第13話 花穂と朔
「おい、朔」
長い廊下を駆けているところで、背後から名を呼ばれた。悲しいかな。声の主が主だけに、無意識に足の動きが止まってしまう。これじゃあ、パブロフの犬だ。
清家の屋敷内で向けられる感情などは色んなものがある。
無関心な態度、親愛の情、好奇の視線、奇異な存在への恐れ。これらはまだマシな方だ。
外部の者からは、袖の下から向けられる蔑みの目や、利用する気が満々の媚びなんて平常運転だ。割とむかつくのは、こちらが何も要求していないのに勝手に諂って、あげく私が調子に乗っているとか嘯くやつらだ。知ったことかっての。
幸い、予想していた行為としての虐めや嫌がらせはほとんどない。味方である第三公子以外からは。
「足音がだいぶ重くなったな。順調に肉をつけているようだな」
その中で、横柄な態度をとるのは内部側の二人。加えると、ここまで失礼なことを偉そうに言い放ってくる男は一人しかいない。
振り返れば、予想通りの漆黒髪の美形が片手を掲げていた。シンプルでゆったりとした
「言い方……重いとか肉とか、年頃の女子に失礼でしょ」
ぼそりと呟けば、聞こえていないはずなのに星斗はにたりと笑う。
わかっていますよ。さっきの嫌味だって――星斗の言葉の裏には、清家付きの者が満足に食事も与えられていないような痩せ型だと外聞が悪いって意味が隠れているのはね。半年近く、顔を合わせる度に飴菓子を突っ込まれていたら、星斗なりに気を使ってくれているって実感するしかない。一々、味の感想を求められるんだから。
「なんだ、聞こえぬぞ。まぁ、声が届かなくとも
それでも素直に返事をするのは悔しくて、礼をして頭を下げてやった。本を抱えているので裾は合わせられないが、今は髪を下ろしているので顔はある程度隠れる。
私の態度は至極失礼なものとは理解している。
「申し訳――」
「まぁ、良い。なにやら己のドジで右足を痛めていると聞いたが、元気そうに走っていて心配して損した」
性格がいい、とはまさに眼前の男のことを表現する言葉だと思う。もちろん、言葉通りの意味ではない。むしろ、そうであったならどれだけ良いだろうか。
彼の言葉の裏にあるのは、望が後宮にあがる直前に何をやっているのだという嫌味だろう。謝罪を遮ったのだって、わざとだ。面白い玩具に謝罪されては楽しめないって。
私が異界に来てから――星斗と御守り役の契約を結んだ夜から、早半年が過ぎようとしている。
王宮に巣くう闇をあぶりだすため、後宮に潜入する望ちゃん。彼女に付くための様々な教育も佳境に入って――いると思いたい日々を過ごしている。大変どころのレベルじゃないが、お父さんを亡くした際に噛みしめた守ってもらえるありがたさを再認すると同時、正直なところ学ぶのは楽しい。なにより、世界にきた事実やお父さんのことから目が逸らせることもありがたかったのだ。
現実逃避と理解しながらも、身に着く知識があるならポジティブ寄りのネガティブだから幾分かましだろう。と、言い訳してみる。
ちょっと『御守り役』の修行はきついところもあるけれど……今のところ、命に別状はない程度のものなので助かっている。実際に狙われ始めたら痛いどころの話ではないだろうし。
はたと、廊下を走っていた理由を思い出した。やばっ。早く行かないと連翹先生にお仕置きされてしまう。先月の薬草煎じ耐久十時間勝負は仙気も手の皮も削れ過ぎて辛いどころではなかった。
「おい、朔よ。生きているのか」
いつの間にか目の前まで来ていた星斗が、失礼極まりない問いかけをしてきた。顔を覗き込まれているので当然だが、近い。
えぇ、まぁまぁ。申し訳ない程に健康体ですよ。
頬が引きつりながらも、にこりと笑ってみせる。
「むろんでございます、星斗様。加えて恐れながら申し上げますと、先ほどから言葉と表情が仲良く喧嘩している程には、かみあっていらっしゃいません」
「この上なく清涼感溢れる公子の微笑みだろうが。相当な余計な知識を詰め込んだのか、お前の目は腐りかけているようだな」
腐りかけってなんだ。中途半端なところが、微妙に腹が立つ。
抱えた本をげんなりと持ち直したところで、公子様が笑みを深めた。不気味さが濃くなる方向に。漆黒公子にふさわしい様子だよ、うん。爽やかって言葉に謝れ。
「失礼いたしました。けれど、腐り果ててはいないようで安堵いたしました」
形だけはと深々腰だけは折っておく。その数秒後、俊敏な速度で踵を返す。
が、追いつかれたどころか、なぜだか腕に抱えた本を奪われてしまった。
「お前は本当に無礼な奴だな。これが王宮なら不敬罪でしょっぴかれているぞ。北辰国の宝玉巫女である望の付き人として、半年近く最上級の教育を受けてこのざまか」
「高貴な方がしょっぴかれるとか言うのは、品性にかける部類には入らないのですか?」
「ほぅ。北辰国の第三公子である俺が、半年たってようやく六割方という調子で会話が出来るようになった奴に品性を説かれるなど。随分と奇っ怪な事も起きるものだな」
星斗は、奪った本をしげしげと眺めながらも嫌味を忘れない。むしろ、いつも嫌味しか吐かない!
痛みもあってか、もしかしたら心根は優しい人なのかもって考えた縁結びの時の私、滅しろ!
「つまらん。赤子が読む書か」
あまつさえ、冷めた目でぱらぱらとめくった本を背後にいらっしゃるお付きの方へ投げたではないか。
言わなくてもわかっていらっしゃると思いますけど。かの著名な方が残した原文ですよ。あぁ、可愛そうに。お付きの方が青ざめていらっしゃる。
「星斗様……こちらは、老子が残された貴重な原書のひとつですよ?」
「うちの蔵にも同じものがあるだろ。それに、弟子やらの写しだっていくらでも出回っている」
溜息交じりのお付きの方の一言にも、あっけらかんと返した星斗。
うちと呼ぶにふさわしい大きさの屋敷に住む身分の方を限定して言って貰いたい。王宮に住んでいる人間に『うちの蔵』などと言われても、ネットやテレビの向こう側レベルの話だ。
っていうか、異世界ファンタジー中華な割に、私の世界の偉人の名前が結構そのままあるのには驚いたのは懐かしい思い出だ。この世界の創世神なんてのがいるのなら、ちょっと手を抜きすぎだと思うぞ?
けれど、それはそれで結構助かってもいる。私の父は漢文というか、中国史オタクだったのもあり、家の本棚には和訳の本はもちろん原文の本もあった。母は亡くなりお父さんっ子だった私は、幼い頃からそういった本に自然と親しんできた。それこそ割と諳んじられるほどに。なので、こちらの言葉を勉強するうえでも、とても役立っている。
そういえば……最初の面談みたいな
「また、お前はすぐに己の世界に閉じ込む」
思考の海に沈みそうになったところで、大きな溜息に意識を呼び戻された。顔をあげると不満げな星斗と肩を落としたお付きの人がいた。
頭を下げたまま半歩後ろに下がる。
「恐れながら、星斗様。原文がもつのは古さだけの価値ではありません。ご本人の書には写しでは伝わらぬ『人となり』が現れ、心の乱れすら読み解けるものです。書き出された言葉以上に、当時の心境を偲ぶ材料ともなります。というか、私なんぞに言われなくとも重々承知でしょうに」
星斗と言い合いをしてきたおかげか、すっかり片言は解消されている。元から聴覚だけは順応していたおかげだろう。
そして、私が言い返すのも星斗には予想の範囲だろう。はんっと鼻を鳴らして私の数歩先の床を踏んだ。
ずんずんと渡り廊下を進んでいく背中は、とても大きい。武将っぽい神荼さんはガタイがいいのとは違うけれど、少しだぼっとした服でもわかるくらいには筋肉がついている。
「公子なのに武将だな。まるで、生きている証だぞって言っているみたいな背中」
ぽつりと呟き、手を伸ばす。もちろん触れることはない。むしろ、指の間から光が注ぎ、こちらからは掌の奥がよく見えない。それが逆に眩しくて、目が細くなる。
私が星斗を憎めない理由は明確だ。彼はきっと、私が知るだれよりも孤独をしっている人だから。私も、あんな風に生きたいと思う。
ほとりと、隣から笑みが零れた。
「失礼。朔様が他のおなごと異なる視線を、星斗様に向けられるものですから」
隣に並んだ男性は青色の裾を口にあて、笑いを堪えている。この国で青色の衣は武官が身につける制服だ。知性や平和、誠実さを表わしているらしい。頭にはよくわからない形の冠が乗っている。
その黒い冠から白髪交じりの茶髪を覗かせている彼は、
「花穂様は、私のこと馬鹿にしないでいてくださる方だと思っていたのに、ひどいです」
「いえ。もちろん嘲笑ではございません。なにやら面白くもあり、楽しくもあり、微笑ましいのがくすぐったくて」
険悪な言い合いが微笑ましいとは。王宮はどれだけ魔物の巣窟なのだろうか。
私みたいな小娘なんぞの想像が及ばないほど王宮はすさまじいのだと、改めて震えるしかないよ。
「怯えないでくださいね。私のことは友人と思っていただけると嬉しいです。星斗様と望様の『御守り役』である朔様に、ご無礼でしょうか」
「そっそんなことありません! 私は嬉しいです!」
慌てて目を合わせると、花穂さんは糸目をさらに細めていた。
もっと女性らしさがある美形な郁塁さん情報によると、花穂様は私より十五ばかりは上らしい。ほがらかな雰囲気に、ついうっかり親しみを覚えてしまってごめんなさい。
白髪のせいで上に見えるだけで、離れていても五つ程かと思っていた。そのため、最初に馴れ馴れしくしてまったのだ。花穂さんはこういう性格だから朗らかに笑ってくださるが、公子である星斗に付いているくらいだ。彼もかなりの身分に違いない。
「そもそも、ですね。私の星斗様に対する態度は、望ちゃんの影響もあるかと思いますが……星斗様の私に対する態度のせいも往々にしてあると思います」
「えぇ、そうですね。私は星斗様がこれほどの頃から傍にいますが、あんなにも楽しそうに女性と接する彼を見たことはありません」
花穂さんの柔和な雰囲気はまるで、機嫌の良い猫みたいだと思った。
ただよくよく背後までじっと見てみると、それがやけに意地の悪いものを含んでいる気がして、思わず「げっ」と声に出してしまった。まぁ、毎度のこととすべての行動の枕詞となるような言動だが。
「失礼いたしました」
さすがの私にもわかった。花穂さんは敢えて『御守り役』の私と、と表現したのだろう。
今の私はすでに二人と縁を結んだ『御守り役』だが、実際は『御守り役』になるために無償で衣食住と学ぶ場を提供してもらっている立場に過ぎない。
私は『御守り役』ということもあり黙認されているところが多いが、この世界の女性、特に下女にはあるまじき態度だ。花穂さんは嫌味なく教えてくれたのだろう。
「あと半月後には後宮にあがる望様に付くにも関わらず、公子側近の花穂様に対して打ち首ほどの不始末でありました」
スカートの裾を翻し、髪が乱れるのも気にとめず大きく腰を折る。
「咎めたのではありませんよ? しかしながら、朔様の人の言葉を額面通りにとらえようとしない努力と忠告として反省される素直さは、好ましいと思えます」
元の世界の言葉遣いバリバリに「まじですかっ!」と叫ぶのはなんとか堪えた。その代わり、右腕を思いっきりよしっ! と引く。
片腕に本を抱えて落とさない位のバランスを保ちながらなので、自分の成長を地味にも感じる。ダブル感動だ。
「そんなことおっしゃってくださるの、花穂様くらいです」
「郁塁様も執務室でも茶の場でも、見境な――いえ、常時朔様の良さを語っていらっしゃいますよ?」
こほんとかワザとらしい咳にチベスナキツネが憑依する。
チベスナ朔のまま、花穂様をじいっと見てしまう。花穂様の癖なのだろう。疑問符が付く時は、少女漫画のヒロインみたいに首をかしげる。
なんだろう、この微妙な感情。だって、似合いすぎているのだ。私が腐女子なるものだったら、この二人のカップリングに萌えたりしたのだろうか。ぜひ同級生の海ちゃんに聞いてみたい。
「郁塁様は過剰と言いますか。もはや、だれっていうレベルで別人の話になっていますから。ニコイチの神荼さんの駄目だしがなければ、今頃至宝の仙女にでもなって噂が独り歩きしているところです」
過小評価も辛いが、この状況で過剰評価は精神的にきつい。それを武器に変換できる大人ではないもの。思い込み評価も武器に出来るほど、やり手じゃない。
乾いた不気味な笑いを垂れ流してしまう。
「神荼様も、先日の朔様の武術稽古を覗いて『ふん、根性だけはましだな』と誉めていらっしゃいました。そういえば、傍にいらした望様に素直ではないと笑われていましたね」
花穂さんは意外なものを見たと肩を揺らす。
「神荼さんらしいですね」
私は、なぜかすんなりと受け入れていた。付き合いが長くなるにつれて、神荼さんがただ不器用な方であるのはわかるようになった。かと言って、普段の私なら星斗に対してと同じように反発もしよう。にも関わらず、神荼さんについては彼として当然だと納得している自分がいて――少し怖い。
変な話だから誰にも言っていないが、私であって私じゃない判断みたいだって思える。
「朔様が負の韻を紡がれるのは星斗様に対しだけですね」
「それはっ! 星斗が言葉とは違う感情を――陽を隠して伝えようとするから、です」
陰を陽で隠されるのは珍しくない。仙気の制御修行が進むごとに、私にも感情の色が判別できるようになってきた。陰と陽の組み合わせを単純に解説すると、陰陰、陽陽、陰陽、陽陰となる。前者二つはある意味素直と表現できるだろう。厄介なのは後者二つだ。
星斗は難しい。それらが複雑に絡み合って、距離感を掴めない。いや、彼が望む距離感はなんとなく伝わってくるのだが。
数多の陰謀の中で生きる続けることに必死だった人のことを、簡単に理解できると思うほど傲慢ではない。
「この世界は、心の距離が明確で、それでいて不明瞭です」
真っすぐ見上げた先にある花穂さんの笑みは崩れない。
無言ですっと挙げられた右手。やばっ、さすがに生意気過ぎたかと奥歯を噛み締める。清家ではほんとないけど、何度か市井で見た。
ところが、ふわりと羽が舞い落ちる幻聴が聞こえる位、頭頂部に心地よい重さがかけられた。大きいけど女性に近い感触のソレが、数度、軽く頭頂部で弾む。その後、ゆっくりと髪を滑る手。
「あっ、あの。私は、いま、あやされているのでしょうか。それとも、宥められているのでしょうか」
お父さんに撫でられているのか、覚えていないお母さんに触れられているのかわからなくなって、心がぎしりと鳴る。
心臓が、ぎしりぎしりと聞いたことのない音をたてる。かみ合わない歯車がたてる、不協和音みたい。
「朔様のお心が感じるままに」
「私は――いえ、これが今の私の弱点ですね」
私は、今の状況を改めて怖いと思った。これしきの行動で心を動かされた。
花穂さんを、ではなくて人に触れるのが久しぶりだと気がついて、縋りたくなってしまった自分が、御守り役として相応しくないと思ったのだ。
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