第二十二話 水曜日 朝の刻

 ────朝だ。


 悲しいって気持ちだけ、しっかり覚えてる。

 なにが悲しかったんだろう……?


「とにかく、今日もがんばろっ」


 そのまま兄の部屋の前にぼくは立つ。

 ドアのすきまからもれてくる黒い煙。生臭くて、じっとりとしてて。

 ぼくは息をとめて、ドアを開けた。


「おはよ、兄ちゃん」


 真っ黒の煤にそまった部屋。

 物の位置がわからなかったら、つまずくぐらいなにも見えない。

 ぼくはすぐいにカーテンをひいて窓を開けた。

 真っ黒な煙が消えていくのを見届けて、ぼくはやっと息をすいこんだ。

 だけど、ベッドに兄がいない。


「……兄ちゃん……?」


 兄になにかあったのか……?

 胃がキリリと痛む。

 すべるように階段をおりて、リビングへのドアをひらいて飛びこんだ。


「凌、あわててどうしたの」


 母の声はきこえていたけど、ぼくは返事ができなかった。 

 すこし顔色がいい兄がいたからだ。


「……はぁ……おはよ……」


 のんきにココアなんか飲んで。

 その顔におもわずほっとするけど、兄の顔がにこりと笑う。


「おす、凌。まだ早いぞ? 遅刻と勘ちがいしたか?」

「……あ、そうみたい。今日は早起きだったね」

「ああ。すこしだけ体が軽くてさ」


 そうはいっても、重そうな黒い束が兄の両腕にまきついている。

 もちろん、両足にだって。

 髪の毛のようにまとわりついて、離れる気配がまったくない。

 それがすこし軽く感じるのは、冴鬼が祓ったおかげだとおもう。


「昨日、冴鬼と遊んだのが気分転換になったのかな」


 兄の横にすわると、ぼくのぶんのココアもでてきた。


「ありがと、母さん」

「いえいえ。でも、ほんと、昨日は母さんも楽しかった」

「冴鬼、ちょっと子どもっぽいからね」

「そうなの?」


 クスクスわらうけど、ぼくは本当のことをいっただけなのに。

 だけど母のココアは、ほっこり甘くてココアが濃いから、ぼくは大好き。


「なぁ、凌」

「なに、兄ちゃん」

「夜中、なんか聞いてたりする? なんか女の人の歌が聞こえた気がして」

「……あ、ちょっと音楽ならしてたかも。ごめん、すこしボリュームさげてきくから」

「いや、ちょっと聞こえるだけだから」


 兄はすべり出てきたトーストにかみついた。

 ザク、ザク、ザク……

 そのすきまから、女の声が聞こえてくる。



 兄にもが聞こえはじめてる───



「凌、パン、さめるぞ?」

「あ、うん」



 ───今日で、決着をつける……!



 ぼくはトーストを2枚に、目玉焼き、野菜たっぷりのスープを食べきった。

 朝の元気は大切だ!

 だってこれから呪いに対抗しなくちゃいけない!


 ローファーに足を入れたとき、チャイムが鳴った。

 そのままの勢いで玄関をあけると、


「凌よ、いっしょに学校へいこうではないかっ」


 冴鬼がいた。

 ぼくは面食らってしまうけど、冴鬼はにこにこ笑うだけだ。


「どうしたの、冴鬼?」

「どうしたもこうしたも、だからな」


 冴鬼の視線は公園の楠にむいている。

 なるほど!


「お、サキくん、おはよ」


 兄が手をあげ玄関からでてくる。

 それに冴鬼は頭をさげた。


「昨日は世話になったな、あらたよ」

「ちょ……一応先輩なんだから、呼び捨ては……」

「なぜだ? お主の兄なだけではないか」

「いいよ、凌。サキくんは外国からきたんだし、そういうの関係ないんだろ」


 ふふん、と鼻をならす冴鬼をぼくはにらむけど、なんで先輩と後輩ってあるんだろ。

 でも、いろいろ教えてもらったりもするから、やっぱり必要なの……かも?

 小学校のときはあまり感じなかった年齢のカベが、中学にあがってからよくみえてくる。


「新よ、昨日の人生ゲーム、また遊んでみたいぞ」

「今度は別なゲームにしようか」

「おお、もっと別なゲームがあるのか!」


 楽しく話しをつづける冴鬼だけど、器用に兄の両腕・両足から呪いを削いでいる。

 ありがとうといおうとしたとき、冴鬼がぼくのほうにふりかえった。


「凌よ、宿題でわからないところがあるんだが……いいか?」

「あ、うん、わかった。じゃ、早めに学校いって、図書室できくよ。兄ちゃん、先いってる」

「おう。気をつけて行けよー」


 ふたりで肩をならべて走りだすけど、冴鬼の顔がしぶい。


「どうしたの、冴鬼」

「呪いの濃度が高くなっているな……まぁ、なんにせよ、今日のうちに呪いにカタをつけたい」

「ぼくも同じ気持ち!」

「いや、それよりも、宿題が……」

「……え? 本当に宿題のこと?」

「当たり前だろ。なんだ、あの英単語の書きとりというのは! さらに数学も意味がわからんっ」

「全部じゃん」

「とにかく、助けてくれ!」

「必死すぎだし」


 前に大きく一歩を踏みだした。

 なのに、空は鉛色の雲がのびていて、肌にまとわりつく湿気が呪いのよう。


「……気のせい!」


 ぼくは声にだして否定するけど、心のモヤモヤは晴れてくれなかった。

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