第2話 定月 朔(さだつき さく)
私こと
母は私を出産した後、すぐ亡くなったそうだ。元々あまり丈夫な人ではなかったらしい。父は母を犠牲にして生まれた私を恨むことなく、大切に育ててくれた。シッターさんとの思い出も多いので、決していつも傍にいてくれたとは言い難いが、それでも私は一生懸命な父が大好きだった。そして、とにかく明るい人だった。
仕事と私に一生懸命だった父が、私は本当に大好きだった。やっぱりちょっとは寂しかったけれど、我侭を言ってはいけないのはわかっていたから、遊園地の約束が破られても、お遊戯会に来てもらえなくても我慢できた。父は、その気持ちを口にする私を「聞き分けがない」と叱るのではなく、ちゃんと向き合ってくれていたと思えたから。
家事が壊滅的に下手な父に代わり、私は幼い頃から掃除や料理を担当してきた。父は、どんなに甘すぎる卵焼きも、塩が利きすぎたしょっぱ過ぎるパスタもいつだって完食してくれた。「お父さんはすごく美味しいけれど、次はもっと朔が思うようにできるよ」って。
だから、頑張れた。中学時代も極力負担のない文芸部に入り、高校も部活への入部強制のない近場の公立を選んだ。
そうして、高校一年生になり、総菜屋のバイトを始めた時に栄養士っていう職業があるのを知り栄養学を調べ始めた。それまで何となく日々を生きてきた自分に目標ができたのだ。最近、特に痩せてきた父にちゃんと根拠のある食事を作ってあげたいって。栄養科のある高校に進んだ幼馴染の雄一郎にも、積極的に連絡をとった。最初こそ、雄一郎はこちらからのアプローチに驚いていた様子だったが、「ファザコンめ」なんてからかいながらも、色々教えてくれた。
「お父さん、明後日は誕生日だよね! ちょうどバイトの給料日のすぐ後だから、豪華な手料理をごちそうさせてね」
その夜、父は飲んで帰ったにも関わらず、珍しく家でもビールの缶を開けていた。ほろ酔い気味な父が嬉しそうだったのが、印象的だった。いつもは飲み会の後はシャワーをちゃちゃっと浴びて、ベッドに倒れこんでいるから。
ちょうどその日に買ってきた枝豆を茹で出した私に「わかってるねー」なんて、笑ったりもした。食が細いのに、追加で出したアボカド入りのポテトサラダもぺろっと食べてしまったっけ。
「お父さんはね、おつまみだけで幸せだし、バイト代は朔が使いたいものに使えばいいよ」
「じゃあ、遠慮なく食材を買っちゃおう。贅沢しちゃおうかなぁー。A5ランクの牛肉とか神々しすぎない? むしろ、私が食べたい」
へらりと笑った私から、父は視線を逸らした。視線は、すぐ隣の和室にいるお母さんに向けられていた。お母さんの写真になにか報告しているのだろう。不満も喜びも直接伝えてくれればいいのにと、少し不満になった。
そして、ひとつ枝豆を父から奪った私に、父は目を擦った。
「飲みすぎたかな。お父さん、眠くて目がしぱしぱしてきた」
なんて言いながら、一気にビールを飲み干していた。お酒、強くないくせに。
私も照れくさくて、誤魔化し気味に笑った。
「年だね、お父さんも。どうしよう。誕生日に料理作りすぎたら、お父さんと私じゃ食べきれないかもね」
「じゃあ――お客さんを、呼んでもいいかな? その、お父さんの職場の人たちなんだけど」
「うん! 賑やかな方が楽しいし、作り甲斐もあるし良いよ!」
今にして思えば、なぜこの時に父――お父さんにお礼がしたいのと素直に口に出来なかったのだろうと後悔するしかない瞬間だった。お父さんのことが大好きだから、感謝しているから、作らせてねって。私、だから栄養士になりたいって思ったんだよって。
あの時、どうしてお父さんが嬉しそうだったのか聞けばよかった。私は普段見れないお父さんを知れるかもしれないなんて、はしゃいでいたのだ。お父さんじゃないお父さんが見れて、からかえるって。私は、本当に自分のことばっかり考えていた。
お父さん、聞いてほしかったのかもしれない。待っていたのかもしれない。
父の葬式の時、棺桶にすがりついて泣いていた女性の存在を、私に告げるのを。
父は誕生日の昼、死んだ。
なんでも、婚約者に指輪を買って金欠だという昼をケチろうとしていた部下に、自分の弁当をあげたらしい。父の弁当を私が作っているのは、社内では周知だったらしい。部下の人も、「JKの手作り弁当とか、まじ罪の味っす」と辞退したらしい。でも、父は「なんだそれ」と笑ったという。
「佐藤、午後から何社も外回りに行くんだろう? 炎天下で体力もたないぞ。俺はいつでも娘の手作り料理を食べられるし、なにより今晩はごちそうが待っているから。しっかり食え」
佐藤さんという人に弁当をあげた父はビル下のコンビニに足を運び……交差点を飛び出した子ども庇って、トラックにはねられたらしい。
その話を父の死体を前に聞いた時、「うそでしょ」と思った。
だって、私は小学生のころ信号無視をして突っ込んできた軽トラにはねられてもピンピンとしていたんだもの。大人のお父さんが死ぬはずなんてない。
通夜は遠縁のおじさんとかおばさんが取り仕切ってくれた。初めて会う親戚の中、私は一人呆然としていた。物事が、どんどん進んでいく。慌ただしく動きまわる大人の中、私は取り残されているみたいに心がついてこなかった。読まれるお経も、流れる涙もお焼香のおじぎも、流れているただの映像だった。ただただ、流れていく時間。
佐藤さんや、父が救ったという子どものご両親に泣きじゃくりながら謝られても、「いえ、あの、気にしないでください」と答えていたらしい。正直、覚えていない。
火葬場でお父さんの骨を骨壺に詰めている際も、なんだか他人事みたいに感じていた。火葬場の人が色々骨盤とか喉仏とか説明してくれるのだけど、私はどうしても目の前のそれがお父さんとは思えなかった。だって、お父さんは私を抱きしめてくれるだけの大きさはあって、頭を撫でてくれる動く腕もあった。目の前のただの骨がお父さんなんて思えるはずがない。
台の上にただ乗っている白い骨は、お父さんじゃない。
泣かない私を見て、ある親戚は「気味が悪い」と言い、とある親戚は「現実が受け止められないのよ」と私を抱きしめた。
******
お父さんを形作っていたものと遺影を
広い一軒家の一室、六畳の和室に並んでいる笑顔のお母さんとお父さん。いつもは正座する私の隣にいたお父さんは、お母さんの隣にいる。もう、私の隣にいはいない。私の頭を撫でてくれないし、肩を抱いてもくれない。
お母さんと同じだなんだ。
お父さんは、お母さんと一緒のところに行っちゃったんだ。
ぽろりと頬を転がった涙。
それを拭ってくれる優しい大きな手はない。雫はずっと零れ落ち続けて、セーラー服のスカートを濡らす。
どうしよう。明日は学校なのに、洗濯物たまっているし面倒くさいなぁ。テスト結果も返ってくる。進路相談もある。庭の花もそろそろ水をあげないと枯れる。
七月の暑い夕方、セミだけが鳴いている。ジィジィジィーって、アブラゼミだ。押し入れにある虫かごに、いつもセミじゃなくって抜け殻ばっかりを入れて、「朔、セミはいいの?」なんて父を困らせていたっけ。幼い私は、抜け殻を集めるのが好きだった。
そういえば、だいぶ暑くなっている。額から、頬から、首筋を伝う汗がうっとおしい。家の中でこんなに汗を掻くことなんてなかったのに、どうしてだろう。
首を傾げて、すぐに口の端があがった。
「お父さん、暑がりだったもんね」
私よりお父さんの方が暑がりだった。二度、目の前のお父さんに笑いかけても、ずっと同じ顔だ。
「まいったな、クールビズじゃ足りないよ」なんて、困らない。シャツ一枚とトランクス姿でソファーに寝そべったりしないのだ。もう、これからはずっとずっと同じ顔しか私に向けてくれない。お母さんと一緒だ。
「あつい」
そうだ。私がつけない限り、もうエアコンの音も扇風機の羽音も聞こえない。暑がりの誰かさんはもう、いないから。私しか、ここにいないから。
あっ、そっか。
もう、大好きな手は私に触れないのだ。熱くて大きな手を逃れるように、エアコンの温度を下げることさえ、ない。
「そうだよね、私は――」
目の前の写真は表情を変えることはない。いつも笑っているのだ。視線があうことはないお母さんと同じように。
そう再度自覚した途端、嗚咽が込み上げてきた。乾いていた瞳を急激な熱が襲う。涙が溢れて止まらない。
もう、ここには私しかいない。私しかいないのだ。泣いてもだれも、お父さんやお母さんを責めない。私を可哀そうって言わない。私に謝らない。私に判断しようがない許しを請わない。
「うっ、うぅ。あぁ――!!」
吐きそうになる口元を押さえても、慟哭は堪えられない。畳に額を擦りつけても、込み上げる感情を消すことはできなかった。こんな痛みじゃ足りない。
神様、もっともっと激しい痛みをください。
そうしないと、視界を歪めるものは止まってくれないと思った。何度も何度も拳を打ち付けても、叫びは止まらない。
もう、おかえりって言えない、ただいまって言ってくれない。太ったなって皮肉ることもなければ、疲れてるなってお風呂を沸かしてもくれない。将来が心配とも楽しみとも笑ってくれない。夕ご飯も昼ごはんも、朝食もなんだろうって待ってはくれない。
セミの鳴き声だけが、私の感情を消してくれるように、けたたましく鳴り続ける。
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