安西弥恵

 ただ事じゃないことが起きているのは確かだった。

 だけどそれがなにかわからない。

 僕は校舎に駆け込んできた人に事情を聞こうと思った。

 靴箱までやってきたが、どこにも人はいなかった。廊下にも職員室にも誰かいる気配はない。

 僕は外に出て海を見つめた。

 少し高台にある僕らの学校からは、海の様子がよく見えた。

 空を覆いそうな海面はだんだん町に近づいてきた。

 まるで陸地が急に下がったように海面が上昇すると、浜辺はあっという間に沈んだ。

 海が大きく膨らむと、防波堤を乗り越えた大波が街中に溢れ出した。

 一度波が乗り越えると、防波堤はあっけなく決壊して、壊れた箇所から海が無情にも雪崩込んできた。

 波は道路の上を勢いよく走った。波に追いかけられて走り回る人の姿が見えた。

 停めていた車はふわっと浮き上がると波に飲み込まれながら道路を転がった。

 家々はマッチ箱のように軽く波にあしらわれ、電柱が倒れるとぎりぎりぎりぎしっ、ぎゅっ、ぎぃ、ぎりと音を立てて電線が引っ張られて千切れた。千切れた電線から火花が散った。火花が漁船に降り注ぐと、ドンっという音がして赤い炎が上がり、黒い煙が空に立ち上った。

 がらがらがらがらがらがらがらがらがらと砂利を空から大量に降らせているような音と共に、波は町を端から端まで飲み込んでいった。

 町が沈んでいく中、「…逃げてください」という町内放送が虚しく響いていた。

 スピーカーも波に飲まれたのか、やがて町内放送も聞こえなくなった。

 突然の出来事に、僕は足がすくんでいた。

「あー!」

「きゃー!」

「お母さんおかあさんおがあさぁんーー」

 誰もいないはずの校舎中に大勢の悲鳴が反響した。

 脳に突き刺さるような叫び声を聞いて、僕は頭の中が混乱した。

 なにが起こっているのか全くわからなかった。

 あまりにも体が緊張して、僕の視界はぐるぐるぐるぐる回転した。

 波はまっすぐ学校に向かってきていた。まるで怪獣が勢いよく学校に飛びかかってくるみたいだった。

 がらがらがらがらがらがらがらと音がする。

 僕はあの怪獣に飲み込まれて死ぬんだと思った。

「はやく上に!」

 安西の声が階段の上から聞こえた。

 僕は我に返り、全速力で階段を駆け上がった。

 波が校舎の一階に流れ込んできた。靴箱が流され、窓ガラスが割れて、壁がえぐれて、蛍光灯が破裂した。階段はひっくり返されたように斜めになった。

 僕は泣きそうになりながら階段を登った。

「もっと! もっと上に!!」

 安西は大声で叫びながら階段を駆け登った。僕は足が壊れそうなくらい走って安西を追いかけた。

 波は校舎の二階も飲み込んだ。波に流されて椅子や机が校舎の外に吐き出された。

 波は勢いを緩めることなく、三階にも到達しようとしていた。

 僕のすぐ後ろでがらがらがらがらがらがらという音が轟いた。

 まるで世界が崩れていくようだった。

 死んだほうがマシなんじゃないかというくらい怖くて、僕は今すぐうずくまって泣き叫びたかった。

 でも安西が「だめ! 走り続けて!」と何度も元気づけてくれた。

 四階まで登った。

 いつも登っている学校の階段なのに今日は階段が長く感じた。険しい山を登っている気分だった。

 五階の階段を登りきった。まだ波が押し寄せてくる。

 四階の音楽室が流されると、木琴や鉄琴がばらばらに飛び散る音が響いた。オルガンが流されてどこかにぶつかると、ドーンという鍵盤の音が聞こえた。

 六階まで登った。

 僕は息が上がっていた。ここまで来ればもう安心だろうと思ったが、廊下がびしょぬれなのに気づいた。

 波は勢いを弱めつつも、着実に校舎を飲み込もうとしていた。

 廊下に染み込んでくる水はあっという間に五センチほどの深さになった。

 ぐぉーーーーーん、ぎぎぎぎぎぎ。

 校舎が船のように傾いた。

 床が斜めになって椅子や机が滑り始めた。

「もっと上に行こう」

 安西がそう言った。

 残りは屋上に続く階段しかないが、屋上の扉は普段施錠されていて開かない。

 僕らは僅かな望みを持って階段を登り、屋上の扉のドアノブに手をかけた。

 開かなかった。

 いつも通り施錠されていた。

 重たいものが壁に当たる音がした。

 階下を覗くと、海に浮かぶブイが波で運ばれて六階の壁にぶつかっていた。波は他にも洗濯物や遊具の破片やぬいぐるみやカラーコーンを運んできていた。

 校舎がまるで海の底に沈んでいくかのように、水が僕らに迫ってきていた。

「どうしよう。もう助からない」

 安西は諦めに近い笑みを浮かべた。

 僕は辺りを見回した。

 そしてあるものを見つけた。

「大丈夫。助かる」

 階段の踊り場にある窓だった。そこは屋上に通じている。

「高くて届かないよ」

「僕が肩車するから」

 僕は安西を肩車した。安西は窓の鍵を開けた。

「ダメ。開かない」

 安西が窓を開けようとするが、窓はがくがく揺れるだけで動かない。

「窓、割れない?」

「無理だよ。何で割るの!?」

「上靴は!?」

 安西は上靴を脱いで、それで窓を叩いた。

「割れない。すごい硬い」

 安西はもう一度窓を開けようとした。窓はがたがた揺れるだけで開かない。

「窓が傾いてるのかも」

「どうすればいいの!!」

 安西の叫び声が聞こえた。

 僕だって叫びたい。僕だってどうすればいいかわからない。

「えーと。えーっと。窓の調整ネジの場所わかる?」

「調整ネジって?」

「窓の高さを調節するネジ。家の手伝いとかでしたことない? ドライバーでくるくる回すの」

「ある。あるよ」

「それを回せる?」

「あるわけないよ。ドライバーなんて持ち歩かないもん」

 僕は自分のポケットをまさぐった。

 なにもない。安西の言う通り、普段ドライバーなんて持ち歩かない。

 はさみがあればドライバーの代わりになるのにと思ったが、はさみが入っている筆箱は教室に置いてきてしまった。

 慌てた僕の手になにか当たった。

 名札だった。

 僕はシャツから名札を引きちぎって安西に渡した。

「名札の安全ピンで、調整ネジ回して!」

「これでどうやってするの!?」

「輪っかになってる方で、なんとか回して!!」

「うまくできない!」

「それでもやって!!」

 安西が安全ピンで一生懸命ネジを回す音が聞こえた。

 波が階段を一段一段登ってくる。

 階段の壁に人体模型が押し付けられた。直後、人体模型の全身にガラスの破片が突き刺さった。

 割れたガラスの破片が波の中で渦を巻いているのだ。

 僕は唾を飲み込んだ。あの波に飲み込まれたら溺れるだけではすまない。

「ピンが曲がっちゃう!」

 僕は上を見上げた。

 安全ピンはぐにゃぐにゃに曲がっていた。

 もうダメだ。

 僕の頭に諦めの言葉がよぎったその時、僕は安西の頭に付いているヘアピンに気づいた。

「そのヘアピンをドライバー代わりに!!」

 安西ははっと気づいてヘアピンを外し、窓の調整ネジを回した。

 僕の足のくるぶしまで水が来ていた。

「開いた!!」

 安西の声が聞こえた。

 窓の外に出た安西は、僕に向かって腕を伸ばしてくれた。

「登って!!」

「うん。行くよ」

 僕は安西の手を掴んで必死に壁を這い登った。

 直後、僕がさっきまで立っていた階段の踊り場は波に飲まれた。

 全身ガラスだらけの人体模型がもてあそばれるようにぐるぐる渦の中で回っていた。

 僕は窓の刷子に手をかけて屋上の床に飛び降りた。

 僕と安西は走った。なるべく階段から離れるように、走って走って逃げた。

 その後のことはよく覚えていなかった。

 僕はいつの間にか眠っていた。

 波が打ち寄せる音が聞こえた。

 その音が、目を閉じている僕には炭酸ジュースの音に聞こえた。

 安西にほっぺたを叩いてもらって、僕は目を覚ました。

 校舎の屋上は沈まなかったようだ。

 僕らは屋上から町を見下ろした。町は墨汁をこぼしたように真っ黒だった。建物の上に船が乗っかっていた。あちこちから炎と黒い煙も上がっていた。

 どこで鳴っているのかわからないが、あちこちからパトカーの音が聞こえていた。

「もう、この町は終わった」

 僕は膝から崩れ落ちた。

「大丈夫。町は直るから」

「ほんとに?」

「大丈夫」

 安西は僕の肩にそっと手を置いた。

「それより、生きてることを喜ぼう?」

「うん」

 僕は安西の手を握り返した。

「安西のおかげだよ。安西がいなかったら僕は死んでた」

「うん。私もあなたのおかげで今回は生き延びれた」

 僕の手から安西の手の感触が消えた。

 僕が振り向くと、安西の姿は消えていた。

 僕は慌てて立ち上がった。

 蝉の鳴き声。

 校庭で遊ぶ下級生。

 波はどこにもない。黒い煙も立ち上ってないし、ビルの上に船もない。

 いつも通りの町の風景。

 僕は安西の名前を叫んだ。

「あんざーい!!」

 僕の声は山に反射して、小さな山びこになった。山びこは町の中に吸い込まれていった。

 僕は階段を降りた。

 さっきまで沈んでいたはずなのに、どこも水浸しじゃなかった。それどころか濡れてさえいない。流されてきた瓦礫もない。

 安西が先に戻ってるかと思い、僕は教室に向かった。

「あら、どこ行ってたの?」

 教室には僕の居残りを担当している校長先生がいた。

 校長先生は怒っているわけではなく、突然姿を消した僕を心配しているようだった。

「あの、ここに安西来ませんでした? 五年二組の安西弥恵」

 校長先生は首をかしげた。

「安西さん…。そんな子いたかしら」

「いましたよ。さっきまで僕と一緒に波から逃げてて」

「波?」

「そう。ほら! ここに! この宿題にヒント書いてくれたの安西なんですよ。屋上まで一緒に逃げたけど、安西が勝手に消えちゃって。それで。それで…」

「待って。落ち着いて、最初から話して」

 僕はことの顛末を説明した。

 校長先生は僕に真剣に耳を傾けてくれた。

「外に出ましょうか」

 校長先生は僕を校庭の石碑に案内してくれた。

 ここに石碑があることは知っていたが、いつもは気にもとめてなかった。

「もう二〇年近く前かしらね。この町を津波が襲ったのよ。死傷者は一八〇〇人。内八〇人がこの学校でなくなったかしらね。ここが避難所に指定されてたから大勢の人が避難してきたのよ。だけど、ここは大雨の時の避難所で津波の時の避難所ではなかったのよ。それで津波に飲み込まれてね。この学校の生徒もなくなったの。三〇人くらいの生徒が亡くなったんじゃないかしら」

 校長先生は石碑に手を合わせた。

 僕も手を合わせた。

 僕は校長室に呼ばれた。校長先生は津波でなくなった方の名簿を見せてくれた。

「あったわ」

 校長先生が指差した先に、「安西弥恵」の文字が書いてあった。

「ちょうど今のあなたと同い年の時に亡くなったのね」

「五年二組だったと聞きました」

「じゃあ、今のあなたの隣のクラスね」

 校長先生はニコっと笑った後、外に視線を移した。

「昔はね、毎年花火大会の日は津波で死んだ人の幽霊が目撃されたのよ」

「なんで花火大会の日なんですか?」

「もともと花火大会は死んだ人を慰めるために始まったのよ。特にあの世にいった子どもたちの霊を鎮めるためにね」

 校長先生は海を眺めた。

「最近はお祭りの印象が強いけどね」

 僕はうつむいた。

 僕は安西弥恵の写真を見たいと校長先生に頼んだが、卒業式を迎える前に亡くなった安西の卒業アルバムはないのだという。

 海に太陽が傾き始めた頃、僕は宿題を終えた。

 安西が書いてくれたヒントのおかげで、問題を解くコツがわかった。

 僕は校長先生に挨拶をした後、学校を後にした。

 夕方なのにまだ蝉が鳴いている。

 歩きながら今日の出来事を僕はずっと頭の中で繰り返し再生していた。

 あれはだったのだろうか。

 心霊現象だったのか。

 それとも過去の時空と現代の時空がなにかのきっかけで混ざったとか。

 考えれば考えるほどわからなかった。

 僕の目の前を浴衣を着たカップルが通り過ぎていった。

 花火大会の会場に向かっているんだろう。

 津波の被害から時が経ち、今では幽霊が目撃されることもなくなってきたという。

「いつまでも幽霊が見えると、遺族も落ち着かないから」

 校長先生はそう言っていた。

 大通りを花火大会に向かう人が何人も歩いていた。

 あの行列の中に安西が紛れ込んでいてくれないかなと思った。

「やっと宿題終わったの?」

 そんなことを言う安西の姿を想像した。

 そういえば、なんで安西は僕の前に現れたんだろう。

 花火大会に誘ったら照れくさそうにしていた安西は、また僕の前に現れてくれるんだろうか。

 国語が苦手な僕には安西の気持ちはさっぱりわからない。

 だけど、できることなら、もう一度、今度はゆっくり話をするために安西に会いたいなと思った。

(了)

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この街の子 あやねあすか @ayaneasuka

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