第三十七話 木曜日 夕の刻 〜今日はここまで

 本当は9つ指の動きがあるのだという。

 でもぼくは冴鬼を鬼化おにかできればいいから、3つだけ。

 ……とはいえ、難しいことこの上ない!


 まず【りん】の印の名前は、普賢三摩耶印ふげんさんまやいん。左右の手を組み、人差し指を立てて合わせる。


 次に、【ぴょう】の印の名前は、大金剛輪印だいこんごうりんいん。左右の手を組み、立てた人差し指に、中指でつくった輪にくぐらせる。


 最後が、【かい】の印の名前は、外縛印げばくいん。左右の指をそれぞれ外に組み合わせ、右手の親指を外側にする。


 このなかで一番簡単な印は、ダントツで、【皆】!

 ただ手を組めばいいだけ!

 次は、【臨】。これは組んだ手の人差し指だけ立てればいいから、忘れなければ、できる!

 だけど、【兵】きみはダメだ……!!

 図でみても、指でくんでも正しいか、ぜんぜんわからない。


「凌よ、うまいぞ!」

「ね、仮にこれができたとして、霊力をこめるってどうするの?」

「こう、眉間が熱くなる感じで……」

「感覚派はそれでいいかもだけど、ぼくはムリ」


 しょぼくれた冴鬼だけど、ぼくは霊感が強いだけで、霊力があるわけじゃない。

 本当に冴鬼を鬼化できるんだろうか。


「まずは、その指ができないかぎりは、突撃禁止ね! 祠にも近づいちゃだーめ!」

「じゃ、帰り道、どうしたらいいの!?」


 間髪いれずにいったのは橘だ。もう、絶望の表情もいいところ。


「もしかして橘、いっつもあのルートだったの?」

「だってまだ街のことよくわかんないし」

「そっか。ちょっと遠回りになるけど、商店街の中を通って抜けるルートがあるんだ。今日、一緒に帰れれば、案内するよ」

「ほんとに?」

「うん」

「わしもいくぞ、わしも!」

「そうだね。でも、指、早く覚えないと……」


 にゅっと先生の顔が近づいた。

 もう、鼻と鼻がくっついてる。


「新くんは、土曜日の黄昏刻まで死なない。焦っちゃダメ!」

「は、はい」

「見なくても指が動くようになれば問題なし。それだけ指を動かして。わかった?」

「わかりました……」

「じゃあ、凌よ、印を結びながら商店街までいこうではないか!」

「いいけど、なんでそんなにはりきってるの?」

「いろんな店があるんだろ? 美味しいものも、猫もおるかもしれん」

「どれだけ猫なの、あんた」


 ため息をつく蜜花に冴鬼の熱弁がつづくけど、もう、この時間を過ごせないかもしれなかったと思うと、胃が冷えてくる。頼もしい仲間との時間が消えるなんて、そんなの、ダメだ!


「よし、湯呑み片づけようか」

「お、そうだな」

「じゃ、あたし洗うね」


 ぼくが声をかけると、それぞれに動いてくれる。

 ぼくも手伝おうとしたとき、先生の手がぼくを止める。


「すこしでも冴鬼を裏切ることがあれば、ボクは躊躇ちゅうちょなく、君たちを消せるから、よぉ〜く、覚えておいてね」


 ぼくを見おろす目が光る。

 憎しみすらにじんだ、どす黒い光だ。

 ぼくは前をむき直す。

 そこには、キーキーいいつつ、仲良く片付けるふたりがいる。


「消せるタイミングがあるなんて、思わないでください」


 ぼくは2人のところに走っていく。拭いた湯呑みを冴鬼から受けとり、小さな棚にしまっていると、背中に声がかかった。


「フジ、なんかいっておったか」

「ん? ああ、がんばってね、っていわれたよ」

「そうか」


 冴鬼の声が明るくなる。

 背中できいていたからよくわかる。

 嬉しそうな、そんな声だ。


「よし、片付けおわりー! 帰ろ、凌くんに、安倍く……冴鬼くん」

「わしのことも名前で呼んでくれるのか。わしはうれしいぞっ」

「あ、あたしのこと名前で呼んでるから、そろえただけだし!」


 カバンをつかんだぼくは戸の前に立つ2人のもとにいく。


「ありがと、冴鬼に橘」


 お礼をいったぼくなのに、冴鬼はまるで異物でも見るようにぼくを見あげる。


「なあ、凌だけだぞ、蜜花のことを苗字で呼んでるのは」

「べ、別に凌くん、名前でよんでもいいよ、あたしのことっ」

「え、いや、ちょっと時間、ください……」


 廊下にでると、みんなで振りかえった。

 そこには白衣に手をつっこんだ銀水先生がいる。


「フジ、帰りはてきとうにする」

「ああ、かまわないよ」


「先生、今日もありがと! お茶おいしかった」

「湯呑み片付けてくれてありがとね。また明日ねぇ」


「先生、よろしくおねがいします」

「まかせておいて」


 ゆっくりと白い戸がぼくの前をさえぎるまで、先生の目はぼくを離してはくれなかった。



「なぁ、商店街ではなにをするんだ?」

「本屋にいこうよ」

「わしは書物に興味は……」

「本屋とはいうけど、いろんなものが売ってるんだよ。……これが休日なら買い食いもできるんだけど」


 靴をはきながら、ぼくはぼやく。

 冴鬼もガックリ顔だ。想像ではいろんな食べ物が食べられる気がしたんだろうな。


「……あたし、買い食いの方法しってるけど、……やる?」


 誰もない生徒玄関に響いた橘の声。

 それは、とてつもない誘惑の声だった────

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