第8話 さぁ、荒れてまいりました!
「――邪神の聖典を流布しようとは何事か!?」
枢機卿トックの怒声に首をすくめた司会は商品を示す。
「えぇ、言い当てられました通り、こちらの商品は呪詛の神『ンルーヌ』の聖典『両刺の釘』でございます」
呪詛の神『ンルーヌ』、権能魔法は呪い。
場合によっては死をももたらす禁忌の魔法。その性質から、基本的に宗教には不干渉の国家でさえ邪神に認定している。
人々を癒す権能魔法の使い手である、快癒の神ギリソン教会の枢機卿トックは怒りのあまり顔を真っ赤にしている。
「邪神の聖典を売るなど、恥を知れ。それは今すぐに燃やされるべき汚物だ!」
燃やす。その言葉は、この会場において最大の禁句だった。
司会が凄味のある笑顔を浮かべて言い返す。
「本とは知識を伝える道具であり、知恵を育む水である。道具に罪はなく、たとえ泥水であろうとも我らは知恵の花を咲かせよう。貴殿らは、泥濘に咲く花の美しさも知らないのか?」
司会の言葉は最上最大の皮肉だった。
本を愛する者の誰もが知るその言葉、異端と断罪されかけたピッリを弁護するべくクラリナ女伯爵が枢機卿会議で言い切った啖呵の引用なのだから。
トックがぎりぎりと歯を食いしばる。
そんな二人の険悪なやり取りがまるで見えていない人物がいた。
「……の、のぅ、カナエ?」
「ふふふ」
「カナエ、落ち着くのじゃ。いい子だから、のう? 変装しているとはいえ、流石にあれに手を出すのは不味いのじゃ」
「ふふふふふふはははっ」
「やめるのじゃ!」
セキの静止も聞かず、カナエは哄笑と共に立ち上がり、会場を揺らすほどの良く通る声を響かせた。
「金貨五百枚!」
スタート金額の五倍。
会場が静まり返る。
マジか、こやつ、空気、読めぬ。
セキが頭を抱えた。
司会も枢機卿トックも、唖然とした顔を向けている。
いち早く正気を取り戻したトックが怒りに震える指でカナエを指さした。
「き、貴様、異端者か?」
「異端者? 何を言っている。ここは本を信奉する者の集いだ。異端はお前だよ、枢機卿トック。いい機会だ。この言葉を覚えて帰れ。――我らは泥濘に咲く花の美しさを知っている!」
カナエが真っ向から喧嘩を買って見せる。クラリナ女伯爵の言葉に応える形のそれは状況に理解が追いついたビブリオマニアたちから拍手と称賛を送られた。
万雷の拍手を前に、自らが敵地にいることをようやく思い出したトックが苦い顔をして司会に合図を送る。
司会はにこやかな笑みで頷いた。
「二十番の方、金貨六百――おっと、金貨七百枚が入りました」
司会が言い切る前にカナエが即座に金貨を積んだ。
カナエの脳裏では現在の所持金と除虫の神『ガラガナガラ』の聖典『永久繭』を始めとした秘蔵本の価値などが計算されている。
燃やされたとはいえ、バーズ王国から男爵位を授かるほどの禁書庫の主、カナエが全力を出しに来ていた。
拍手を送っていた蔵書狂たちも、背格好からカナエに気付いた知り合いが引きつった笑みを浮かべる。
カナエの二つ名、蔵書卿との呼び名は男爵位に由来しているわけではない。
蔵書が増えるとみれば、貴族のように金遣いが荒くなる。そんなカナエの性格を表しているのだ。
「金貨七百五十枚――金貨八百五十枚!」
オークション史上最高額をやすやす突破し、苦しそうな顔をしたトックがカナエを盗み見る。
カナエの視線は競りの開始から微動だにせず、壇上の聖典『両刺の釘』に注がれている。
「もう他にありませんか? 二十番の方……金貨九百枚です。おっと、千! 千枚の大台に乗りました!」
会場がどよめいた。
カナエとしてもかなりギリギリである。しかし、視線は聖典『両刺の釘』から動かない。
仮面をつけているカナエの表情は窺いにくく、その固定された視線からも所有欲は計り知れないと見たのか、枢機卿トックは怒りと悔しさがない交ぜになった表情で席に座り、競りから降りる意思表示をした。
勝った。手に入る。読める。カナエが興奮と幸福に両手を握りしめた、その時だった。
「――え、お間違いではなく?」
司会があらぬ方を見て目を疑うように固まった。
司会は一つ頷くと会場を見回して、告げる。
「金貨二千枚が提示されました」
その言葉はカナエの脳に死刑宣告として響いた。
※
燃え尽きて意気消沈している抜け殻のカナエの隣で、セキは貝殻を模した一口カステラを食べていた。
「そろそろ元気を出すのじゃ」
「うん……」
「おぬしも食べるか? 甘いものを食べれば少しは気持ちが上向くのじゃ」
「うん……」
一向に食べようとしないカナエに諦めたセキは一口カステラを引っ込めた。
会場にはもう誰も残っていない。すでに掃除が始まっており、退出しなくては迷惑になるだろう。
「落ち込むのは宿に帰ってからにするのじゃ」
「うん……」
覇気のない返事をして立ち上がったカナエはふらふらと幽鬼のように出口へ向かう。
「それにしても、金貨二千枚をポンと出すなど、いったい何者じゃろうな」
「分からない。だが、ビブリオマニアの類でなくても需要のある本だ」
呪詛の神だけあって、遠距離から一方的に対象を呪い殺すことも可能なのが『ンルーヌ』の権能魔法の特徴である。
歴史上では、ンルーヌ教会を制圧しようとした国家が一万の軍勢を送り込んで返り討ちに遭ったうえ、国王、宰相などの首脳陣が例外なく呪い殺される事件もあった。
ンルーヌ教会は山の奥深くにひっそりと存在し、邪神認定を受けたにもかかわらずいまだに存続し続けている。つまり、神官のなり手も信者も一定数が存在し続けていることに他ならない。
しかし、ンルーヌ教会は勢力を伸ばすことはなく、大っぴらな布教も行わず、いつの時代もただひっそりと山奥に存在し続ける。
「今ではすっかり手出し厳禁の聖域みたいになっているんだ」
そんなンルーヌの聖典『両刺の釘』が出品されることなど、一生に一度どころか人類史を見回しても今後あるかどうかの大事件だった。
無い袖は振れないとはいえ、カナエは未練たらたらである。
「読みたかったなぁ。頼めば読ませてくれないかな」
「諦めるのが肝要なのじゃ。あんな危ないもの、読むだけで枢機卿会議に異端認定じゃ」
「今更じゃないか」
「……言われてみれば、その通りなの――いや、騙されぬ。せっかくの新しい身分が台無しになるという話をだな」
「変装してるだろ」
「……とにかく諦めるのじゃ!」
問答無用、とセキが腕を交差させてこれ以上の議論を封じる。
オークション会場を背に宿への通りを歩いていると、道の先から人が逃げてきた。
宿の前で何か騒ぎが起きているらしい。
カナエは肩をすくめる。
「何が起きているのか予想できるんだが」
「奇遇じゃな。我もなのじゃ」
視線を交わし、逃げる人の間を縫っていく。
宿の前に一人の青年が立っていた。
異端者狩りの死体がいくつも転がるその場所で『両刺の釘』を片手に。
青年がカナエに気付き、澄んだ目を向けた。
「――待っていたよ」
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