第4話 星斗と郁塁、それと神荼

「目が覚めたか。気分はどうだ?」


 気遣いの言葉とは裏腹な冷ややかな声。

 まるで、漫画か小説の定型文だと思った。感情が込められていなさすぎて。


「えっと」


 声の元を辿る。

 広い部屋に視線を巡らせると、男性の姿を見つけた。片足を立て窓際に腰かけている――えっと、星斗せいとと呼ばれていた男性だっただろうか。パニックに陥っていた割に、我ながら良く覚えていたものだ。不思議と耳に残っている。

 星斗は桃を手に弾ませている。ぼんやりとした意識の中でも、向けられている顔が整っているのはわかった。


「どうした。その寝台ベッド、傷に響くほど寝心地が悪くはないはずだ。声くらいは出るだろう」


 確かに、私はとても柔らかくて暖かい布団に寝ている。身じろぎすると下布団がふわりとはねた。

 枕は江戸時代武家みたいな後頭部だけを乗せる形だけど、首も痛くない。首の下に丸めた布を入れてくれていたようだ。気絶しながら身を捩って暴れでもしたのだろうか。 


「そこそこ、です」


 擦った目元は乾いている。正直、泣いているかと思った。でも実際は一層のこと乾いていて、ため息が落ちる。あれだけ夢で泣いていたのに、本当に薄情だな私。お父さん、ごめんなさい。本当にごめんなさい。

 今こそ視界が潤みそうになって、頬を抓る。そのまま体を起こすと、節々が痛んだ。浴衣みたいな白い着物合間から、青い痣が見える。肩元をなぞり――歯形と思われるものに、ぞくりと背筋が凍った。そうだ、私……!


「ほら」

「ぶっ!」


 変な声があがったのはしょうがないと思う。いつの間にか傍に来ていた星斗が、頬へ冷たいガラスコップを押し付けてきたのだから。そういえば、反対側の頬がずきずき痛い。ガーゼのようなものがつけられているようだ。

 あの時は驚いて何も出来なかったけれど、今ならスクリューパンチのひとつやふたつかましてやれば良かったと悔しさが勝る。


 いや、この人だって信用していいモノだろうか。


 今すぐにでも乾いた喉に水を流し込みたいけれど、この水に変なものでも入っていたら? それは、ないか。この男性にその気があるなら、寝ている間にとっくに何かされていただろう。何より、利用価値があるとか言われていた気もする。

 というか、私、なんでこんなに冷静でいられるのだろうか。現実離れしすぎているせいで、夢でも見ている気分なのだろうか。


「俺は敵でもないし、子どもには興味がないから暴れるなよ?」


 綺麗な色ガラスに入った水を眺める私の内心など、お見通しなだろう。星斗は薄く笑った。顔の作りが綺麗な分、皮肉めいた笑いに見える。

 それでも、彼の言葉に安心して肩を落とす。星斗は面白くなさそうに足を組みなおした。


「この国は水が豊かであるし、治水が整備されている。陳家の若造のように、異国の女を騙すようなせこい真似はせぬ。何ならオレが口に含んだのを流し込んでやろうか」


 数秒前とは打って変わって、無表情で口調は淡々としている。星斗って、ころころと表情が変わる。前向きな方ではないけれど、案外わかりやすいのかもしれない。

 彼の冗談を無視して水を飲み干し、もう一杯注いでもらう。美味しい。星斗は特に何も言ってこなかった。


「あいつ、噛みついて、肉、嚙みちぎってやる、よかった!」


 人間、現金なもので安全を自覚した途端、強気になる。込み上げてきた怒りに拳を握ると、ベッドの向かいに置かれた椅子に腰かけていた星斗は、ぷるぷると震え出した。口を押えて。


「笑う、いっそ、思い切りが、いい」


 ぶすりと告げると、さらに星斗は腹を抱えて笑いだしてしまった。その豪快さに、しげしげと見つめてしまう。

 笑う星斗はふっくらとした服でもわかるくらい、ちょっと痩せ気味だ。改めて見ると、切れ長の紫の瞳はアメジストみたいでとても綺麗。真っ黒な長い髪を無造作にまとめているが、さまになっている。

 っていうか、身に着けているのは、まるでファンタジー漫画みたいだ。しかもマニアックだなって思うのが、西洋風じゃなくって中華風なんだよね。でも実際見たことがある世界史の資料集とは違う。西洋とか和風交じりのファンタジックなやつ。

 よくよく周りを見渡すと、丸い窓枠や天蓋のついたベッド、机にいたるまで、まるで世界史図録に載っている中国家具っぽい。一体ここはどこなんだ。


「ってか、なんで、私、片言?」

「そこが不思議なのです」


 部屋の入口から姿を現したのは、黒色の陣羽織を身に着けた青年だった。

 星斗より少し年上に見える。彼は空色の髪と同じく、爽やかな物腰だ。星斗よりも長い髪で、一見すると女性に見えなくもない中性的な雰囲気がある。


「なんだ。恩人である俺に対してよりも、随分安堵したような顔をして」


 星斗が、はっと鼻で笑った。表情は鉄仮面だが。

 そんなことはないと否定してもよかったのだが、不思議とそんな気にはならなかった。意識を失う前に出会った人々と違って、彼は無条件に私を受け入れてくれている。おかしいのだが、懐かしさえ覚えいる……ような。ぼうという少女と親友のノゾミのように、誰か知り合いに似た人でもいたっけ。むろん、外見ではなく雰囲気だ。


「私が話す言葉は理解できていますか?」


 美青年の問いに、私はひとつ頷く。美青年は、それはそれは麗しい様子で微笑んだ。


「それは良かったです。貴女に警戒されずにすみますから。貴女に拒絶でもされようものなら、ひとつきは立冬のように大地という名の心に氷が張り、寝込む自信があります」


 仰々しい物言いと表現なのに、嫌みな感じもしないし、ドン引きすることがないのは、彼の柔らかい微笑みと空気ゆえだろうか。自分に言われているというよりは観劇でもしているようなのに、心なしか自分の頬が熱を持ってしまう。

 これを現金だと思うなかれ。と、誰にするのではなく言い訳をしてしまう。こんな超絶美形に微笑まれたら、誰でもいちころだろう。


「おい、女。気をつけろよ。その男、郁塁うつるいというが、女を誑すには北辰国一と名高い男だ。お前のような小娘、遊ばれて捨てられるのが落ちだぞ?」


 顎で美青年さんを指す星斗。

 これは心配されているのだろうか。じっと彼を見つめると、眉をしかめられた。


「あなた、怖そう、偉そう。でも、私、心配、するですか」


 いやいや、JKだって初対面でここまで心配されたら、相手側に問題があるのはわかる。その意味を込めて星斗を睨む。


「うぬぼれるな。拾ったばかりの小娘を、なぜ俺が心配する必要がある。神荼しんとが、郁塁に捨てられた女に仲を取り持ってくれと言われて、困っているのが哀れなだけだ」

「ですよね。ご説明、ありがと、です」


 確認できて良かったです。すぐさま頭を下げると、むちゃくちゃ嫌そうな顔をされてしまった。

 だって、星斗は『拾った女』とは表現せず、『拾ったばかりの女』と口にするあたり、割と情に深いのではないかと勝手に思ってしまった。なので、決してお礼は嫌みではなく、率直に理由を教えてくれたことへのものだったのだが……。

 この方、大変接し方に苦渋するタイプか。ただの俺様ではない分、面倒くさいのかも。


「星斗様、誤解を招くような言い様はおやめいただきたい」

「お前が誤解されようが懐かれようと、どうでもよい。はよう、あの二人を連れてまいれ」


 星斗は深いため息を落とした。私と話す時よりもさらに偉そうな口調だ。

 あの二人とは、私を助けてくれた人たちだろうか。髭武人の大きい神荼

さんと、親友に似た美少女な望ちゃん。


「我が君の仰せのままに」


 郁塁さんは床に両膝をつき、長い袖をあわせて頭を垂れる。中国が舞台の映画や漫画で見る仕草、そのものだ。

 星斗は無表情のまま、しっしと手を動かした。無表情なのに、なんだか可愛いと思った。笑いを零すと、きっと睨まれてしまった。


「郁塁のそのような所が気にくわん。お前が使えているのは俺ではなく父だろうが」

「かたいことはおっしゃらないでください、我が君」

「先にわざとらしく膝をついたのは、お前の方だろうが」


 口調は至極うんざりとしたものだが、口の端にはわずかに笑みが乗っている。なんとなくこの二人の関係の縮図なのだと思った。

 二人を凝視している私に、立ち上がった郁塁さんがむずむずする笑みを向けてきた。私が戸惑ったのを察したのだろう。


「星斗様とお二人では恐ろしいでしょうけれど、すぐに戻って参りますので。襲われでもしましたら、この桃でもぶつけて差し上げなさいませ」


 郁塁さんに手渡された大きな桃。綺麗なお尻みたいな桃の鏡のような形をしている。私には、正直桃よりも壊れ物でも扱うように私の手に触れている郁塁さんの方が気になる。ひんやりとした手が鼓動を早める。


「食べ物、粗末にする、よくない、です」

「おっしゃる通りです。特にこれは『仙桃せんとう』といい、仙気が込められた特別な桃でございますしね」


 仙桃って、漫画や小説では読んだことある。仙人や仙女が住む崑崙山こんろんざん桃源郷とうげんきょうで三千年に一度咲く不老長寿のシンボルだっただろうか。そう呼ばれる品種を写真で見たけど、確か黄色くて普通の桃とは違う見かけだった気がするけどなぁ。

 まさかねと半笑いで香りを嗅ぎ、思わずうっとりとしてしまった。


「すっごく、甘くて、濃い香り! すごい! こんなに、香り、はっきりな桃、初めてです!」


 興奮のあまり、鼻先をくっつけて必死に香りを嗅いでしまう。香りを吸い込む度、元気になっていく気がする。濃いけどしつこくはなくて、爽やかな甘さが体を駆け巡る。

 視線にはっとなり顔をあげると、星斗も郁塁さんも少し目を見開いて私を凝視していた。


「あっ、あはは。私、思い込み、激しい、ですか。現金、ですから」

「いいえ、いいえ。先程も申し上げました通り、仙気が込められた桃です。貴女様の逃げた失った仙気を補充するために、香っているのでしょう。夕食にたくさんお出ししましょう」


 郁塁さんは満面の笑みを浮かべて頷いているが、私には意味がさっぱりだ。どちらかというと、「普通の桃だろ?」と首を傾げている星斗の方が同意できる気がした。きっと星斗は高級桃を食べ慣れているから、当たり前の香りなのだろう。

 そういえば、街の男も『神仙術』とか言っていたし、星斗たちも『仙気』がどうのこうのと言っていたっけ。


「あの、郁塁さん」

「はい、なんでしょうか?」


 間髪入れずに返事をする郁塁さんに怯みつつ、なんとか口を開く。


「センキ、って、なにですか?」

「それは後ほど、まとめて説明する。郁塁、さっさと望と神荼に知らせてこい」


 が、言葉を発したのは星斗だった。

 それにも笑みを深めて、郁塁さんはこれまた映画のような仕草で退室していった。正直、星斗のぶっきらぼうな態度の方が安心する。人生経験が少ない高校二年生にも、郁塁さんの好意的すぎる態度はおかしいと理解できる。彼のそれは、初対面の、しかも我が君なんて呼ぶ主の近くにいる得体のしれない女に向けるものではない。それが、逆に怖い。


「さて、お前、名は何という」


 距離は保ったまま、星斗は無表情を私に向けてくる。腕や足を組む様はまるで別世界の人間を見ているようだ。

 部屋を満たしている香りの正体に気が付き、はっとなる。これは、白檀びゃくだんだ。父が中国出張のお土産にくれた物の一つに、白檀の香りがする扇があった。安心というか、リラックスしていたのはこのおかげか。

 じわりと涙が込み上げてきた。異空間の中、自分と繋がる物を見つけてしまったのがよくなかった。気が緩んでいく。


「……泣いているのか」


 大きく頭を振り、俯く。ベッドに突っ伏し、絹みたいなシーツを握りしめる。なんて握りごたえがないんだろうか。つるつる滑って、ちっとも実感がない。そういえば、お父さんが帰ってきてくれた絹のパジャマも、もったいなくって一回袖を通しただけだったっけ。もっと着てあげればよかった。

 駄目だ、だめだ。お父さんとの思い出が、いちいち今に絡みついてくる。こんな異空間なのに。


「名を尋ねただけだろ。泣くな」


 命令するような言葉は、ちっとも迫力がない。むしろ、少し優しくさえ聞こえた。


「ふっ」

「だから、泣くなと言っておろうが」

「泣く、ない」


 背を向け、シーツに顔を押し付ける。両手で口を覆っても、どうしてか今更涙が溢れてきた。

 大丈夫、だいじょうぶ。

 涙を堪えるコツを私は知っている。まず、大きく息を吸って、吐く。これを繰り返す。自分の両手で心臓を押さえる。胸に熱を感じれば、もう心が乱れることはない。自分の体温でも落ち着くことができる。最後に両手を握りしめ、唇を寄せれば完璧だ。指は絡ませない。あくまで、両手を握るのだ。それだけで、まるで他人とのそれに思える。


「お前は、一人で夜を越す術を知っているのだな」


 ぽつりと落とされた言葉。二人しかいない空間で、やけに響いて聞こえた。


「えっ?」


 顔をあげると、星斗は顔を背け窓の外を睨んでいた。夕日に照らされた横顔に、私は、見とれていたのだと思う。儚くて、寂し気で――自分と同じだと思った。でも、きっと、目の前の男性は同情を快く思わないだろう。大人の中で生きてきた私は、なんとなくそう思った。

 だからこそ、変な親しみを覚えてしまったのだろう。この冷たいのか優しいのかわからない人を、心の底からは疑わなくてもいいのだと。

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