第3話 のぞみとぼう(望)

「おい、起きろ」


 頬を軽く叩かれ、重いまぶたがあがっていく。

 お父さん、ごめんね。今日は私が朝食当番だったかな。寝る前は甘いスクランブルエッグとソーセージを作る予定だった。っていうか、ちゃんと炊飯器をセット出来ていたかな。お父さんは卵かけご飯が好きだもんね。私もそっちの方が好きだし。


「あった、かい」


 大きな腕に抱かれているのがわかる。すり寄って数秒後、違和感しかなかった。

 お父さんにしては、たくましい。お父さんてば、文科系でひょろっとしていたし。じゃない。当たり前だ、お父さんはもういないのだ。

 じゃあ、だれ?

 そうか、私、夢を見ていたのか。大切な人を失った時の悪夢を。

 薄っすら開いた瞼の隙間から見えたのは――立派な顎髭あごひげをたくわえた男性で。


「だっだれ⁉ いたっ!」


 飛び起きた瞬間、ひどく頬が痛んだ。表面だけじゃなく、歯も疼いた。血の味もする。むせた後、血の塊が出た。

 そうだ、私は数秒前までは、あまりにも現実離れした状況にいたんだ。石畳の狭い路地で押し倒され、気持ち悪い息が首元と太ももをなぞっていた。


(気持ち悪い、きもちわるい!)


 首筋を何度拭っても、あの感覚は消えない。自分の手では消えないと、胸元のスカーフをとってみても、嫌悪は変わらない。


「はっはぁ、はぁ、あぁ」


 触れられた肩口や腿を叩く。げんこつで叩く。爪を立ててかきむしる。

 叩くことによって、あいつの気持ち悪い感触を忘れられる気がした。女性として大事な部分には触れられていないのは理解しているはずなのに、気持ち悪くてしょうがない。触られていないことさえも自分の願望な気がしてきて、思考が沈む。


(うそ、でしょ。ほんと、うそだよね)


 がたがたと震え、痛みを覚える肩さえも幻と思えるような光景。

 その直後、痛みよりも激しい嫌悪が全身を襲う。噛まれた場所に爪を立て、搔きむしる。いやだ、いやだ。うそだ、うそだ。


「もう大丈夫だ。あんな若造のために、お前が自分をなぶることはない」


 私の前に膝をついたのは、中華ファンタジーみたいな衣装を身に着けた男性だった。私の手をゆっくりと取ったのは、漆黒の夜に溶けそうな長い髪を持った男性だった。月明かりを受けて、黒く光沢のある長い前髪が風に吹いている。そして、その奥にあるのは青紫の瞳。

 怖くて全力でもがくが、男性は手を離さない。


(きっ気持ち悪い! やだ、こんなの)


 尻もちをついて、一般的な紺色のセーラー服の上着を握りしめた。水たまりに映った自分を認識した途端、手は尋常ではないくらい震えた。

 日常のはずのセーラー服を着ているのに、泥に汚れて、肌を赤くしている私は……だれ?

 けれど、彼の手は確かに私という肌に熱を与えてくれる。この非現実的な光景の中で。


「落ち着け。お前は犯されてなどおらぬ」

「だって……」


 しゃくりあげた私の体を大きな腕が包み込んだ。短い悲鳴があがりそうになるが、背中を軽く叩かれ不思議と心のざわめきが消えていった。もう一度、今度は撫でるように手が動くと、完全に体から力が抜けていった。体の毒気がみんな出ていくみたいだ。

 男性の肩に額を預けると、最後というように頭を撫でられた。すんと鼻をすすると、ほんのり甘い香りがした。桃だろうか。


「星斗様、不用意に近寄らぬことです。この異様な服を纏った娘、おかしな気配がいたしまする」

「やめよ、神荼しんと。この者の仙気を沈めただけだ。それに、郁塁うつるいがおらぬからと言って、仙気を野放しにしすぎているぞ」


 男性が離れて、冷たい風が肌に染みてくる。

 顔をあげられない私の頭の上で、低い声が応酬する。

 再び震え出した体。逃げたいのに足がそれを許してくれない。


「星兄さま、神荼、おやめなさいませ。貴方様方はお顔も声も怖いのですから」


 怯える私の頬に触れたのは、とても柔らかい指先だった。まくれ上がったセーラー服の短いスカートの裾を下ろしてくれた少女に、恐る恐る視線をあわせる。


のぞみ⁈)


 いや、そんな訳ない。

 親友の望がこんなところに居る訳がない。望も美少女だったけれど、よくよく見れば彼女は私よりも幼い。なにより、髪の色がピンク色みたいな、牡丹の花みたいな色をしている。ふんわりウェーブの長い髪で踊る髪飾りが、彼女の神秘的な雰囲気を強めている。


「あ、の」


 ぽんぽんと裾を叩いた少女は、どうみても私より年下なのに……まるでお母さんみたいな笑みを浮かべていた。ほっとした。安堵してしまった。


「わっわたし、ここ、どこ。いえ、かえる、たい」


 自分の口から出た片言に驚く暇もなく、私は目の前の少女に抱き着いていた。

 少女がびくりと驚いたのと同時、武人みたいな男性が大きな槍を構えたのが見えたが、知ったことではない。

 少女が私の背を優しく撫でてくれたから、泣くのに忙しかった。


「あっ、あぁ、うわぁぁ」

「……案ずるな。お前は俺たちが保護する」


 泣き叫ぶ私を持ち上げたのは、面倒くさそうな表情を浮かべた切れ長の濃い紫色の瞳の男性だった。

 ぱちくりと瞬きを繰り返す私に、男性は深いため息をついた。不思議と、それが安心できた。彼は私を襲わないって。


ぼう嬢よ。ほんとーに、こいつが予言ゆめの御守り役なのかぁ?」


 神荼という髭の武人が、呆れたように後頭部を掻く。彼の足共に私を襲った男が寝そべっているのが見えた。でも、彼らは誰も気に留めていない。ざまぁみろって思った。加えると、若とかいう男の従者も一緒に伸びている。


「こいつが、俺の御守り、か。ならば、縁を結ばねばならぬか」


 星斗が深くため息をついた。

 さっきから、予言とか御守り役とかなんのことだろうか。急激な眠気が襲う。抱きかかえながらも、うとうとと視界がくらむ。


「あら、神荼。わたくしに否定する要素はありませんことよ? この見慣れぬ衣服に、感じる仙気。この者は、王に嫁ぐわたくしに吉兆、星兄さま――星斗様に縁をもたらす者ですわ」


 泣きじゃくる頭の隅のどこかで、私はこの人たちにとって利用価値がある存在なのだと理解した。前髪を掬う武骨な指も、腹に添えた手に優しく触れる手さえも。

 だからこそ、怖かった。

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