漆黒公子の御守り少女~異界の中華後宮で生き残ってみせる~

笠岡もこ

―はじまり―

第1話 異空間

 まず、今、私は自分という存在を確かめなければならない。


 そう、思った。

 この意識が夢の中にあるものなのか、現実リアルなのか判断できずにいる。目の前にある光景はあまりにも異空間なのに、抱いた両腕はこの上なく現実を伝えてくる。激しく震え、夢のようにふわりとした体ではないことを、残酷なまでに知らしめてくるから。


 私は、定月さだつき さく。数カ月まではシングルファザー家庭の高校一年生だった。百六十センチの痩せても太ってもいない平凡な女子高生。

 今日も今日とてセーラー服で自転車をこぎ、ホームルーム終了と同時にスーパーの特売に向かっている。正直、父のためにと料理が生きがいだった数カ月前と異なり、一人となった今は自分のためだけに作る料理は味気ない。かといって、毎日毎食コンビニ弁当なんて贅沢だ。地味に高いもの。


「はぁ、スーパーの特売に間に合った!」


 ちょっと前までバイトをしていたお総菜屋さんは、ある理由で辞めてしまった。

 いわゆる、個人経営がゆえのセクハラだ。ある程度は我慢していたけれど、さすがにホテルで慰めてあげるはアウトで正解だと思うのだ。


「かじさーん、コロッケくださいな!」

「朔ちゃん、あいよ! 十個持っていきな。うちのは出来たてが美味しいけど、冷凍したってうまさは変らないからね!」


 一桁の頃から知り合いの梶おばちゃんは、気前よく出来たてコロッケたちを包んだ袋を両手に乗せてくれる。しかも、こっそり一個おまけして。

 お礼を言って商店街を抜けていく。その間、八百屋さん数件に加えて、お総菜屋さんも声をかけてくれた。みんなお父さんと繋がりがあった人だ。


「おっ、朔ちゃん。たまには魚屋にも寄ってくれよ」

「そろそろ寒くなるので、お鍋用の魚をもらいにいきますねー!」


 あぁ、宇尾升さんはお父さんと良く寄ったお店だ。新鮮なお魚が多くて、刺身は勿論お鍋用の魚を買っていた。お父さんと骨有りの売りで骨があるねなんて笑い合った。

 そう言えば、一人になってからお鍋なんて出してもいない。

 私の街は商店街が元気だ。幼い頃から通っているせいか、パン屋や魚屋さんから切れ端のおすそわけはあった。が、まぁ、それが続くと当然、女将さんが良い顔しないし、こちらも分別がつく年だし心苦しさもある。


「世の中は難しいものですね」


 ってことで、ここ一カ月はもっぱら駅前のスーパーの特売に通っている。今日も、愛車の麻呂きちで爆走していたはずだ。


 なのに、どうしてなのだろう。本当に、どうしてなの?


 そんな人生真面目に節約生活を送っていたはずの私は、今、見たこともない古代中国みたいな街の地べたに座り込んでいるのだ。

 暗い路地裏に漂う臭いに、思わず鼻をつまむ。アルコールだけじゃない。生活臭のようであり、化粧のむせかえるような臭いだろうか。とにかく、色んな臭いが混ざりあっている。臭いの一言に尽きる。

 それに、秋口なのに風が冷たすぎる。たまらず出たくしゃみが、人気のない場に響いた。


「おい。あっちから女みたいなくしゃみが聞こえたぞ」

「どーせ、こんな路地裏で売ってる女だ。ろくな面じゃねぇだろう。お前、この間も変な女を押さえつけてていただろ。そのうち、変な病気でも貰ってくるんじゃねぇのか?」


 妙に訛りのある男性たちの声が、風に乗って聞こえてきた。追って耳に入った、ねっとりとした下品な笑いに背筋が凍った。

 本能的に『逃げなくては』と体が動く。薄暗くてわかりにくいが、月がやけに明るいので、申し訳なさ程度に設置されているランプでも足元はちゃんと見えて――。


「な、に。これ」


 声が震える。口を押える手は、もっと激しく揺れている。ひゅっと鳴った喉は呼吸を上手く吐けずに噎せ返るしかない。

 だって、見上げた空に浮かんでいる月は、私が知るそれよりも十倍は軽く大きい。スーパームーンなんて比じゃない。この間VRで見た古代の地球レベルじゃん。

 加えて、周囲で煌めいている星の数の異様さといったら……。映像や写真でしか見たことがない、南国の空ほど溢れんばかりの星たち。


「へへっ。こっちに気配がするぜ。やすっぺぇ香水や粉臭くねぇし、案外上玉だったりしてな」


 今は逃げなくちゃ。

 足元に転がっていた通学鞄を抱きしめ、笑う膝を叱咤し走る。ローファーが石を蹴る音が響くが、とにかく大きな路地めがけて足を動かし続ける。幸い後ろから人が追いかけてくる様子はない。

 けれど、状況はちっとも好転などしていない現実を、すぐに突き付けられる。大通りに入り、走る速度を徐々に落とすと、所々にいる人たちの異様さに気が付いてしまった。走るのを止めたのに、余計に汗が噴き出してくる。

 なるべく挙動不審に思われないよう、視線だけを四方に動かす。


 違う。ここで異様なのは私なのだ。

 割れた石にたまっている水に映った自分を見て、そう思わざるを得なかった。


 そうだ! スマホ!!

 鞄の中に手を突っ込みひっかきまわすが、こんな時に限って全然見つからない。友人たちに言われたように、少々邪魔でも動物耳がついたり目立つ色のスマホケースだったりをつけておくべきだった。

 かといって、歩みを完全に止めるともう動いてくれない気がして仕方がない。不格好になりながらも、歩き続けるしかない。

 イラっとして鞄の底を思いっきり叩いた瞬間、指に金属の冷たさが触れた。命綱を見つけたと安堵した直後、私はまた絶望の淵に立たされた。


「けんがい」


 思わず止まった靴音。

 よくよく考えなくても、これまでの状況からして当たり前だ。それでも、この異様な環境の中でも、これが唯一の助かる手段だとさえ考えていたのだ。電話さえ繋がれば、誰かが助けてくれるって。応えてくれるって。

 ふいに、手元のスマホ画面が暗くなる。顔をあげると、ぼさぼさの髪に浴衣みたいなのを着崩した中年男性が、すぐ近くにいた。


「いけねぇなぁ。お嬢ちゃんみたいなおぼっこいのが、こんな花街をほっつき歩いているなんて。おじさんが、入口まで連れて行ってやろう」

「ひっ!」


 短い悲鳴があがった。伸ばされかけた手は毛むくじゃらで、口臭がきつい。

 とっさにスマホのライトをオンにして、相手に向けていた。そして、走り出す。後ろで、がらんと何かが石畳で跳ねた音がしたが、構っていられない。


「なんだ急に板から光がでやがったぞ! 神仙術か⁉」


 怒りよりも慄きの色が濃い声が、背後から聞こえてくる。シンセンジュツってなに!! 普通にスマホの一般的な機能じゃないか! そうだよ、普通のことなのに!


「はっはぁ、はぁ、あぁ。もう、だめ」


 どれくらい走り続けていたかわからない。気が付けば、アーチ状の門に寄りかかっていた。ずりっと、背中が下に落ちていく。地面の石についた太ももが体の熱を冷やしてくれる。それでは足らず、紺のハイソックスを足首までさげ、もっとと熱を逃がす。

 たっ確か、鞄に水筒が入っていたはずだ。抱え続けていた鞄を地面に落とすが、500mLの大きな水筒はどこにも見当たらない。


「そっか。あの時、後ろ、鳴った音、水筒」


 息も切れ切れに呟いた言葉に、はっとなった。さっきから違和感を覚えてはいたけれど――。でも、他の人たちはちゃんと日本語をしゃべっていて、普通に聞こえている。なぜ、私だけ? きっと思い違い、だろう。


「君、大丈夫かい? 変な男にでも絡まれたのかい?」


 見上げると、アーチの淵に手をつき、こちらをうかがっている青年がいた。

膝に力を入れるが、うまくいかない。

 少し距離をとってこちらを見ている青年は、街中の人たちと異なり身綺麗だ。月明かりに照らされている髪は緑がかって不思議な感じだが、肩までの長さの髪は綺麗に括られている。チャイナ服みたいな、踝まである服だって豪華な刺繍がほどこされている。無地の薄汚れた服を身に着けていた街中の人とは、比較にならないくらい身なりがちゃんとしている。


「君みたいな可愛い子に穴が開くほど見つめられたら、照れてしまうなぁ」


 改めて耳を傾けると、発音にも変な訛りはなく、口調もはっきりとしている。

 彼の声にいやらしさなんて欠片もないのにと、急に申し訳なくなる。


「ごっごめん、なさい。不躾に、見て」


 私の前にしゃがみこんだ青年は、「気にしないで」と微笑んでくれたが、余計に罪悪感が込み上げてくる。


「若、水を差し上げるのが先かと」

「わかっているよ。でも声をかけて安心させる方が、僕は大切だと思うけどね。ほら、お飲み」


 差し出された革袋が揺れる度、ちゃぽんと音が鳴る。

 ごくりと喉が鳴ったのがわかった。水だ。いや、この際、お酒でも構わない。とにかく、喉を潤したい。

 恐る恐る腕を伸ばす。さっき、あんなに怖い目にあったばかりなのに、果たして簡単に水を貰ってしまっても良いモノか。

 考えるが、再度聞こえた水音に、反射的に体が動いてしまった。あぁ、口の中を満たし、喉を流れる水。穏やかに吹く風も心地よいけど、この内側から冷やしてくれる水には適わない。はぁ、美味しかった。


「全部飲んだ?」

「はい、ありがと、ございました」

「じゃあ、お礼を貰おうか」


 それまで私を優しい笑顔で見つめていた男性の表情が一変する。にやりと、先ほどの中年男性と似た部類の笑みが浮かべられた。

 あとずさりするが、無情にもすぐに硬い石の門にぶつかった。なら、門の外へ! 左側に体を傾けるが、従者らしき屈強な男性が仁王立ちで、逃げ道を塞いでいる。私を見下ろす目に、一切の感情は見て取れない。


「わっ!」

「へぇ、思ったより肉付きは良くて、胸もありそうだ」


 甘ったるい香りが鼻先を掠めたと思ったら、次の瞬間には体が浮いていた。人間て、こんなに簡単に担ぎ上げられるものだろうか! いくら男性が長身でがっしりしているとはいえ、慣れていないと、暴れる人間を担いで歩くなんて無理だろう。なのに、この男性は一切バランスを崩さず地面を鳴らす。

 さぁっと血の気が引いていく。彼の背中を叩いていた手が、激しく震え出す。

 馬鹿だ、私は大馬鹿だ!! 慣れているのだろう、この男は。私は、まんまとこの男の手口に騙されたのだ!


「この変で良いかな。自分の店に行くのも面倒だし、とりあえず、ここいらで一回やって、抵抗する気力を削いでおくか」

「いやっ!」


 壁の突き当りの路地に放り投げ出された。が、痛みより抵抗の声の方があがる。上から下まで舐めるように見てくる男性は、水をくれた同一人物とは思えないくらい歪んだ笑みを浮かべている。


「改めて見ても、変わった格好してるな」


 ほぅっと、顎に手をあて頷いたかと思うと、スカートの裾を持ち上げられた。完全に下着が見える勢いで。


「やめて!」


 振り上げた手は、男性の頬に届くより前に、あっさりと掴まれてしまった。それどころか、「抵抗する女の行動定型だな」と肩を竦められる始末だ。

 反対に、私の頬を大きな衝撃が襲った。何か起こったか理解できない。わかるのは、自分が地面に倒れ、動けないこと。私、叩かれたのだろうか。そうか、張り手を受けたのだ。理不尽に。


――怖い、怖い、いやだ、いたい。お父さん、お父さん。助けて。


「お前、変わった格好しているし、言葉も変に片言だな。どこかの奴隷商人からでも逃げてきたのか? まぁ、どうでもいいけど。あいつらは所詮、金を積めばすぐに態度を変える」


 男性の口調は、私を張り倒したことに何にも後ろめたさはない。とても軽い。

 セーラー服の襟元を掴みあげられ、無理やり座りなおされる。動けない。恐怖に震えるしかない私を見て、男性は口元をこれ以上ない程に歪めた。彼が背負った月と星の明るさが、不気味さを強調している。

 身じろぎをする前に、私の首筋にかかっていた髪を、指が掬った。


「やっ、いや! きもち、わるい」


 必死に男性の肩を押し返すが、どうにかなるはずもなく。首筋をぬめっとしたものが這い続ける。耳元で荒くなっていく息が気持ち悪い。

 助けて、お父さん! だれか、だれか助けて!!


「肌は悪くない白さだ。お前、本当に奴隷か? さて、こっちの肉付きはどうかな」

「――っ!」


 胸を力の限りぎゅっと掴まれ、痛みが走る。いっ痛い。


「うん、思った通り結構あるじゃないか。こちらは後の楽しみにとっておくとして」


 スカートの裾から手が入ってくるのがわかり、もう駄目だと思った。

 頬が痛い。体もだるい。喉も乾いた。自分の目が、だんだんと光を認識できなくなっている気がした。そちらの方がいいか。何も見えなくて、感じない方が怖くない。


「愚かと表現する以外はないな。視界に入れるのも苦楚としか思えぬ」


 静かな、けれど良く通る声がわずかに聞こえた直後、私の腿を撫でまわしていた感触も、荒い息も全部なくなった。

 空ろになりかけている視線をあげる。綺麗な紫色と視線がぶつかり、一気に視界が鮮明になっていく。切れ長の目元でも、怖くないと思った。闇夜に浮かぶ暗くて灯みたいな矛盾する瞳に、心臓がぎゅうっと悲鳴をあげる。夜色の長い髪が、風に揺れて、綺麗だと思った。


「まったく。陳家の若造が、また悪さしていたのか。が、今回は見逃すわけにはいかん。なんせ、その娘はぼう嬢の予言に出た娘だからな」


 腹に響くような低い声の方をゆっくり向くと、私を襲った男性は宙に浮いていた。いや、熊のような大きな人に襟元を掴まれていたのだ。そのまま、ぶんと音を立てて壁に投げつけられた。


「ぐっはぁ!!」


 ぱらりと、壁の石がわずかに崩れたなぁ、なんて呑気に考えてしまう。男性は地面に色んなものを垂れ流し、吐き散らかしている。ざまぁみろとさえ思った。自業自得だと笑ってやりたいのに、顔の筋肉が一切動いてくれない。

 そうだ。今度こそ、私はこの人たちに犯されてしまうのかもしれない。


神荼しんと、ほどほどにお願いね。いくら陳家の汚点である烏滸おこ息子とは言えども、一応、陳家の息子であることには変わりないのだから」


 大男の後ろから顔をのぞかせたのは、小柄な少女だった。場違い。その一言に尽きるような、少女だと思った。

 月明かりを遮っていた雲が、さぁっと流れていった。

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