第十幕


 第十幕



 車輌が走行可能な広い雪道から、イエヴァが住む別荘ダーチャの前へと続く細い山道の手前で、俺とルッツ兵長の二人は路肩に停車させたGAZ-67から降り立った。山道に降り積もった真っ白な新雪を軍靴の踵で踏み固める度に、まるで片栗粉を踏む時のような、きゅっきゅと言う小気味良い音が耳に届く。

「行くぞ」

「ああ」

 意を決した俺ら二人は、それぞれルガー拳銃とマンドリン短機関銃を手にしたまま、山道を歩き始めた。昨夜から降り続いた小雪はようやく止んだらしく、分厚い雪雲の切れ間からは仄白い月光が差し込んではいるものの、足元を照らしてくれるカンテラすら無い闇夜は真っ暗闇も同然である。そしてそんな闇夜に包まれた山道を歩き続ける事数分後、やがて視界の前方に、堅牢かつ荘厳な煉瓦造りの屋敷がぼんやりとその姿を現した。ウクライナ娘のイエヴァと彼女の飼い犬である狼犬のプラーミャ、そして魔女ヴァレンティナが住む別荘ダーチャである。

「イエヴァ! イエヴァ、居るか?」

 俺に先んじて門扉を越えたルッツ兵長が、別荘ダーチャの出入り口の扉を叩きながら大声で尋ねた。すると暫しの間を置いた後に、分厚い木製の扉がぎいと開く。

「どうしたルッツ? それに、壮太も」

 扉を開けたのは、狼犬のプラーミャを背後に従えたイエヴァだった。俺とルッツ兵長の唐突な訪問に、彼女はやけに驚いているようにも見える。また外套シューバを着ていない今のイエヴァの首周りから胸元にかけてには魔女ヴァレンティナによって掛けられた呪いの証、つまり従属の首輪と呼ばれる、植物のつたを象ったかのような複雑な模様の刺青が見て取れた。

「突然済まない、イエヴァ。すぐにここから逃げ出すぞ」

 ルッツ兵長はそう言うと、おもむろにイエヴァの手を取り、彼女を強引に抱き寄せる。

「逃げる? どこから? どこに?」

「ここから、ここではないどこか遠くへだ。とにかく、ここはキミの様な無辜の少女が居るべき場所ではない! さあ、早く逃げよう!」

 イエヴァの問いにそう答えたルッツ兵長は、彼女の手を固く握り締めたまま、別荘ダーチャから駆け出そうとした。だがそんな二人の背後から、奏でるように艶やかな優しくも美しい女性の声でもって、真っ白な絹のドレスに身を包んだ何者かが尋ねる。

「あらイエヴァ、お客様?」

 その声が耳に届くと同時に、イエヴァが従えた狼犬のプラーミャがすかさず振り返ったかと思えば、背中と尻尾の毛を逆立たせながら牙を剥いて吠え立て始めた。プラーミャが吠え立てる声の主は、言うまでもなく、この別荘ダーチャの主人を自称する魔女ヴァレンティナである。

「お久し振りね、ルッツ、壮太。今夜は何のご用でお越しくださったのかしら?」

「ヴァレンティナか。今夜はイエヴァを故郷まで連れ帰りに来た」

 ヴァレンティナの問いに、ルッツ兵長が彼女を睨み据えながら答えた。

「あらあら、それは困ったわねえ。イエヴァには未だこの別荘ダーチャに残って、あたしの身の回りの世話をしてもらわなくっちゃならないのに」

 そう言いながら、まるで他人事の様にそ知らぬ顔でもって溜息を吐く魔女ヴァレンティナ。彼女の表情からは、自身の行いが糾弾されていると言う自覚は微塵も感じられない。

「この際、お前が困るかどうかは知った事じゃない。今すぐイエヴァの呪いを解き、彼女を自由にしろ。さもなければ、こちらも相応の手段に訴える準備と覚悟がある」

「あら、そうなの? それは穏やかじゃないわねえ。それで、もしも呪いを解かなかったとしたら、どうなるのかしら?」

「こうだ」

 そう言うや否や、ルッツ兵長は手にしたルガー拳銃の照準を魔女ヴァレンティナの顔面の中央に合わせ、躊躇無く引き金を引いた。雪深いタイガの森にこだまするパンと言う乾いた銃声と共に、僅か数mと言う至近距離から射出された銃弾は狙いを違えず魔女の眉間に命中し、鈍い金色に輝く真鍮製の空薬莢が硝煙を纏わせながら宙を舞う。

「?」

 しかし、命中した筈の銃弾は、魔女ヴァレンティナの皮膚の薄皮一枚すらも傷付ける事はなかった。

「どう言う事だ?」

 俺とルッツ兵長は困惑し、イエヴァは戦慄する。そして俺ら三人の眼前で、ルガー拳銃の銃口から射出された銃弾は、魔女ヴァレンティナの皮膚に接触すると同時にその動きを止めていた。しかも魔女の眉間で動きを止めた銃弾は凍りつき、雪の結晶の様な氷の粒が表面にびっしりと浮かび上がりつつある。

シャイセ!」

 母国語で悪態を吐きながら、ルッツ兵長はルガー拳銃の弾倉の中に残っていた五発の銃弾を、魔女ヴァレンティナの顔面に向かって続けざまに撃ち込んだ。しかし最初の一発とその後の五発、計六発の銃弾は全て彼女の皮膚に触れると同時にその場で停止し、見る間に凍りついて行く。

「面白いでしょう、これ? 種明かししちゃうとね、あたしの周囲の空間を実際よりも遥かに延伸させて、そこに触れた物体の見掛け上の動きをほぼ完全に止めちゃっているだけなの。だから、断熱膨張によってその物体の温度も極限まで下がってしまって、見ての通り凍りついちゃっているって言う訳なのよね。どう? 簡単な仕掛けでしょ?」

 魔女ヴァレンティナはそう言いながら、まるで邪気の無い笑顔でもって嬉しそうにくすくすとほくそ笑むが、彼女の言っている事の半分も、中学校で科学も化学も物理学も専攻していなかった俺には理解出来ない。唯一理解出来る事と言えば、少なくともルガー拳銃の鉛の銃弾では魔女は殺せないと言う冷酷な事実だけだ。

「壮太、撃て!」

 ルッツ兵長が俺に命令しながら身を翻すと、手を繋いだイエヴァを抱きかかえるようにして別荘ダーチャから連れ出す。勿論彼に命令されるまでもなく、俺はマンドリン短機関銃を構えるとボルトを引いて初弾を薬室に装填し、タタタタタンと連射機構でもって次々と銃弾を射出した。しかし雨霰の如く魔女ヴァレンティナの全身に浴びせ掛けた筈のトカレフ弾も、彼女の皮膚に触れると同時にその動きを止めて、真っ白な霜を纏わりつかせながら凍りついてしまう。

「あらあら、若い男の子はやっぱり血気盛んねえ。あたし、年甲斐も無く嬉しくなっちゃう。でも、幾らそんなちっちゃな玩具であたしを殺そうとしたって無駄よ? 無駄撃ちする分だけ、弾が勿体無いだけ。あたしみたいな大人の女を満足させようと思ったら、もっと硬くて太くて熱いのを用意しなくっちゃ」

 やはりくすくすと楽しそうにほくそ笑みながらそう言った魔女ヴァレンティナは、別荘ダーチャの中からこちらへと歩み寄って来ると、遂に敷居を跨いで戸外へとその姿を現した。絹のドレス一枚だけを身に纏った長身で豊満な彼女の肢体は美しく、頭の天辺から足の爪先までが雪の様に真っ白で、その白さの中で爛々とした両の瞳と紅が引かれた唇だけが満天の月光の下で真っ赤に輝いている。

「壮太、逃げるぞ!」

「ああ! 急げ!」

 弾倉の中の銃弾を全弾撃ち尽くした俺はマンドリン短機関銃を放り捨てると、先を急ぐルッツ兵長や、彼に抱きかかえられたイエヴァと共に逃走を開始した。しかしそんな俺ら三人を、別荘ダーチャから姿を現した魔女ヴァレンティナは物凄い速度でもって執拗に追って来る。しかも彼女の身体は見る間に膨れ上がり、白い絹のドレスを破り捨てたその上半身はまるで巨人の様に肥大化したかと思えば、下半身は滑らかな鱗にびっしりと覆われた大蛇のそれとなって、雪深き山道を轟音と共に這い回って来る始末であった。いみじくもその姿はまるで、巨大化した古代ギリシア神話に登場する女神ラミアーかインド神話の蛇神ナーガ、もしくは日本の妖怪である姦姦蛇螺かんかんだらを髣髴とさせる。

「あれが魔女の正体か!」

 俺は逃走しながら後ろを振り返り、叫んだ。

「いいから逃げろ! 追いつかれるぞ!」

 山道を駆け下りるルッツ兵長がそう叫んだと同時に、彼と一緒に逃走していた狼犬のプラーミャがくるりと方向転換したかと思うと、巨大化した魔女ヴァレンティナに果敢に飛び掛かった。そして唸り声を上げながら大蛇の姿に変異した魔女の下半身に噛み付き、鋭い牙を突き立てるも、その牙が厚い鱗を貫通する事はない。

「あらあら、邪魔な犬っころねえ。前からあたし、この駄犬が嫌いで嫌いで仕方が無かったの。だって、あたしに全然懐かないんですもの。だからこれがいい機会だし、今ここで死んじゃいなさい」

 魔女ヴァレンティナは無慈悲にそう言うと、自分の下半身に噛み付いたプラーミャの頭部を片手で鷲掴みにし、その手に軽く力を込める。すると「ギャン!」と言う悲鳴と共に、硬い頭蓋骨を内包している筈の狼犬のプラーミャの頭部がまるで柔らかな豆腐か何かの様に易々と握り潰されてしまった。プラーミャの鮮血と脳漿が周囲一帯に飛び散り、真っ白な雪に覆われた山道を真っ赤に染める。

「プラーミャ!」

 愛犬の突然の死に、イエヴァが悲痛な叫び声を上げた。すると今度は、彼女の首周りから胸元にかけて彫られた刺青に異変が生じる。

「ぐううっ!」

 以前、別荘ダーチャの食堂で魔女ヴァレンティナに口答えした時と同じようにイエヴァの刺青が明るいオレンジ色に発光し、彼女の喉をぎりぎりと締め上げ始めた。

「イエヴァ!」

「呪いが……呪いが……」

 苦しげに喘ぐイエヴァの顔が鬱血し、赤黒く変色したかと思えば、喉から吐瀉物がどぼどぼと溢れ出して彼女や彼女を抱きかかえたルッツ兵長の外套シューバを汚す。

「耐えろイエヴァ! もうすぐ車まで辿り着く! そうすれば、こんな森からはおさらばだ!」

「駄目……呪いを解かないと……魔女を殺さないと……あたしはこの森から出る事は出来ない……」

 ルッツ兵長による励ましの言葉も空しく、別荘ダーチャから遠退けば遠退くほど、従属の首輪に喉を締め上げられたイエヴァの顔色は悪化する一方だ。どうやら彼女の言葉から察するに、強制的に森から退去させれば自然と呪いが解けると言うものではないらしい。

「イエヴァ! ルッツ! 壮太! 決して逃がさないよ! 三人纏めてあたしの下僕にして、老いさらばえてみすぼらしく死ぬまでこき使ってやるから、覚悟なさい!」

 上半身が巨大な全裸の人間、下半身が更に巨大な大蛇となった魔女ヴァレンティナは、その真っ白な巨体をごうごうと唸らせながら真っ赤な瞳を爛々と輝かせつつ、俺らを執拗に追って来る。

「とにかく、今は逃げる事だけ考えろ! あんな奴に捕まったら、勝ち目は無いぞ!」

 俺は緩い下り坂になっている山道を必死に駆け下りながら、一緒に逃げる二人に向かって命令した。勿論わざわざ命令せずとも、そんな事はルッツ兵長もイエヴァもまた百も承知である。

「未だ逃げ続ける気なら、いっそ、その場で死んでしまいなさい!」

 やがて立ち止まる事無くタイガの森の中を逃げ続けていると、不意に魔女ヴァレンティナがそう叫ぶと同時に、真っ赤な紅が引かれた唇から続く彼女の口元が耳元まで大きく裂けた。そしてその裂け目から、まるで蜻蛉トンボの幼虫である水蠆ヤゴのそれの様に顎が大きく開口したかと思えば、左右二つに裂けた下顎と上顎の合計三つの顎の中央から噴水の噴出孔の様な孔が開いた物体がその姿を現す。

「今度は何だ?」

 ルッツ兵長が疑問を呈した次の瞬間、その噴出孔からこちらに向かって、一筋の細い光線の様なものが射出された。勿論それは本物の光線ではなかったが、上空の雲の切れ目から降り注ぐ月光をきらきらと反射しているために、まるでそれ自体が光り輝いているように見えたのである。そしてその光線もどきが鞭の様にしなり、俺が被った防寒帽ウシャンカの耳当てを僅かに掠めながら森の木々の幹を舐め回すと、それらの木々があっと言う間に薙ぎ払われて地面に崩れ落ちた。

「危ねえ!」

 もう少しで首を切断されるところだった俺とルッツ兵長とイエヴァの三人は、倒れて来る木々の幹や枝葉を必死で避けながら、懸命に山道を走り続ける。崩れ落ちた木々の切断面はダイヤモンドのガラス切りで切られた板ガラスのそれの様にすっぱりと綺麗に分断されており、俺の防寒帽ウシャンカの耳当てもまた真っ二つになっているし、しかもかちかちに凍りついてしまっている。どうやらあの光線もどきは、超低温の冷気か何かを高圧で射出しているものらしい。

「!」

 するとその時、俺は気付いた。俺ら三人の敵は、魔女ヴァレンティナだけではない。背後から迫り来る彼女とはまた別に、何かしらの尋常ならざる存在がこちらへと接近しつつあって、その何かしらが移動する際に生じる音と震動とが空気と大地をぶるぶると震わせているのだ。

「何だ?」

 音と震動は、着実に近付きつつある。だがしかし、背後から魔女ヴァレンティナが追って来るからには、今ここで足を止める訳にも行かない。すると遂に、前方の木々を薙ぎ倒しながら、その音と震動の正体が姿を現した。俺らはその鉄の塊の出現に眼を見張り、戦時中に体験した数々の悲惨かつ陰惨な出来事を思い出して、背筋をゾッと震わせながら戦慄する。つまりそれは、無限軌道によって降り積もった雪を巻き上げながら爆走する、ソ連赤軍のスターリンⅢ型重戦車であった。しかもその重戦車の背後には、人員運搬用のトラックが二輌ばかり追従している。

「畜生! マシェフスキーの奴、戦車なんか引っ張り出して来やがった!」

 山道を走りながら、俺は悪態を吐いた。

シャイセ!」

ブリャーチ!」

 ルッツ兵長とイエヴァの二人もまた、それぞれの母国語でもって不満を露にする。

 俺の記憶が正しければ収容所ラーゲリの車庫には何故か重戦車が一輌だけ駐留していたし、マシェフスキー大尉は自分がここに赴任して来る際に帳簿を誤魔化してそれを持って来させたとも言っていたが、まさかそれが終戦から二年半も経過した今になって動き出すとは思いもしなかった。そしてそのスターリンⅢ型重戦車の司令塔キューポラの蓋が開いたかと思えば、車内から戦車帽を頭に被ったマシェフスター大尉が上半身を覗かせ、こちらに向かって叫ぶ。

「見つけたぞ、後藤一等兵、アルトマイアー一等兵! よくもこの私の指を切り落とした上、部下達の前で恥を掻かせてくれたな! その手足を生きたまま切り刻んでばらばらにした後に、無限軌道でもって全身が挽き肉になるまで轢き潰して、白樺の肥やしにしてくれよう!」

 自分に手傷を負わせた俺とルッツ兵長の二人が無限軌道によって轢き潰される様を想像しているのか、その細面な顔に嗜虐的な笑みを張り付かせ、恍惚の表情を浮かべるマシェフスキー大尉。彼は厚く包帯が巻かれた右手を天高く振りかざしながら、どうやら重戦車を操縦しているソ連赤軍の戦車兵に対して前進を命じているらしい。

「ふざけんな! 魔女だけでも大変だってのに、今度は戦車が相手かよ!」

 イエヴァと手を繋いだルッツ兵長が忌々しそうにそう怒鳴ると、足を止めてその場に立ち尽くし、これからどうしたものか決めかねて二の足を踏んだ。このまま山道を駆け下りて行ってしまってはスターリンⅢ型重戦車率いるソ連赤軍と正面衝突する事になるし、かと言ってここでジッとしているばかりでは、背後から迫り来る魔女ヴァレンティナの冷凍光線と呪いの餌食となってしまう。これはまさに日本の諺で言うところの『前門の虎後門の狼』の状態、端的に言ってしまえば絶体絶命か背水の陣、つまり完全に進退窮まる格好だ。

「糞! 一体どうすりゃいいんだよ!」

 俺もまたルッツ兵長やイエヴァと同じくその場に立ち尽くし、前後から迫り来つつある二つの勢力をきょろきょろと交互に見遣りながら、窮地に立たされた俺らがこれからどうすべきか必死に考えあぐねる。しかしこれと言った妙案は一向に思い浮かばないまま、遂に魔女ヴァレンティナとソ連赤軍との距離が百mほどにまで縮まった時、不意に両者がほぼ同時にその動きを止めた。そして暫しの間、仄白い月光に包まれた冬のシベリアの大地に、まるで時が止まったかのような静寂の瞬間が訪れる。

「何だ、あれは?」

 果たして声に出してそう言ったかどうかは定かではないが、睨み合ったまま対峙する魔女ヴァレンティナもマシェフスキー大尉も、どちらも如何にもそう言いたげな表情であった。片や身の丈二十mにも及ぶ半人半蛇の巨大な化け物であり、片や重量四十六tにも達する重戦車と、二輌の人員運搬用トラックに分乗したソ連赤軍の武装歩兵数十人である。その両者が、正体の判然としない相手を牽制し合うかのように、互いの出方を慎重にうかがい合っているのだ。

「総員降車! 二列横隊でもって撃ち方用意! 前方の目標に照準を合わせろ!」

 先に動いたマシェフスキー大尉が重戦車の車上から命令を下すと、二輌の人員運搬用トラックからソ連赤軍の武装歩兵達が次々と降車し、降り積もった雪の上で二列横隊を維持しながらモシンナガン小銃を構える。当然ながら小銃を構える武装歩兵達もまた、まるでお伽噺の中から出て来た空想上の怪物の様な魔女ヴァレンティナの姿にひどく困惑していたが、だからと言って兵士である彼らが上官の命令に異を唱える訳には行かない。

「ええい、あれが何だか知らぬが、この私の邪魔をしようと言うのならば力尽くでもって排除するまでだ! 総員、撃ち方始め!」

 マシェフスキー大尉の号令を合図に鬨の声を上げたソ連赤軍の武装歩兵達は、モシンナガン小銃やデグチャレフ軽機関銃、更にはスターリンⅢ型重戦車に搭載された12.7㎜重機関銃をも動員した一斉射撃を開始した。静謐なる冬の夜のタイガの森に、まるで数多の太鼓を乱打するかのような大音量の銃声が反響し、鼓膜が破れそうな程の激しさでもって俺らの耳をつんざく。

「Ураааааааа!」

 声を張り上げて叫ぶ武装歩兵達が手にした小銃や軽機関銃、それにマシェフスキー大尉自らが銃把を握った重機関銃から射出された銃弾が俺らの頭上を飛び交い、半人半蛇の怪物と化した魔女ヴァレンティナの真っ白な肢体に次々と着弾した。しかしそれらの銃弾もまた、ルッツ兵長のルガー拳銃や俺のマンドリン短機関銃から射出された銃弾と同じく魔女ヴァレンティナの皮膚に触れると同時にその動きを止め、彼女に手傷を負わせる事は出来ない。

「ええい、鬱陶しい奴らだよ!」

 いくら手傷を負う事が無いとは言えども、さすがに数十人の兵士達から一方的に銃弾を浴びせられては腹が立たずには居られなかったのか、そう叫んだ魔女ヴァレンティナの顎が再び上下に裂けると同時に冷凍光線の噴出孔がその姿を現す。

「危ない! イエヴァ、伏せろ!」

 ルッツ兵長が自らの身体を強引に被いかぶせながら、身を挺するようにして、喉の痛みに耐え続けるイエヴァを地面に組み伏せた。魔女ヴァレンティナとソ連赤軍とに挟まれる格好になった俺もまた身の危険を感じ、急いで地面に腹這いになって伏せると、手で頭を覆い隠して少しでも急所を保護しようと努める。可能な限り被弾面積が小さくなるように伏せた地面は降り積もったばかりの新雪に覆われていて柔らかく、頬に触れる真っ白な氷の粒がやけに冷たく感じられたが、今はそんな事に気を取られている場合ではない。

「またあれが来るぞ! イエヴァ、壮太、頭を下げろ!」

 ルッツ兵長が警告した次の瞬間、魔女ヴァレンティナの三つに割れた顎の中央の噴出孔から光線が射出され、まるでしなる鞭の様な流動的な軌跡を描きながら俺ら三人の頭上を一瞬にして通過した。それはまさに、文字通りの意味でもって眼にも留まらぬ速さであって、並の人間が意識的に回避する事が出来るような生半可な速度ではない。そしてその光線が、二列横隊での射撃を継続していたソ連赤軍の武装歩兵達の内の二十名ばかりを撫でるように舐め回すと、彼らは光線が触れた箇所から真っ二つに切断されて宙を舞った。切断された武装歩兵達の離れ離れになった上半身や下半身、それに四肢や頭部が雪の上にごろごろと転がって、真っ赤な鮮血やまろび出たはらわたの中に詰まっていた排泄物の匂いが辺りにぷんと漂う。

「糞! なんてこった!」

 顔を上げた俺は、思わず叫んだ。未だ生きている者も既に死んでいる者も含めて、魔女ヴァレンティナが放った光線によってばらばらにされた武装歩兵達の姿は悲惨そのものであり、正視に耐えない。

「あああああああああっ!」

 一際大きな悲鳴に眼を向ければ、腰の辺りから上下に分断されてしまった武装歩兵の上半身が、雪の上に転がったまま動かない自分の下半身と内臓とを直視しながら絶叫していた。彼の表情は、まるでこの世には存在しない筈の生きた悪魔の姿を見てしまった聖職者のそれの様に、驚愕の相貌でもって凍りついてしまっている。ここシベリアでは外気温が余りにも低いために、傷口の周囲の血管や神経が収縮して出血量が抑えられると同時に痛覚が麻痺し、普通ならば即死する程の怪我でも生き残ってしまうのだ。

ブリャーチ!!」

 上半身だけになっても絶叫し続ける部下や、その他大勢の即死した部下達、それに未だ生きてはいるものの腕や足を切断されて悶え苦しむ部下達の姿に、スターリンⅢ型重戦車の車長席に腰を下ろしたマシェフスキー大尉は心穏やかではない。

「榴弾装填! 急げ!」

 そのマシェフスキー大尉が、ややもすれば我を忘れて裏返りそうになる声でもって命令すると、スターリンⅢ型重戦車に乗った装填手は主砲の薬室に榴弾を装填した。そして砲弾の装填を確認すると、大尉は射撃手に命じる。

「照準合わせ、撃て!」

 命令が下されてから一拍の間を置いた後に、砲弾の薬莢内の炸薬が爆発的に燃焼する事によって生じた高温高圧のガスが弾頭を加速させ、シベリアの大地と大気をぶるぶると震わせる轟音と共に、スターリンⅢ型重戦車の長大な主砲から榴弾の弾頭が射出された。遥か遠くに翳る山々に砲声がこだまし、タイガの森の木々の枝葉に降り積もった雪が、衝撃波を受けて周囲一帯にばっと飛び散る。そして射出された榴弾の弾頭は亜音速でもって闇夜を切り裂いたかと思えば、狙いを僅かにたがえながらも、魔女ヴァレンティナの大蛇を髣髴とさせる下半身の尻尾に近い箇所に着弾した。着弾と同時に信管が起動した弾頭は爆発し、再びの轟音と共に天をも焦がすような爆炎を噴き上げながら、彼女の尻尾がばらばらになって四散する。

「やったぞ《ズドーラヴァ》!」

 着弾を見届けたマシェフスキー大尉が軍用の双眼鏡を覗き込みながら、勝利を確信するかのような声と口調でもって、ロシア語で叫んだ。彼の視線の先では下半身の一部がばらばらに砕け散った魔女ヴァレンティナが、真っ赤な鮮血にまみれた肉片や臓物を周囲に撒き散らかしながら巨大な肢体をのたうち回らせ、激痛に喘ぐように絶叫する。

「おのれ! おのれ! おのれ! おのれ! おのれ!」

 絶叫と共に怨嗟と呪詛の言葉を連呼した魔女ヴァレンティナは、スターリンⅢ型重戦車の司令塔キューポラから上半身を覗かせたマシェフスキー大尉をキッと睨み据えた。

「この人間風情が! 決して、決して許さんからな!」

 そう叫んだ魔女ヴァレンティナは、改めてマシェフスキー大尉と彼の麾下きかにあるソ連赤軍の武装歩兵達を、滅ぼすべき敵として認定したらしい。そして車上のマシェフスキー大尉もまた、時を同じくして、眼前の魔女ヴァレンティナを祖国に害を為す存在として再確認したのである。

「糞! 冗談じゃないぞ!」

「壮太、頭を下げていろ! このままだと巻き込まれるぞ!」

 口汚く悪態を吐く俺を、首周りに彫られた従属の首輪に喉を焼かれて苦しむイエヴァを身を挺して守ったルッツ兵長が、新雪が降り積もった地面に腹這いになるように力尽くでもって組み伏せさせた。するとその間も、ソ連赤軍の武装歩兵達が放ったモシンナガン小銃の銃弾が頭上を飛び交い、少しでも頭を上げれば命は無い事を否応無く知らしめる。

「一体どっちが敵で、どっちが味方なんだ?」

「知るか! 今はそれどころじゃない!」

 ルッツ兵長の言う通り、確かに今はそれどころではない。いやむしろ、根本的に俺の呈した疑問の前提条件そのものが間違っている。つまりどちらが敵か味方かではなく、魔女ヴァレンティナもソ連赤軍も、そのどちらもが俺らの敵なのだ。

「じゃあこれからどうする、ルッツ?」

「とにかく今は身を隠して、状況の推移を見守ろう! 上手く行けば、魔女も戦車も共倒れになってくれる!」

「仮に共倒れにならずに、どちらかが生き残ったら?」

「その時は改めて、その生き残った方と戦うなり逃げるなりすればいい!」

 なんとも行き当たりばったりと言うか、対症療法的な解決策だったが、今の俺らに出来る事はそれしかない。そして俺らがそんな事を相談している間も、下半身を失って上半身だけになりながら死に切れないソ連赤軍の武装歩兵は、絶望感を煮染めたかのような悲痛な声でもって絶叫し続けている。

「ルッツ……壮太……」

 すると喉を締め上げられたイエヴァが、苦悶の表情を浮かべながら俺とルッツ兵長の二人の名を呼んだ。

「お願い……あなた達だけでも逃げて……あたしは呪いのせいで……魔女から逃げられないから……」

 そう訴えるイエヴァの手をルッツ兵長は力強く握り、肩を抱き寄せる。

「何を言っているんだ、イエヴァ。キミだけを置いて逃げる事なんて出来やしない。それに、このまま上手く行けば、ソヴィエト野郎共の戦車が魔女を倒してくれる。そうなれば、キミが魔女とこの森に縛られる理由も無くなる筈だ」

 ルッツ兵長はそう言うが、イエヴァからの返答は芳しくない。

「駄目……戦車は魔女には勝てないの……魔女は不死身だから……どんなに肉体を破壊されても、絶対に死なないから……」

 そんなイエヴァの言葉を裏付けるように、榴弾の爆発によって破壊された魔女ヴァレンティナの肉体に異変が生じる。

「おいルッツ、あれを見ろ!」

 破壊された筈の魔女ヴァレンティナの下半身の断面から、まるで肉のあぶくの様な赤身掛かった乳白色の塊が次から次へとぶつぶつと湧き出し、傷口がゆっくりと復元され始めた。このままでは、せっかくマシェフスキー大尉が乗るスターリンⅢ型重戦車が負わせた手傷も見る間に治癒してしまい、両者の共倒れを狙うと言う俺らの目論みもまた水泡に帰してしまう。

「あれが時間と空間を操る魔女の力なの……どんなに肉体を破壊されても、時間を巻き戻す事によって、破壊される前の姿に戻ってしまう……」

シャイセ! なんてこった!」

 ややもすれば非現実的と言うか、まるでお伽噺の中の出来事の様に信じ難いイエヴァの解説を聞いたルッツ兵長は母国語で悪態を吐くと、雪に覆われた地面を拳の底で叩いて悔しがった。しかし彼とは違って諦めの悪いマシェフスキー大尉は、戦車の車内の部下に再度命令する。

「榴弾、第二射装填!」

 命令が下されると同時に、重戦車の車体後部の排莢口から122㎜榴弾の空薬莢が排出されて地面を転がり、その真鍮製の筒に溜まった熱がじゅうじゅうと雪を溶かした。そして即時に、装填手の手によって新たな砲弾が薬室に装填される。

「照準合わせ、撃て!」

 やはりマシェフスキー大尉の命令から一拍の間を置いた後に、二発目の榴弾の弾頭が、薬莢内の炸薬が燃焼する際に発生した轟音と共にスターリンⅢ型重戦車の長大な主砲から射出された。闇夜を切り裂き、俺ら三人の頭上を飛び越えて、内部にもまた炸薬を内包した弾頭は再び魔女ヴァレンティナに襲い掛かる。しかし彼女も、同じ轍を踏むほど愚かではない。巨大な蛇を髣髴とさせる下半身を大きく蠕動ぜんどうさせながら、自らに照準を合わせて飛んで来た榴弾の弾頭を、魔女ヴァレンティナは間一髪のタイミングでもってひらりと回避してみせた。そして遥か後方の森の中へと消えたその弾頭を尻目に、こちらに向かって物凄い速度でもって這い寄って来る。見る間に接近する彼女の両の瞳は爛々と真っ赤に輝き、未だかろうじて人間の姿を保っている上半身の喉から放たれた咆哮によって、タイガの森に密生するカラマツやモミの木々がぶるぶると震え上がった。

「危ない!」

 迫り来る魔女ヴァレンティナの半人半蛇の巨体に気圧けおされながらも、俺とルッツ兵長とイエヴァの三人は腹這いになって地面に伏せ、頭を抱えて自らの身を守る。すると彼女は俺らの脇をあっと言う間に素通りし、そのまま山道を駆け下りたかと思えば、スターリンⅢ型重戦車に乗ったマシェフスキー大尉率いるソ連赤軍に襲い掛かった。どうやら今の魔女ヴァレンティナにとっては、呪いによって遠くへ逃げられないイエヴァと彼女を見捨てられない俺やルッツ兵長なんかよりも、榴弾によって己の大事な肉体を傷付けた露助ろすけ共の方がよっぽど憎くて憎くて仕方が無いらしい。

「総員、怯むな! 撃て! 撃ちまくれ!」

「Ураааааааа!」

 マシェフスキー大尉の命令に従い、ソ連赤軍の武装歩兵達は鬨の声を上げながら、手にしたモシンナガン小銃やデグチャレフ軽機関銃を魔女ヴァレンティナ目掛けて斉射する。

「この人間風情が! 皆殺しにしてくれる!」

 そんな武装歩兵達に対して、魔女ヴァレンティナは怒りを露にしながら三つに裂けた顎の中央の噴出孔を向けると、その噴出孔から再び光線を射出した。射出された光線は、やはりしなる鞭の様な流動的な軌跡を描きながら武装歩兵達を舐め回し、舐め回された彼らの身体は鋭利な刃物で膾切なますぎりにされたかのようにばらばらになって地面を転がる。そして気付けば、二輌の人員運搬用トラックに分乗して来たソ連赤軍の武装歩兵数十人の殆どが、真っ赤な鮮血とはらわたの中から零れ出た汚物にまみれた肉片と化し、生き残った者達もまた武器を捨てて遁走してしまっていた。

「あははははははは! 死ね! 死んでしまえ! 死んであたしの糧となりなさい!」

 魔女ヴァレンティナが猛り狂うかのようにとぐろを巻きながら吠え、マシェフスキー大尉は悔しげに歯噛みする。

「ええい、忌々しい! 装填手! 榴弾、第三射装填!」

 上官であるマシェフスキー大尉に命令された装填手は、既に撃ち終えた二発目の砲弾の空薬莢を排夾口から排出すると、都合三発目の榴弾をスターリンⅢ型重戦車の主砲の薬室に装填した。

「照準合わせ! 急げ!」

 装填手に次いで命令された射撃手は砲塔を旋回させ、重戦車の主砲の照準を魔女ヴァレンティナの半人半蛇の巨体に合わせようとするが、光線を射出しながら動き回る彼女を照準器の中央に捉える事は容易ではない。

「運転手! 前進して奴の動きを止めろ!」

 痺れを切らしたマシェフスキー大尉が、運転手に命じた。するとスターリンⅢ型重戦車は六百馬力のV2Kディーゼルエンジンを唸らせながら、魔女の巨体に向かって突進を開始する。

「!」

 シベリアのタイガの森をぶるぶると震わせる轟音と共に、魔女ヴァレンティナとスターリンⅢ型重戦車とが真正面から激突した。頭の天辺から尻尾の先端までが五十mに達しようかと言う半人半蛇の怪物と、重量四十六tに達する鋼鉄の塊とはがっぷり四つに組み合い、両者の力は拮抗する。

「ええい、こうなったら、このまま轢き殺してしまえ!」

「人間風情が、その汚らわしい手で、あたしの身体に触るんじゃないよ!」

 魔女ヴァレンティナもスターリンⅢ型重戦車も、どちらもまるで力比べでもするかのように相手の巨体を前進させまいと強引に押さえつけ、一歩たりとも譲ろうとしない。魔女の真っ白な肢体には筋肉を激しく収縮させる際の血管が鮮やかに浮かび上がり、重戦車のディーゼルエンジンは無限軌道の履帯を回転させて魔女を轢き潰そうと、排気塔から大量の黒煙を噴き上げた。

「くたばれ、この醜い化け物め!」

 興奮したマシェフスキー大尉が口汚い悪態を吐きながら、スターリンⅢ型重戦車に搭載された12.7㎜重機関銃の引き金を左手の指で引き絞り、魔女ヴァレンティナの顔面に銃弾を浴びせかける。空間の延伸によって銃弾の見かけ上の動きを止める事が出来るとは言え、強力な12.7㎜小銃弾を至近距離から雨霰の如く浴びせかけられては、さすがの魔女も怯まざるを得ない。

「小癪な真似を! 今すぐここで、ばらばらに切り刻んでくれる!」

 怒り心頭の魔女ヴァレンティナの顎が三つに裂け、その中央の噴出孔の照準が、マシェフスキー大尉と彼が乗るスターリンⅢ型重戦車を捉えた。だが同時に、重戦車の主砲の照準もまた魔女の胸の中央を捉える。

「死ね!」

「撃て!」

 魔女ヴァレンティナの光線とスターリンⅢ型重戦車の榴弾、その両者が顎の中央の噴出孔と長大な主砲から、全く同時に射出された。重なり合った轟音と閃光、更に亜音速に達した飛翔体から発せられる衝撃波とが、まるで大地震にでも見舞われたかのように周囲一帯の大地と大気とをびりびりと震わせる。そして光線はマシェフスキー大尉ごと重戦車を切り刻み、榴弾は魔女の胴体を木っ端微塵に爆発四散させ、壮絶な相打ちでもって勝負は決したかのように思われた。その証拠に、ばらばらになった魔女の死骸も重戦車の残骸も、どちらも地面に崩れ落ちたままぴくりとも動かない。

「やったか? やったのか?」

 真っ白な雪の降り積もった地面に腹這いになって伏せていた俺ら三人は顔を上げると、疑問とも歓喜ともつかない曖昧な言葉を喉から漏らしながら、恐る恐る立ち上がった。そしてその場にルッツ兵長とイエヴァを残した俺は最初は忍び足でゆっくりと、だが次第に急ぎ足から駆け足となって、魔女の死骸と重戦車の残骸目指して走り始める。

「うわ、こりゃ酷えや」

 魔女ヴァレンティナとスターリンⅢ型重戦車とが真正面から激突した地点に駆け寄ってみれば、木々が伐採された森の中の拓けた一角であるそこは、惨憺たる戦場の様相を呈していた。魔女が放った光線によってばらばらに切り刻まれたソ連赤軍の武装歩兵達の腕や脚や首がそこら中にごろごろと転がり、白かった筈の雪は排泄物混じりの鮮血でもって赤褐色に染まってしまっていて、文字通りの意味での血生臭い匂いが辺りにぷんと漂う。そして不意に、燃料である軽油に引火したらしい重戦車のディーゼルエンジンが「ボン!」と言う破裂音と共に爆発炎上したかと思えば、眼にも眩いオレンジ色の炎と共に真っ黒な煙が天高く噴き上がった。

「マシェフスキー大尉……」

 炎に包まれるスターリンⅢ型重戦車の司令塔キューポラから覗くマシェフスキー大尉の上半身は、魔女ヴァレンティナが放った光線によって正中線で左右真っ二つに切断され、その切断面からは薄灰色の脳髄が垣間見える。そしてその真っ二つになった大尉の身体もまた、彼が乗る重戦車と共に炎に包まれた。こうなってしまっては、如何にスターリングラード攻防戦を生き残ったソ連赤軍の大尉と言えども、無残な姿を晒す只の焼死体以外の何者でもない。

「壮太、魔女は? 魔女はどうなった? イエヴァの呪いが解けないんだ!」

 不意に後方から、ルッツ兵長の声が届いた。そこで首を巡らせて振り返ってみれば、彼はイエヴァを抱きかかえながら、ゆっくりとこちらに歩み寄って来る最中だった。しかしルッツ兵長に抱きかかえられたイエヴァの首周りから胸元にかけて彫られた刺青、つまり従属の首輪は未だにオレンジ色に発光しながら彼女の喉をぎりぎりと締め上げ、呪いの効力が微塵も衰えていない事を如実に物語っている。

「魔女は未だ……死んでいない……どんなに肉体を破壊したとしても……絶対にあいつは死なないから……」

 苦しそうに呻くイエヴァとルッツ兵長をその場に残したまま、俺は至近距離から重戦車の榴弾の直撃を喰らって木っ端微塵になった筈の魔女ヴァレンティナの死骸が転がっている箇所に、急いで駆け寄った。するとそこには、確かに上半身を木っ端微塵にされた彼女の鮮血まみれの肉片や臓物が下半身と一緒に転がっていたが、それは決して物言わぬ死体などではない。つまり、真っ白な新雪に覆われた地面のそこかしこに転がる肉片や臓物のそれぞれから肉のあぶくの様な赤身掛かった乳白色の塊が次から次へとぶつぶつと湧き出し、再び一人の魔女として復元しようとしているのである。

「糞! このままじゃ元の木阿弥じゃないか! どんなに肉体を破壊してもまた元通りになるんじゃ、幾ら殺しても切りが無い!」

 怒りと困惑の声を上げながら、俺は頭を抱えた。そしてふと、木っ端微塵になった魔女ヴァレンティナの上半身のちょうど中央に当たる箇所でもって、彼女の心臓が復元しようとしている事に気付く。つまり、どくどくと拍動しながら復元しつつある筋肉の塊を発見したのだ。

「武器! 何か武器は無いか!」

 俺は周囲を見渡し、武器を探す。すると数m離れた雪の塊の中にソ連赤軍のデグチャレフ軽機関銃が転がっていたので、迷う事無くそれを拾い上げた。拾い上げた軽機関銃の握把には、上腕の途中からすっぱりと切断されたソ連赤軍の武装歩兵の右腕だけが未だ残っていたが、それは放り捨てて銃を構える。そして軽機関銃の銃口を直接魔女ヴァレンティナの復元中の心臓に押し付けると、引き金を引いた。雪崩を打つように、銃口からは次々と銃弾が射出されて、魔女の心臓を見る間にずたずたにする。

「死ね! 死んでしまえ、この魔女め!」

 特徴的な形状をしたデグチャレフ軽機関銃の円盤型弾倉の中に残っていた数十発の銃弾を撃ち尽くすと、俺は自分の銃撃が効果を上げたかどうか、ジッと魔女の心臓を凝視しながら経過を見守った。勿論、今更心臓を破壊したからと言って魔女が死ぬ保障はどこにも無かったが、それでも何かしらの効果はあるのではないかと期待せざるを得ない。しかしその期待に反して、拍動を続ける魔女の心臓の銃創からは肉のあぶくが次々と噴き上がり、再び復元を開始する。

「糞! これでも駄目か!」

 ヤケクソ気味な悪態を吐きながら、俺は弾倉が空になったデグチャレフ軽機関銃を力任せに地面に叩きつけた。軽機関銃の円盤型弾倉が叩き付けられた衝撃で外れ、地面に降り積もった雪に埋まったが、だからと言って事態は何も改善しない。

「他に武器は無いのか!」

 焦燥感に駆られた俺は、何か武器になる物は無いかと、肩から提げた布製の雑嚢を必死で漁る。しかし雑嚢の中に詰まっていたのは手作りの将棋の駒や碁石や煙草入れやマッチ箱、飯塚一等兵から預かった内地の妹への手紙、それにソ連赤軍の警戒兵カンボーイ達から奪った幾つものマンドリン短機関銃の撃鉄などばかりで、役に立ちそうな物は何一つとして出て来ない。

「?」

 だがその時、雑嚢の中に無造作に突っ込んだ俺の手が、何か硬く冷たい物に触れた。そこでその何かを、特に期待もせずに、雑嚢の底から取り出してみる。するとそれは、昨年の暮れ頃にマシェフスキー大尉と夕飯を共にした際に袖口に隠して盗んだ、銀食器のナイフであった。せっかく盗んだのに抗生物質と交換する事が出来なかったので、今の今まで雑嚢の奥深くに突っ込んだままになっていたのである。

「こんな碌に刃もついていないナイフが……」

 その後に続く言葉は声になり切らなかったが、つまり俺が何を言いたかったかと言うと、こんな小さな銀食器のナイフは何の役にも立たないと言う事だ。

「畜生!」

 だがしかし、今は背に腹は代えられない。半ばヤケクソになった俺は銀食器のナイフを逆手に持ってその場に跪くと、大きく振りかぶった。遥か頭上の厚い雪雲の雲間からは、淡い銀色に輝く丸い丸い満月が覗いている。そして懇親の力を込めながらその手を振り下ろし、復元中の魔女ヴァレンティナの心臓目掛けて、ナイフの切っ先を突き立てた。

「!」

 すると突然、銀食器のナイフを突き立てられた魔女ヴァレンティナの心臓が眩い光を発して輝き始めたので、俺は眼を背けながら手をかざして光を遮る。重戦車の榴弾の直撃でも破壊出来ず、デグチャレフ軽機関銃の銃弾を至近距離から浴びても復元を止めなかった魔女の心臓が、果たしてこんなナイフ一本で如何ほどの手傷を負うと言うのだろうか。だがそんな俺の予想に反して、ナイフが刺さった心臓はまるで超高温で熱されて溶ける寸前の鉄の塊の様に、限り無く白に近いオレンジ色に輝き続ける。

「何だ?」

 困惑する俺の眼前で、心臓の周囲に、真っ白に輝く雪の結晶の様な細かな粒子がどこからともなく湧き出始めた。そしてその粒子が集まり、やがてぼんやりとした半透明の人の様な形状になると、その半透明の人間は驚愕の表情を浮かべる。

「銀? 銀? 何故? 何故こんなところに銀が?」

 その困惑する半透明の人間は、まさしく魔女ヴァレンティナそのものであった。そして彼女は自らの心臓に突き刺さった銀食器のナイフをなんとかして引き抜こうと格闘しつつ、じたばたと足掻きながら苦悶に喘ぐが、その手は空しく空を掴むばかりでナイフを引き抜く事は出来ない。

「何故? 何故? なんで? なんで? なんでなのよおおおおおおぉぉぉぉっ!」

 魔女ヴァレンティナは背中を仰け反らせながら、耳を劈く大声量でもって絶叫した。艶かしさを僅かに含んだ彼女の声が、仄白い月光に照らされたシベリアのタイガの森に反響する。すると俺はその迫力に気圧けおされてしまい、思わず半歩ばかり後退った。

「なんでええええぇぇぇぇっ!」

 最後に一際大きな声で絶叫した魔女ヴァレンティナの身体が激しく光り輝いたかと思うと、その身体はまるでペチカの燃料としてくべられる炭の様な色と質感でもって黒ずみ始める。そしてやはり燃え尽きた炭さながらに、やがて真っ白な灰となって、ぼろぼろと朽ち果て始めた。

「ぇぇぇぇ……」

 朽ち果てる彼女の声は次第にか細くなり、遂にその身体が完全な灰と化すと、暫しの静寂がタイガの森を支配する。そして一陣の風がぴうと吹いたかと思えば、燃え尽きた魔女ヴァレンティナの身体はその風に舞って、どこかシベリアの空の彼方に消え去って行ってしまった。後にはただ、真っ白な雪の上に跪いた俺と、冷たい雪に刺さった銀食器のナイフがぽつんと残されるのみである。どうやら魔女は死に絶え、マシェフスキー大尉は重戦車と共に戦死し、シベリアの大地を舞台にした両者の一騎打ちは、やや魔女が優勢の相打ちでもって呆気無く幕を閉じたらしい。

「一体、何がどうなっているんだ……」

 俺はぽかんと呆けたまま、虚空に向かって呟いた。不死身の筈の魔女ヴァレンティナがどうして銀食器のナイフごときで死に絶えたのか、その理由がさっぱり理解出来ない。

「壮太! 見ろ!」

 名前を呼ばれた俺が振り返ってみれば、ルッツ兵長に抱きかかえられたイエヴァの喉をオレンジ色に発光しながら締め上げていた従属の首輪が、魔女の肉体と同じく炭の様に黒ずみ始めていた。そしてやはり真っ白な灰と化して朽ち果てると、ぼろぼろと風に舞って消え失せる。

「呪いが……解けた……」

 自分の首周りから胸元にかけての、刺青が消えた綺麗な素肌を撫でさすりながら、イエヴァが呟いた。彼女の声と表情からは、呪いが解けた事に対する喜びよりも、むしろ未だに事実を受け入れられないかのような困惑の色が見て取れる。そしてその顔に、徐々に歓喜の色が滲み始めた。彼女にしてみれば、実に六年余りにも渡って己を苦しめた従属の首輪から突然開放されたのだから、その驚きようは察するに余りある。

「どうしてこんなもので……魔女は死んだんだ?」

 俺は雪の降り積もった地面から銀食器のナイフを引き抜くと、まるでそれがアーサー王伝説に登場する聖剣エクスカリバーや熱田神宮の御神体となっている天叢雲剣と言った魔法の宝剣でもあるかのように、めつすがめつあらゆる角度からナイフを観察した。しかしやはりそれは、碌に刃もついていない、どこにでもあるただの銀食器のナイフに過ぎない。

「聞いた事がある」

 呪いの証である従属の首輪から開放されたイエヴァが、ようやくその顔を綻ばせながら言う。

「古来よりこの大陸の聖職者達は、人狼や吸血鬼、それに魔女や悪魔と言った悪しき存在を殺す方法として、銀の銃弾を心臓に撃ち込んだと言う。きっと魔女ヴァレンティナも、そう言った悪しき存在と同じく、銀に弱かったのだろう」

「ふうん……まあ、何にしろ魔女が死んだのなら、何よりだ」

 未だ少しばかり納得いかなかったが、それでも俺は一応ながら得心すると、手にした銀食器のナイフをぽんとイエヴァに投げ渡した。投げ渡されたイエヴァは無言のまま、何やら感慨深げな眼差しでもってナイフをジッと凝視しており、その顔からは悲喜こもごもと言うべき複雑な感情の機微をうかがい知る事が出来る。

「イエヴァ、キミはもう自由だ。このナイフはその証として、キミが大事に持っているといい」

「自由……そうか、自由か……」

 やはり感慨深げに、イエヴァはその言葉を何度も口に出して反芻した。そしてルッツ兵長もまた、彼女を鼓舞する。

「そうだともイエヴァ、キミは自由だ。もうこれからは、魔女の呪いに縛られて森に留まる事も無い。そして壮太、俺とお前も自由だ。俺達はこれでもう、どこまでだって逃げられる。故郷にだって帰る事が出来る!」

「ああ、そうだ! 俺達は自由だ! 自由なんだ!」

 俺とルッツ兵長、それにイエヴァの計三人は歓喜の声を上げながらそれぞれの身体を堅く抱き締め合い、晴れて自由の身となれた喜びを確かめ合った。そして俺を除く二人、つまり俺に黙ってこそこそと逢瀬を重ねて親密になったルッツ兵長とイエヴァは、互いの唇を重ねて愛情の深さをも確かめ合う。接吻する二人から見たらお邪魔虫と言うか、明らかな除け者にされてしまった俺は肩を竦め、呆れるやら照れるやらで居住まいが悪い。

「さて、それで、これからどうする?」

 ひとしきり熱い抱擁と接吻を交わし終えたルッツ兵長とイエヴァの二人に、俺は改めて尋ねた。

「決まっているだろ。帰るのさ、故郷に」

 そう答えたルッツ兵長は屈託無く微笑み、前途洋々たる俺ら三人の頭上には、仄白い満月が爛々と輝いている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る