第二話 魔物の棲む街④

そうしてアコーディオン奏者が得意になって蛇腹を押したり広げたりするみたいに、糸をよる向きを右に左に自在に操ってみせる。特徴のあるしわがれ声を、優は以前どこかで聞いたような気がしたけれど、どこでだったかを思い出すことができなかった。優は幼い頭で、男から逃れるにはどうすればいいかをめぐらせた。そして結論が出たところで、

「ボク、もう帰らなきゃ。コマはオジサンにあげる」

鼻歌は続き、黒い大きな頭はぴくりともせず、糸を操る黒光りした指だけが、軽快なワルツを奏でていた。勇気を出してもう一度言った。

「ボク、もう帰らなきゃ」

その手がぴたりと止まる。とっさに逃げ出そうとしたところでその手をつかまれた。

「危ないよ。気をつけないと、落っこちちゃう」

サンダルが半分だけ土手の淵にはみだしていた。手を差し出され引き上げられたまではよかったが、つばの下の鋭い光とぶつかったとたん、優の顔から血の気が引いた。その灰色の目は、自分だけを見つめていた。まるでこの世に男と優しか存在しないかのように。肉食獣が獲物を前にして舌なめずりするみたいに。男を突き飛ばし、土手をめちゃくちゃに駆けた。サンダルのヒモがちぎれ、雑草に足をとられたところで靴を脱いで裸足になった。そしてさらに駆けていくうちに、枝きれか小石かを踏み、そのうちに足裏がきりきりと痛みだした。それでもなんとか走り続けた。けれどまもなく行く手をふさがれた。水路がトンネルにつきあたったのだ。茫然とその場に立ち尽くしていた。駆けてきた草むら一帯が、真っ赤な水玉模様の壮大なアート場と化していた。土手にしゃがんで、萌黄色のどろりとした水流が、暗渠の中へ流れ込むさまを見送った。それから気を取り直したように立ちあがり、目の前に立ちはだかるレンガの壁をうらめしそうに見上げた。直兄ちゃんとよく遊んだゲームボーイのポケモンなら、こんな時、“テレポート”で簡単に移動ができるのになあと思いながら。“あなをほる”や“あなぬけのヒモ”、手っ取り早く”そらをとぶ“という方法もあるのになあ、と。

「ブンブンブン」

優しくささやくような雨音をバックミュージックにして鼻歌が聞こえてくると、優は固く身体をこわばらせてその場に立ち尽くした。男の手の中でコマはいよいよ回転の速度が高まってくる。

“ブーンブーンブーン”

コマの回る音が、ハチの羽音のように高くなる。優はもう金縛りにでもあったように身動きができない。とうとう頭を抱えてしゃがみ込んだ時、コマの回る音がパタリと途絶えた。

「坊や」

「なあに」

「もう、遊んではくれないの」

優は激しく首を横にふった。それからあわてて付けたした。

「うん、ボク、もう帰らないといけないの」

「ふーん」

コートの袖と袖をこすり合わせるような、乾いた音が聞こえた。優は懸命に耳をすまし、その音がやがて途切れると言った。

「ぶんぶんゴマはオジサンに上げるよ」

返事はなかった。

「やっぱり、帰ってしまうんだね」

視界が突然真っ暗になった。優の身体はもうその時には、男の黒いコートの腕の中にすっぽりと収まってしまっていた。鼻先に魚の干物や汚物やありとあらゆる臭いものを集めて固めたものを、押し込められた感じだった。苦しくてむちゃくちゃにもがいたが駄目だった。優は今や革靴の中に迷い込んだアリだった。逃げることができなければ、潰される。もう、 “テレポート”も “あなをほる”も、”そらをとぶ“のわざも試せそうになかった。もがかにもがいてやっと腕からすり抜けることができた。とたんに顔に火のように熱いものが振りかざされた。鍵爪は、最初は額と鼻を二度目は頬を、三度は耳を切り裂いた。四度目に首元に刺さったそれは、バゲットパンでも切り裂くようにして喉の奥へと差し込まれた。低く身をかがめていたので、吹き出した鮮血が血しぶきとなって、今にも飛び出しそうな男の目の周りに飛び散った。

小さな身体がヒクリヒクリと痙攣を繰り返した果てに動かなくなると、男はウゥ、と呻き、男の子の喉元に開いた真っ赤な花のような血だまりに見入った。血だまりはさらに細い幾筋もの血流を生んで、男の子のカナリア色のTシャツをザクロ色に染め上げていた。その眼は今や、天空に浮かぶ珍しい生き物でも眺めるみたいにピクリとも動かなくなっていた。男はコートのポケットに血に濡れた鍵爪をそっと忍ばせる。そして静かにコマを取り出してくると、水路へとそっと投げ落とした。それはまるで優の心臓のかけらが落っこちたみたいに、はらりと軽くそれでいて弾力を持って、水面を逆向きに滑るように流れていった。

“グェーグェーグェーグェー”

かなたの山でまたカラスが騒ぎ出していた。男は、その方をちらと見てちょっと顔をしかめてから、腕に抱いていた男の子を無造作に水路へと投げこんだ。やがて男は、遺体がコマを追うように南に向けて流れていくのを確かめることなく、弾丸のような速さで暗渠の闇へと吸い込まれていった。

短いランチタイムが済んで、人々がまだどことなくけだるいような気分でデスクワークに就く頃、雨が止んだ水路橋にスーツ姿の二人組が上ってきた。小脇に抱えた革製のブリーフケース、一方は望遠鏡、他方はデジタルカメラを持参している。もしも何も知らない人が見たら、フィールドワークに訪れた学生か、日本野鳥の会会員か、はたまた水路の水質調査員とみまがったかもしれない。あるいは彼らの目的は、土手の小さな足の形や、雑草が不自然になぎ倒されている個所や、下草に刻印された赤い水玉模様をカメラに収めることだったかもしれない。またそうではなかったのかもしれない。やがて二人は、水路の土手に並んで立つと深々と頭を垂れた。時間にして一分か二分ほどだったが、もしも足元の下草か背後のケヤキか向かいの桜の枝先に、ピンマイクでも取り付けてあったら、こんな言葉を聞き取ることができただろう。

--天(あめ)切る、地(つち)切る、八方(やも)切る。天(あめ)に八違(やたが)ひ、地(つち)に十(とお)の文字(ふみ)、秘音(ひめね)。一(ひとつ)も十々(とおとお)、二(ふたつ)も十々、三(みつ)も十々、四(よつ)も十々、五(いつつ)も十々、六(むつ)も十々。ふっ切って放つ、さんびらり--。最後に鞄から取り出したのは、麗々しい梵字でしめられた紙切れ一枚。二人して恭しく土手に身をかがめ、水路に浮かべて足早に立ち去っていく。


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