第二話 魔物の棲む街③
鉛色の空の真ん中を稲妻が走る。空を真っ二つに割るみたいな鋭い火花で、木の根方には雷が落ちやすいことなど夢にも知らない彼は、そのたびに幹にしがみつくのだけれど、ドシドシと地底を揺らすような爆音は、何か得体のしれない化け物が生まれる瞬間のバックミュージックみたいで恐ろしかった。彼はとうとう泣き出していた。合わせてお股もびしょ濡れで、一つ前の雷が鳴った時にお漏らししたのだけれど、そのうちにそれも雨がおし流してしまった。
どれだけの時間がたったのだろう。ひとしきり泣いた後はそれでもケロッとして、コマを回すほどの余裕を取り戻していた。雷は相変わらず怖いけれど、そんな時は両耳をふさぐ指に力を込めて耐えた。爆音が消えてなくなるわけではないけれど、何もしないよりはマシだった。ぐいぐいと耳の奥深くに人差し指を押し込むのだけれど、もういいかなと指を離すと、また雷音が聞こえてきたりでそんな時は恐怖は二倍にふくらんだ。コマは青と赤のインクがところどころにじみだしていた。せっかく兄ちゃんが作ってくれたのに、これでは台無しだ。にじんだところを指でなでながら優は思う。
“雨が止んだら家に帰ろう”
――ボク、そこで何してるの――
夢を見ているのかと思う。しわがれた金属的な響きのある声で、こんな雨のさなかに、声をかけてくる人がいるとは信じられなかった。
おそるおそる振り向くと、マジシャンがかぶるみたいな山高帽をかぶった、コート姿の男が立っていた。優の目には六十歳をとうに過ぎているようにも見えたけれど、はっきりしたことはわからない。ただかなり特異な風貌であることにはちがいなかった。何しろ肌は干したプラムみたいにしわしわで、どす黒い感じの唇は薄く平べったいヒルみたいだったし、何より帽子のかげに半分隠れたその鼻ときたら、まるで額からそのまま伸びあがったみたいに不思議な三角の形をしているのだ。
――それ、ぶんぶんゴマだね――
男は、優の手の中のモノを目ざとく見つけると言った。
「うん」
優はすかさず雨に負けないくらいの大きな声を張り上げた。
「回してみる?」
自分でも意外な気がしたけれど、そのように言わせる何かが男にあったというほかはなかった。
――いいの?――
「どうぞ」
指先がぐっしょり濡れているせいで糸がなかなか手から離れてくれない。それでひどく焦ったけれど、手間どりながらもなんとか指から抜き取ってコマを差し出すと、男に手渡した。その手は炭のように黒く干からびていて、冷たくてまるで血が通っていないみたいだったけれど、男はゲタゲタと楽しそうな笑い声をたてた。笑うたびにヒルのように薄ぺったい唇の間から、魚のはらわたみたいな色の舌が出たりひっこんだりした。優は内心ぞっとなったけれど、男が慣れた手つきで糸をくるくる回すのを眺めているうちに、恐怖はすこしずつ和らいでいった。
実際、男のコマ回しの腕は大したものだった。優などは、コマが一定の速度で回り始めたとしても一分ももたないのが、男の手にかかるとまるで無限のように回り続けるのだ。変幻自在に操られるコマ。その鮮やかな手つきを見ていると干からびたカリントウのような指の一本一本に、特別な何かがあるようにも思われてくる。けれど優は五分もしないうちに退屈になって、何より怖ろしくて男のそばにいるのが苦痛になっていた。
雨は幾分落ち着いて小降りになりはじめていたけれど、男のつば広の帽子をしたたる雨は、ペリカンのくちばしみたいにとんがった鼻の頭を通り、あごから、錆びた鉄の棒のような首筋を舐めるように伝っていったあとは、その黒皮のコートの下の垢で黒ずんだシャツの中へと、磁石が鉄粉を吸い込むように消えていった。やがて優がすきをみて、人の手の形をした葉っぱの木から離れようとした時、また声がした。
――ボク、どこに行くの――
声もたてずに激しく首を横に振ってこたえると、男は、ヒルのような唇をかすかにゆがめてみせた。
――よおし、いい子だ。もう少しオジサンといっしょに遊ぼう。いいね――
優は生唾をごくりと飲む。それから小さくうなずく。気を良くした男は優のとなりにぴったりくっついた。コマの回る音に合わせて鼻歌を歌う。
“ビューンビューンビューン、そうら、ビューンビューンビューン”
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