戦車を徒歩で追い掛けて来た彼らは、この寒空の下を歩き続けた末に、今頃になってようやくここまで辿り着いたらしい。

「よお、アントン」

 可能な限り気さくな捕虜を装いながら、俺は眼の前のアントン二等兵の名を呼んだ。彼らの到着が遅れたのは、きっと先行した二輌の人員運搬用トラックに、収容所ラーゲリに勤務するソ連赤軍の兵士ら全員が乗り切れなかったからに違いない。そしてその結果として、魔女ヴァレンティナに殺されずに済んだ彼らは命拾いしたと言う事になる。

「壮太か。動くなよ。いくらお前でも、動くと撃つぞ」

「そう怖い顔をするなって。今更抵抗なんかしないさ。大人しく捕まるから、そんな物騒な物をこっちに向けないでくれよ」

 俺がそう言うと、少しばかり逡巡した後に、アントン二等兵らはモシンナガン小銃の銃口を下に向けた。そしてタイガの森の木々の向こうで未だに炎上し続ける重戦車の残骸を指差しながら、俺に尋ねる。

「なあ壮太、一体ここで、何があったんだ?」

「そうだな、ちょっと長くなるが、一から説明してやるか」

 まるでお伽噺の様だったこの数ヶ月間の出来事を心の中で反芻しつつ、俺は夜空を見上げながら、肩から提げた雑嚢の中から煙草入れとマッチ箱を取り出した。そして日本新聞の紙片で巻かれたマホルカ煙草を口に咥え、その先端にマッチでもって火を点けると、虚空に向かって紫煙を吐き出す。

「……ああ、揚げたてのアジフライが食いてえなあ」

 見上げたシベリアの夜空には、冷たい小雪が舞っていた。


                                    了

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シベリアとアジフライ 大竹久和 @hisakaz

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