第二話 魔物の棲む街⑤

8月10日、地元の新聞が、夏の全国高校野球選手権大会の前売りチケットが、”久米琢磨効果”により、早くも完売となったと伝えた日の午後、直樹の父の野上弘樹が古都大学付属病院の一室で、鎮静剤でやっと眠りについた妻の浅海の手を取ってむせび泣いている時、父と母を置いて一人病院をあとにした直樹が、よろけるような足取りで、地下鉄烏山線の烏山御池駅におり立ったころ、水路に落ちたぶんぶんゴマは、短い旅を終えていた。たどり着いたのは、火輪湖から西に8km、火輪湖第一疎水と第二疎水の合流地点から目と鼻の先の華上浄水場と華上水力発電所が共同で管理する上部取水池だった。直前まで、コマは華上浄水場から発電所の取水口をつなぐ導管の中を行きつ戻りつしていた。そしてやっとのことで毎秒17m3の水流に押し流されるようにして、貯水池へとたどり着いたものと思われた。コマは貯水池の水面に、しばらくぷかぷかと浮いていたが、五分もたたないうちに、とつじょ池の底に沈むと、二度と浮き上がってくることはなかった。野上優の遺体が発見されたのは、コマが池の底に消えた時刻からさかのぼること5時間前、8月10日の日曜日、午前9時32分のことだった。

第一発見者は、勤続32年のベテラン作業員で、名前を田中努(たなかつとむ)と言った。田中は、大学入学と同時に古都市に出てきて、卒業後まもなく電力会社の保安業務の仕事に就いた。以後は作業員として安全維持の仕事におもに裏方要員として携わってきた。同僚の信頼も厚く後輩の面倒みもよく、家族は妻と中学生になる娘が一人、週末は高校で数学を教える妻のために、家事を手伝い家庭菜園にも精を出す、絵にかいたようなマイホームパパだった。

発見当日の田中氏のとった行動も見事なものだった。最初は人形かと思ったものが、モニターで大写しにしたところ、頭頂部をおおっていた黒い頭髪が一本一本透けて見え、これは人間の、それも小さな子供にちがいないと確信すると、すぐに管理部門に連絡を入れ、取水口と建屋への導水の出入り口をふさぐように要請した。貯水池の面積は、たて15m、横10m、深さ5mもあって、幼児はもちろん絶命していたが、”調整枡”と呼ばれる導水管と取水口のちょうど谷間のような箇所にぷかぷか浮いている状態で、ほおっておけば遺体がどちらかに流されてく恐れがあったのだ。

氏の通報を受けて部下の巡査とともに駆け付けたのは、岡咲派出所の巡査部長、八神春野(やがみはるや)だった。今年で48才になる八神警部は、でっぷり太ったタヌキのような身体つきをしている。飛び出たピンク色の耳たぶと、たっぷり肉のついたほっぺた。見かけどおりの愛嬌者で、小さなまふだの奥のウツボのような目はいつも笑っているように見えた。けれどその日ばかりは、いつになく厳しい表情だった。何しろ亡骸はまだ小さな子供だというのだ。とにかくまだ蕾のような命、なるべく傷めずに引き揚げてやる必要があった。クレーンを使うことも考えないではなかったが、絶命しているのでは救助工作車の出動はむずかしい。悩んでいるうちにも救急車は到着する。隊員はしめて五人、その頃にはもう池の周りには大勢の人垣ができていたが、隊員たちの動きは素早かった。ギャラリーをさばくもの二人と、安全の確認をする者。残る二人が収容担当で、引き揚げ作業はものの五分としないうちに完了した。最初はあやまって溺死したものと考えていたが、遺体を目にした途端、その考えはひどく甘いものだった思い知らされた。男の子の首筋には幾筋もの刺し傷が刻まれていて、深いものでは喉の奥にまで達していたからだった。悪い予感を覚えた八神はすぐに東野山署に電話を入れた。遺体が発見されたと告げても、窓口の娘はせきも騒ぎもしない。それどころか、男の子の捜査願いが出ていないか確認してみたところが、

“少々お待ちください”

と、長らく待たされた挙句には、

“今、調べていますので、もうしばらくお待ちください”

これ以上ないほどの冷淡さで、保留音に切り替えてしまったのだ。そうして延々とエルガーの”愛の挨拶”を聞かされたあとで、返ってきた返事は信じられないものだった。

「申し訳ございません。只今、担当者が不在なもので確認がとれません」

担当者が不在? 芸能人のゴシップの言訳じゃあるまいし、調べる方法はいくらだってあるだろう。オレを誰だと思ってるんだ。喉まで出かかって諦めた。警察組織というところは典型的なピラミッド型で、上から順に国家警察、警視庁、道府県警察本部、警察署と続き、八神のような派出所勤務の人間は、たとえ部長と名がついても、下っ端扱いされることがよくあるのだ。

八神は電話を切ると、思い直して御陵山品署に電話をかけてみた。今度は被害者の年格好など具体的な情報を与えてみたのだったが、ここでも長々と”愛の挨拶”を聞かされたあとで、返ってきたのは例のごとくだった。

「申し訳ございません。只今、担当者が不在でして」

なおも食い下がったが、刑事部の総務課の娘は、録音されたテープをリピートするみたいに、同じセリフを繰り返すばかりだった。

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