この街の子

あやねあすか

関川幸一

 蝉の鳴き声が窓の外から聞こえていた。

 遠くに見える海が太陽に照らされてキラキラ輝いている。

 放課後の校庭でサッカーをしている下級生たち。

 僕は教室で一人、夏休みの宿題と向き合っていた

 僕は問題集のページをめくった。シャーペンの芯を意味もなく出しては、引っ込めて。また意味もなく芯を出しては引っ込めてという動作を繰り返した。

「わからない」

 頭を抱えてつい言葉が漏れた。

 僕はシャーペンを放り出して海を眺めた。

 夏休みが明けて間もない今日は、授業が四時間目までしかない。

 僕の友達はさっさと下校して今頃遊んでいるに違いない。

 今夜は花火大会だ。家族で花火を見に行こうと約束している。

 なんとか夕方までには宿題を終わらせて帰りたいのに、はかどらない。

 他の夏休みの宿題はもうとっくに終わっているのに、国語の宿題だけ終わらない。

 漢字や単語の意味を覚えることは得意なのに、「主人公の気持ちを考えなさい」とか「なぜこの登場人物はこんなことをしたのですか」という問いに答えられないのだ。

 時刻は午後三時半。

 このままでは遊びに行けない。僕は気持ちばかりが焦っていた。

「あれ、居残り?」

 廊下から女の子が覗いてきた。

 白いTシャツに短パンを穿いた女の子だった。

 女の子はずかずか教室に入ってきて、僕の机の上に視線を落とした。

「国語の問題?」

「うん。夏休みの宿題」

「うそっ! 夏休みの宿題まだ終わってないんだ」

「悪いかよっ!」

 僕は恥ずかしくなってつい大きな声を出してしまった。

「こんな九月の初めにまだ夏休みの宿題やってる人、マンガ以外で初めて見た」

「初対面なのに、すごい酷いこと言うね?」

「そうかな」

「それより、初めて見るけど、何組?」

「私? 私は五年二組」

「隣のクラスかよ」

 けど、僕はこの女の子に見覚えがなかった。

「私は、安西弥恵」

「僕は関川幸一」

「ところで、宿題はどこがわからないの? 教えてあげようか?」

「いや、いいよ」

「このままだと終わらないよ?」

 安西は問題集をめくった。

「立原えりか。あまんきみこ。どれも読みやすい作品ばかりじゃない?」

「そうかな。僕はそうは思わないよ。少なくとも主人公が何考えてるかわかりやすく書いてない」

「それを考えるから面白いんじゃない?」

「小説の登場人物の気持ちなんてわかるわけないじゃないか。僕はそういうの苦手なんだよ」

「どんな勉強なら得意なの?」

「理科は得意だよ。リトマス試験紙の色とか。星座の名前とか。化石の種類とか。将来は理科の先生になろうと思うんだ」

 安西はつまらなそうな顔をして僕を見た。

「それって得意なわけじゃなくて、自分が知ってることをひけらかしたいだけでしょ?」

 僕はムッとした。

「そもそも戦争の話なんて、昔のこと知っててどうするんだって話だよ」

 僕はあまんきみこの小説を指差して言った。

「そう?」

「だって僕らは今を生きてる若者なんだから。未来に目を向けなくちゃ」

「国語ができない言い訳でしょ? あまんきみこさんの作品なんて、じーんと心に残るじゃない? 戦争がどうとかってより、この物語の登場人物がその後どうなるのかなーとか気にならないの?」

「ならない」

「うそでしょ」

「だって書かれている以上のことなんてわかりようがないよ」

「だからそれを想像するんでしょ?」

「そう言うけどさ。人間の気持ちなんて毎分毎秒変わるじゃない? たとえば宿題早く終わらないかなーと思ってたら、次は晩ごはんなに食べようかなーってなるでしょ?」

「すごい単純な発想で生きてるのね」

「だから人物の気持ちを考えなさいっていう問題がナンセンスなんだよ。そんな答えのないことを考えるなんて無駄でしょ?」

「人の気持ちがわからないと独りぼっちになっちゃうよ?」

「いや、ならないし」

「なってるじゃん」

 安西は僕を指差した。教室で独り、居残りをしている僕のことを指しているのだろうか。

「うるさいなー。もうあっちいけよ」

 僕は椅子から立ち上がって窓の外を見た。

 海が相変わらずきらきら輝いている。天気もいいし、今日の花火大会は予定通り開催されるだろう。

 この戸野岬という町は、田舎なのに近代的な町並みをしている。小学校に上る前、この町に引っ越してきて僕が驚いたことだ。看板もほとんど電光掲示板だし、信号もおしゃれだ。ビルやマンションだって都会に負けないくらいきれい。

 ずいぶん前にクカクセイリというやつで町を改造したらしい。

 僕の背後からシャーペンを走らせる音が聞こえた。

 振り向くと問題集に色々書き込んでいる安西の姿があった。

「あー! なに勝手に書いてるの!?」

「問題を解くヒントを書いてあげたのよ」

「どうせなら答えを書いてくれたら良かったのに」

「ダーメ。答えは自分で考えなきゃ」

 僕は安西をどけて、椅子に座った。安西に席を譲っていると何をされるかわからない。

 僕は黙々と問題を解いて、安西は隣の机に座って僕の様子をずっと眺めていた。

 気になって仕方なかった。はやくどっか行ってほしかった。

「てか、安西こそ友達いないの?」

「いるよ」

「じゃあ友達と遊べばいいじゃん」

「友達はどっか行っちゃった」

「なんだそれ。仲間はずれってこと?」

「どこ行ったかわからないってこと」

 意味がわからない。

 僕は立ち上がった。

「どこいくの?」

「トイレ。ていうか、いちいち聞いてくんなよ」

 僕は廊下を歩いてトイレに向かった。トイレは窓が開けっ放しで、外から校庭で遊ぶ下級生たちの声が聞こえてきた。

「…助けて…」

 用を足している僕の背後から声が聞こえた。

「…助けて…」

 僕はズボンのファスナーを上げて振り向いた。

「…助けて…」

 声は個室から聞こえてくる。

「どうかしたんですか?」

 返事はなかった。

 男子トイレで個室を使う人なんて滅多にいない。よほどお腹を下したのだろう。

「…助けて…」

「どうかしました? 紙がないとか?」

 僕は個室の扉をノックした。

「…助けて…」

 相変わらず小さな声でそうつぶやかれるだけ。

 僕はもう一度ドアをノックした。

 ノックした勢いで、ドアが軋み音を立ててゆっくり開いた。

 鍵が開いていたのだ。

 個室には誰もいなかった。和式の便座がただあるだけだった。

 僕は気味が悪くなった。

 直後、排水管を流れる水の音が聞こえた。

 さっきの声は、この水の音が反響して「…助けて…」と聞こえただけだったのだろうか。

 僕はさっさと手を洗ってトイレを後にした。

 教室に戻ると、安西が外を眺めていた。

 安西が僕に気づいて振り向く。

 安西はヘアピンで前髪を止めていた。

「かわいい?」

 僕の視線に気づいて、そんな冗談を言ってくる安西。

「自分でかわいいとか言うなって」

 僕は悪態をついた後、椅子に座って、宿題を始めた。

 幸か不幸か、安西が来てくれたおかげで宿題がはかどった。僕一人だったら、まだダラダラ過ごしていただろう。

 教室の時計の針の音が聞こえる。

 僕は横目で安西を見た。

 安西は物珍しそうに町を眺めていた。

「そんなに珍しい?」

「えっ?」

「町をずっと見てるから」

「きれいな町だなーっと思って」

「あれ、安西も引っ越してきたの?」

 だとしたら僕と同じだ。

「ずっと昔から住んでるけど」

「なんだそれ」

 安西は僕をからかっているんだろうか。

「あのビルはまだあるんだなーと思って」

「え?」

 僕は立ち上がって、安西が指差している建物を見た。

「ナントカ会議所っていうんだっけ」

「そう。あそこに船が乗っかったんでしょ?」

「なに言ってるんだ」

 そう思ってもう一度僕は安西が指差した方角を見た。

 僕は視線を止めた。

 建物の屋上に巨大なタンカーが乗っかっていた。

 なんであんなところに船が?

 僕は目をこすって、もう一度見た。

 船はなかった。

 さっきから空耳だったり幻覚だったりが激しい。きっと宿題のしすぎで頭が疲れているんだ。

 ボンッボンッボンッボンッ。

 火薬が破裂する音が聞こえた。

「あの音はなに?」

「花火大会を知らせる音だよ」

「花火大会?」

「えっ、ずっとこの町に住んでるのに花火大会知らないの?」

「うん」

「年に一度の花火大会。戸野岬の一大イベントだよ。海からたくさんの花火が上がるんだ。出店もたくさんあるし、楽しいんだぜ」

「へー、いいな。行ってみたい」

 安西は身を乗り出して町を眺めた。

「一緒に行く? 僕は家族と一緒に行くけど、友達連れて来ていいって言われてるし」

「ほんと? どうしようかなー。浴衣着て行ってみたいなー」 

 安西は嬉しそうに首を傾げた。

「親の許可いるなら、許可もらってから連絡くれてもいいよ」

「うーん。どうしよう」

 照れくさそうに首を傾げている安西の顔が急に凍りついた。

 僕は気になって、安西の視線の先を見た。

 校庭にひっくり返った車があった。車は巨人の手で握りつぶされたみたいにぐしゃぐしゃだった。

 僕は安西に視線を戻した。

 安西はまだ凍りついている。

 校庭に再び視線を戻すと車はなかった。

 また見間違いか。

 そう思ったが、僕はあることに気づいた。

 校庭にいた下級生たちがひとり残らず消えていた。

「あれ?」

 そう思ったのもつかの間、町内放送が鳴り始めた。

「今すぐ……たか……に逃げて…ください」

 声が反響してよく聞き取れなかった。

 僕はさっきまで輝いていた海がおかしいことに気づいた。

 海のずっと向こうが盛り上がっていたのだ。

 まるで海面が空を覆いそうな勢いだった。

「なんだろうあれ?」

「…に逃げて…ください」

 町内放送が繰り返し流れる。

 ふと下を見ると何人もの人が校舎に駆け込んできていた。

 なにかあったんだろうか。

「行ってみよう!」

 僕は安西に言った。

 安西は青ざめた顔をしていた。

「私、行きたくない」

「なんで?」

「行かないほうがいい」

「気になるじゃん! 行こう!!」

 僕は安西を放って階段を降りた。

(続く)

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