第7話 あの方と後宮の闇

 今日は特に雨がひどい。大粒の雫が朝から園の植物を叩き、洗濯物を湿らせている。昨日の珍しく乱雲が遠慮し美しい満月が拝めた風景とは、正反対だ。

 いや、この時期、月の仙女が現れたと思えるような快晴自体が珍しかったのだ。北辰国ほくしんこくの王族や民隔てず、共通認識なことに、祈るべきか。それでも、あまりにも耳煩い雨音にため息もつきたくもなろう。


 そういう訳で、宮女になって半年ばかりのしんはひどく憂鬱ゆううつになっている。ただでさえ、先輩宮女から押し付けられた仕事に、胃が痛むくらいなのに、と。腹に添えた手さえも、震えている気がした。


鈴玉先輩りんゆーさんてば、あの方のお部屋に書類をお持ちするだけなのに、口布マスクを持って行けなんて、随分とおかしなことを言うもんだ。しかも、あの方が開けていいって言うまで扉に手を掛けないなんて常識なのに念を押してくるし」


 確かに、あの方はめったに人前に姿を現さないというが、大層風呂好きだという。その風呂は仙桃せんとう林檎りんごを浮かべ、飲み物はすべて花の香りがついているという。

 ならば、逆に体臭がきついということだろうか。それとも、老いを隠すための化粧の香りがひどいのだろうか。あの方は老いに焦っており、神山に仙女を探しに行かせたり、美容に纏わる果物を集めさせたりしているとも聞く。

 どちらにしろ、杏には遠い世界の出来事だ。


(まったく、羨ましい。あの方どころか、下働きな宮女からしたら、手荒れなどない女官のように、毎日髪を香油をつけ、文官やら武官に媚びうる準備ができているだけで羨ましいのに。あたしだって、早く結婚相手を見つけて、さっさとこんなところ辞めたいよ)


 書類を抱く己の手を眺め、杏は思い切り肺から息を吐きだした。息がかかっても、ひび割れた手に変化はない。出来る限り長い袖に手を隠すことしか、出来ない。

 長い長い廊下を抜け、杏はようやく後宮の最奥にある目的地にたどり着いた。この方の部屋の周りは、他の者と仕様が違う。廊下の石ひとつとっても、簡素な四角から花柄のそれに代わる。


(はぁ。いくら陛下に見向きもされなくなったからといっても、高貴プライドの塊だ。あたしみたいな見習い半分な宮女が来たことを問いただされて、嫌みを言われまくるに違いない。先輩は王子の自慢だけで済んだみたいだけど、私は先輩みたいに笑えないしな)


 色付きの花柄の石畳に足をつけた瞬間、杏の背に悪寒が走った。人の気配が少なくなった分、寒さを感じたのだろうかと杏は周囲を見渡す。

 ここは恐ろしいほどに、人の気配がしない。むしろ――。杏は考えてすぐ、大きく頭を振る。どちらにしろ、もう目的地には辿り着いてしまう。

 鈴玉に言われた通り、最後の曲がり角で口布を身に着ける。雨のせいか、まったく口布の必要性は感じられなかったが。


「失礼いたします。後宮茶会の出席簿をお持ちいたしまし――」


 言いかけて、杏は扉前に膝をついた。

 体が覚えのない熱を帯びて、喉がきゅうぅっと締まっていく。


「初めて、聞く、声じゃな。まぁ良い。そこに、おれ」


 脳をつんざくような声だと思った。他人のその声を初めて聞いた杏は、そのあまりに甘い声色に固まった。

 口布越しに香ってくる甘ったるいものに、脳が痺れていく。


(なにこれ、怖い――でも)


 杏の足がもじっと動く。


(やだ、あたし!)


 全身が赤に染まるまま、杏は部屋の主の返事を待たずに扉に手を掛けてしまった。

 扉の奥から香ってきたのは、むせかえる体液の匂い。香りだけではない、部屋にこもる汗や吐息のすべてが一気に解放されたように、あたりに広がっていく。

 湿気と交じり合い、それはひどく香りを増している。


「そこにて、待て」


 開けた扉のすぐそこにある寝所から聞こえたのは、熱を孕んだ声。


(絶対、視線をあげてはいけない)


 本能的に、杏はそう思った。両袖をあわせ、必死に冷たい石の床に視線を落とす。なのに、視線を感じ、つい顔を上げてしまった。

 自分を見ていた。あの方の上にいる男性は、確かに杏を見て微笑んだ。杏をしっかりと見て笑ったのだ。あの方がそれに気が付いている様子はなく、ただ彼の肩に爪を立てている。

 その瞬間に、杏の中に奇妙な優越感が生まれた。


(あの人は、あの方を腕に抱きながらも、あたしを見て、そして微笑みかけてくれた。私は、この方のためになんでもしよう)


 杏が興奮のあまり立ち上がろうとするが、それに彼は唇に人差し指を立て「しぃ」と無言で微笑んだ。

 杏が大人しく腰をおろしたのとほぼ同時、男があの方から体を離した。あの方は、涙目で彼の首に腕を回した。


「なぜ離れる。寒いではないか。早う戻れ」


 その一言で杏は、二人の力関係を悟った。もとより上のご機嫌伺いをする宮女だ。そういうところは、聡い。まさか、あの方が他の男性と親密にしているだけでも後宮では大問題スキャンダルなのに。

 暗がりで相手の男性の目元は見えないが、かなりの筋肉がつき端正な体つきだ。宦官ではないと想像がつくし、それを装える人物でもないだろう。


「――」

「そうだな。虫けらの存在など忘れておったわ。あの娘に見られてしもうたのう」


 男性が何かを呟き、あの方がうっとりと返す。鼻孔から取り込まれる香りに、杏は我を忘れた。傍らに放り投げられた書類が、入り込む雨に湿っていく。

 ややあって、杏は己がいてはいけない場所にいると自覚した。下がっていく体温。杏は初めて己の血が引いていく音を聞いた。


「もっ申し訳ございません! けっ決して口外などいたしません。ですから、どうか、どうか――!」


 凍っていく心臓に、歯がカチカチと音を立てる。あの方は何も言葉を発しない。

 それを良い方に解釈した杏は、這うようにして落としていた書類を搔き集め出した。


 最後の紙に杏の指が触れた時、杏の小柄な体は大きな影に覆われた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る