水たばこを吸って

柏木祥子

水たばこを吸って

「沈んでみないとわからないことだけれど、浮かぶときって、浮かんでいるとは思わないものよ。下から押し上げられる。上にはたいてい、光が浮かんでいる。とても、苦しさ、もどかしさ、浮かぶっていうのはすごく受動的で、抗いがたい、なにか――流転する感覚――浮かんでいるときに思ったのは、流されているということよ。浮かんでいると思うのは、それが単純に、物理的な事実だからなのだわ」

 瀬尾は一六の誕生日に水煙草を買った。

 普通の煙草は買えないからだ。

 瀬尾は煙草が吸いたかった。それは、衝動である。煙草がモチーフとして持つ、反社会性や、刹那主義的側面、グノーシス主義的思想、それから自由、奔放さ、それらがないまぜになった衝動である。瀬尾は神田の水煙草の店で水パイプを買い、水煙草ようの煙草は、秋葉原で買った。

 瀬尾は、自宅の部屋に籠って、水煙草に火をつけた。ブオーッと煙を吸って、吐き、ブオーッと煙を吸って、吐いた。泡立つ水の音を聞いて、瀬尾は意識が遠のくのを感じた。正確には、水のイメージだった。液体に底はない。液体に入れば、あとはもう、永遠に流されるばかり。水底を覗いた瀬尾は卒倒した。

 瀬尾は重度の高所恐怖症だった。

(「高所恐怖症なんですよ。とても重度の。高いところがどれぐらい怖いかどうか、て言うと大したことのないように聞こえるんですけどね。うちの娘の場合、そうはいかなくて。階段ぐらいの段差でもパニックになってしまう。それどころか水たまりの水でさえも、娘にとっては綱渡りと同じぐらいの恐怖なんです」)

 高所恐怖症は病気だが、病原は、人の手の届く領野にはない。精神世界は動くときは、物理世界のそれより遥かに致命的で、無限と見まがうような動きをするが、瀬尾の場合とくに、高所と言えば、いかなる高所であっても、致命的なまでに、精神をかき乱す。

 この感覚が人にはわからない。きちがいをきちがいとして理解するようなものである。そのように、彼らが理解するのは、瀬尾がきちがいでないということである。

 とくに、三枝のような保守的な、八十年代にディスコ・クラブやディスコ・ミュージックを毛嫌いしていた人間にとって、瀬尾の恐怖症は理解の範疇にはない。なにせ恐怖症という物自体に懐疑的なのだ。“恐怖とは感情のことだ……なぜそれが少し強いぐらいで、病気になる?”しかし彼は教育者なので、恐怖症というものがあること、または主張されていることに異議を唱えることはしない。しないものの、三枝は恐怖症とアレルギーを完全に混同していた。なので、高いところが怖い――それも、雨の日は一切外に出られないと言われても、あまりピンとこない。

「高所恐怖症のせいで?」

「ええ。恐怖症のせいで」

「今日は娘さんいらしてませんね」

「ええ。雨なので」

「なるほど。それで、娘さんが高所恐怖症なので、出席日数について便宜を図ってほしい。そういうことですか?」

「ええ」

「雨の日すべてに来なくても、出席日数は足りると思いますけど」

 瀬尾は水煙草を机の上に放置した。けれど時折、吸いたいような気がして、吸ってみるのだが、二度三度吸うだけてまず恐怖心に勝てなくなった。以前の瀬尾ならそういうとききかんぼうのように猛り狂ったものだが、今はそうでもない。水のことを考えるだけで不安定になってしまうため、なるべく物事について考えないようにしている。

 水のことだけではない。あらゆることに関して、瀬尾は考えないようにしている。

 例えば“二〇〇一年宇宙の旅”について訊かれたときは“映画ね”と返す。アモン・デュールⅡやグル・グル、カンなどのドイツ前衛音楽について訊かれたときは“なにこの音は?”と訊き返す。その割に彼女の部屋にはタンジェリン・ドリームの“フェードラ”が紙ジャケットで置いてあるのだけど、結局、音を音として捉えるに過ぎない。

 彼女の世界は本質のない表層である。世界がそうなっているのではなく、表層で生きているということだ。

 三枝校長は、瀬尾のそういう部分が気に入らなかったのだろう。彼が「学期の途中だから、いろいろ大変だと思う。できるだけ気にかけるようにする」と言うと彼女は「ありがとうございます」と気のない返事。「君の病気については訊いている。出席日数などはどうしようもないが、こちらについても、できる限り学校側からのサポートはする」と言ってみても、瀬尾は「ありがとうございます」と繰り返すだけだった。

 感受性の鈍い子供を三枝校長は見下している。いや、感受性の鈍い子供というものを、誰もが見下している。感受性は自己を強く、鮮明に表す。それが鈍いということは、生命の輝きが鈍いということに、なる。大人であれば、そのように、子供であれば、彼女がなににも興味を持っていないのではないかと。感受性は、なにに増しても大義名分に成りえるものだが、それがないということは、なにに対しても免罪符を失うことでもあるのだ。

 自己紹介のときにもそういう態度だったから、瀬尾は人気がなかった。陰湿で馬鹿な子が多い学校であったら、ひどい嫌がらせを受けたっておかしくない態度だ。

 ただ、担任の添島だけは、瀬尾が問題児だということだけ聞いていたので、おとなしい態度を見て、内心で安堵していた。瀬尾はきりりとしていれば涼やかな風の美人だったから、ますますそうだった。生徒から他人の評価は、単純な足し算と引き算と、ときおりあらわれる掛け算と、マイナスの掛け算で成り立っている。逆に教師から生徒へは、マイナスの足し算と、マイナスの引き算と、足し算である。問題を起こさない生徒は、教師にとってはマイナスの引き算によって、プラスの評価がなされる。とりわけ添島は若い女性で、瀬尾の前知識と、実際との振れ幅が大きかったから、かなり好意的に接しさせた。瀬尾の態度は色んな物事をもたらしたが、このことは彼女の高校生活に大きな影響を与えることになる。

「はじめまして。城南のほうから来ました。瀬尾忍です。よろしくお願いします」

 瀬尾は別に、どんな便宜を図ってもらったわけでもなかったので、高所恐怖症のことは、教師たちの間でやりとりされただけだった。三枝も添島もてっきり自己紹介のときに言うんだと思っていたので、名前と出身地だけ言って、ぺこりと頭を下げたときは、ちょっと虚をつかれて、催促するのを忘れてしまった。だから生徒たちはしばらくのあいだ瀬尾がひどい高所恐怖症なんだということには気が付かなかった。その間、瀬尾は雨の日は休む変な人だった。

「言わなきゃわからないことって、あるじゃない? でも、みんなそういうもののことを、つまりは言った方がいいことだと捉えているということであって、そうじゃないなら、別に言う必要はないし、むしろ言いたくないことだってあるよね。言わなきゃわかんないじゃない、なんて、物語のうちだから成立するんであって、実際そういう状況になったら、ほんとは知られたくなかったことだってあるよね」

 瀬尾に人気がなかったというのは、さっき触れたとおり。瀬尾はまじめに話をしようとしないし、本来転校生が持っているべき(少なくともそう思われている)初々しさ、緊張、恐怖、期待を、水底に置いてきてしまっている。手早い話、転校生がいがない。(でもだからといって、瀬尾がはじめから誰からも関わられなかったわけでは、もちろんない。)

 あんなでも、はじめの三日ぐらいは人がいたのだ。彼女だって転校生だし、彼らは城南という、漁業と大学しかない町の中途半端な田舎民だったし、瀬尾がとっつきにくくても、ちょっとぐらいは話をしたがる。このときの一連の出来事は残念ながら瀬尾を少しも変えはしなかったけれど、彼女のことを知るために、一応書いておこうと思う。

 彼女が転校してきたのは、六月の六日、火曜日。その日は一限が英語、二限が社会科選択科目で、彼女はまだ正式に科目を選んでいなかったので、その間は図書室にいた。司書の村谷という初老の女性と、担任の添島美香が彼女に付き添った。ジェーン・オースティンのロマンティック小説を手に取って、ぱらぱらと捲っていた。添島は村谷に瀬尾の事情をうちあけて、ここに来ることがあったら見てあげて欲しいと言った。瀬尾は添島に「いえ、この人は嫌いじゃないんですけど、この本はそんなに好きでもないんです。エリナーのことは好きですけど、マリアンみたいに思うままに生きて、それがうまく行くのが一番いいはずなんです。でもこの本だと、うまく行かないことばかりで、最後は妥協してしまうから」と『分別と多感』を戻してそう話した。(添島は単に、鋭い感受性を持っていると思った)瀬尾は昼休みが終わるまで教室には戻らなかった。食事は恐怖症の関係で保険医ととる。なので生徒たちがなんとか瀬尾と話す機会を得たのは、三、四限にわたってやる体育の時間だ。

 とはいえだいたいの子たちは、瀬尾のような転校生に興味をもっても、同時に異分子としての彼女にも目を向ける。遠巻きに見ることはあっても、自分から話しかけることはできない。普段つるんでいる仲間たちとつるみ、瀬尾がどんな人間かひそひそと話す。こういうとき残るのは、同級生みんなに分け隔てなく接するタイプの子である。川津、川崎は一人セーラー服に慣れない顔で運動場の入り口に現れた瀬尾を見ていた。瀬尾は運動場の端っこで立たされて教師の話を聞いている生徒たちに気が付くと、すり足に近い歩き方で寄ってきた。“こっちに近くなったら話しかけよう”高野はそう考えて、うずうずしていた。高野はさりげなく集団の外側へ出たが、肝心の瀬尾は、運動場の奥にため池を見つけると、保健室へ踵を返してしまう。

 彼女と面と向かって話をしたのは、隣の席になった東雲という女生徒がはじめだった。

 瀬尾の席は一番後ろに、ひょっこりと出た二つの席のうち一つ。

 そのうち廊下側。

 彼女は夏服で、ひんやりとした机にそのままの肘をのせて、頬杖をついていた。頬がゆがみ、口を半開きにしたまま瀬尾はぼっとしていた。目も半開きで、眠そうではなかったが、眠っているようにも見えた。湿気に囚われて、つややかな黒い髪が油っぽく、ぺたんと肌に張り付いていた。

 東雲は話しかけた。

「知りたいこととかあったら言ってね。わたしにね。添島先生に頼まれたし」

 瀬尾はじっと東雲を見た。瀬尾のなにを考えているのかもよくわからない、水底のような黒い目に見られていると、東雲は落ち着かなかった。

「この高校は変な高校なの?」

「え、なんて?」

「変わった高校なら変わった部分を訊いておくべきだと思うけど、そんなに変じゃないなら、別に訊く必要はなし、わざわざ質問を考えるのは、めんどうくさいでしょう。変じゃないなら、なんにもないわ。この学校は変なの?」

「どうかなあ……」東雲は困惑した。困惑したが、とりあえず向こうから来た問いに答えることにした。「変な人っていうならまあ、いるとは思うけど、この学校自体が変てことは、ないと思うけど」

「そう? でもなにが変かって、内側からはわからないんじゃない? 自分の内臓脂肪がどれぐらいかとか、あなたわからないでしょ」

 東雲は目を白黒させた。

「ええと、部活とかはやらないの?」

「やらない」

「前の高校とか、中学とかではなにかやってた?」

「水球をちょっとやってたわ」

「アッ」東雲。「うちにもあるよ。ちっちゃいけど。瀬尾さんスレンダーだし水着似合いそう。え、でもそれもやらないの?」

「部活はなんにもやらないわ」

「もったいなくない? 今まではやってたんでしょう? やればいいのに」

「でも、やらないのよ」瀬尾はいくぶん鬱っぽい口調で言った。

「そう」東雲は消沈した。「もったいない……」

 東雲も瀬尾も黙った。

「あ」

 東雲はなにも言わず瀬尾を見た。

「訊きたいこと、あったわ」

「なに?」

「現国、小説はなにをやってる?」

「あー……えっと、アフリカに行く……あー……闇の奥。そう、闇の奥」

「ジョゼフ・コンラッドの?」

「あーそう、うん。そんな名前だったよ」

 瀬尾はぴっと神妙な顔で腕を組んだ。(『闇の奥』はイギリス人がアフリカの植民地で象牙の貿易をする男と関わる小説。蒸気船で航行する描写がある)

 東雲はあとで瀬尾がどんな子なのか訊かれて、変な子だと言った。変な子、という評価は、奇妙である。プラス面とマイナス面の両者を併せ持つので、意味の上では、評価という言葉にそぐわない。(普通という言葉は、基本的にマイナス側の単語である)プラスにもマイナスにも振れるこの言葉は、時に完全なゼロ評価を与えることさえもある。東雲が“変な子”と、不快なんだかそうじゃないんだかな表現方法を使ったとき、瀬尾が扱いづらそうだということには何人もが気が付いたが、まだ全員が瀬尾への態度を決めかねている段階だった。ことが決定的になったのは、高野のせいだった。

 高野に関しては、はっきり言ってもっと関係のないことだけど、知っておいた方がいい。

 高野は瀬尾と話したくてうずうずしていた。瀬尾は別に、誰とも話したくないわけではなかったが、消極的な態度をとっていた。散発的に周りの席の生徒たちが話しかけるのを、またぞろ煙にまいたような言葉遣いであしらう。高野はやきもきしていただろう。彼女の席は、瀬尾の四つ前。一番前。

「なぜ雨の日は外に出てこれないの?」

 高野留美という生徒は、クラスにとって一つの楔になる。楔に水を垂らせば全体に浸透するように、高野の見解は、ファッションと塩こうじを除いて概ね参照される。例えば以前、こんなことがあった。

 この学校は三学年、七クラス、三十人いる。部活は体育文化系あわせて一五程度、それぞれのクラスとそれぞれの部活は、文化祭の時期になると、それぞれ一つの企画をする決まりになっている。あるとき……というか、去年の文化祭のことだが、高野のクラスは劇をやることになった。

 しかし、劇は人気の出し物だ。高野のクラス以外にもやりたいというクラスがいくつかあった。演劇部はもちろんのこと、ドラマ研究会や普通のクラスからも三つ、計六つの団体が劇をやりたがっていたのだ。

 例年通りであれば、時間を設けて集まり、団体の代表者がじゃんけんをして、劇をやるクラス、やらないクラスを決める。同じ出し物は三つ以下と決まっているためである。

 とはいっても、演劇部が演劇以外になにをやるのか、という話で、それこそ例年であれば演劇部の枠は予めとってある。高野はそこに異議を唱えたのだった。

 高野の言い分では、演劇部が無条件で演劇をやれることは、学校という教育の場が絶対に持つべき公平性を著しく欠いていた。……性質の悪い正論だ。無茶苦茶だが、筋と倫理性が通っている意見を言う。大抵の場合、そういう意見は、非常に正しいように見える。臨機応変ではないが、一般論だから。いや、高野が言ったことが一般論であれば、演劇部が演劇以外をやることはナンセンス極まりないことなのだが、それはそれとして、高野の意見は筋が通っていないわけではない。とりわけ高野が涙ながらというか、鬼気迫る訴えをしたので無下にはできず、その場にいた生徒会長も、つい「じゃあまあ、今年は演劇部も含めてのじゃんけんにしようか」と言った。演劇部は負けたのだった。

 高野は同級生たちに、瀬尾の歓迎会を開こうと提案した。

 生徒たちは不安と、無関心と、歓心を以て受け止めた。

「じゃ、決まりね」高野はにやりとして言った。「瀬尾さんに話してくる」

 瀬尾は図書室で借りたルイザ・メイ・オルコットの本を捲っていた。

「ね、瀬尾さん?」

「なに?」瀬尾は顔を上げた。

 鋭く、ぶっきらぼうな仕草だった。

「ね、瀬尾さん、あなたがこの学校に来てから、一週間が経ったじゃない? そのあいだ、いろんなことを話したと思うんだけど、まだみんなわからないこともあると思うの。だから、ね? いちど、みんなと話す機会を設けたいのよ。歓迎会ってことよ? 瀬尾さん、無愛想だけど、話しかけられても無視するでなし、返してくれるわけだから、なにかきっかけがあれば打ち解けられると思うのよ。ね、すごく、もったいないわ。せっかく仲良くなれるチャンスを逃すなんてね。それって、アナタだけの損失じゃないわ。わたしたちにとっても大きな損失だと思うのよ」

 これは一種の潔癖さである。高野は普段からこういう考えの持ち主で、決して楽観主義ではない。むしろ論理主義の気配のする子である。高野は見抜いていたのかもしれない。瀬尾が偽善や、取り繕いといったものを嫌っているということを。瀬尾の潔癖にあわせた対応をする、しなければならない、これが、高野の潔癖さである。

 瀬尾は果たして、高野の言葉をぜんぶ聞き、ぜんぶ飲み込んだうえで、いいと思うけど、と噛み砕くようにして言った。

「よかった!」高野は掌を打ち鳴らした。「じゃ、来週ね。予定空けといて」

 そう言い残して高野は去ろうとした。さっと向こうに無理じゃない要求を押し付けて、さっと逃げる。高野の常とう手段だ。

 ところが瀬尾は高野に追いすがった。ちょっと、とまるで詐欺行為を見つけたフクロウみたいに低い声を出して、「来週は無理よ。一週間ぜんぶ雨だったはずだから」と言った。

「雨だとなにかまずいの?」

 このころはまだ、瀬尾が雨になると休むということは広く知られていなかった。時期は六月だが、梅雨前線はまだ東にあるときで、転校してきてから瀬尾が休んだのは、一回か二回といったところだった。「雨の日はダメよ」瀬尾は駄々っ子になって言った。

「雨ぐらい平気よ? 外でやるわけじゃあるまいし」

「でも雨の日は無理よ」

 高野は困って眉を曲げた。

「雨が苦手なの? わたしも雨の日はパーマかけたみたいになっちゃうから、あんまり好きじゃないけど」

「そうよ。苦手よ。だから無理なの」

「じゃ、雨が降ってない日にやろう。瀬尾さんの歓迎会なんだし、こっちが合わせるわ。ちゃんとできる日を見つける。それとも、いっそのこと今日やる?」

「今日は夜から雨よ。私は早退するわ」

 冗談を真顔で返されたので、高野は返事に窮して「そう……」と言った。

 冗談じゃなく、瀬尾は迎えの車が来ると、帰ってしまった。

 それから、高野は添島から瀬尾の家の番号を聞き出して、木曜日に約束を取り付けた。(瀬尾は雨が降っていなかったら行く。と返した)

 ところが不幸にも木曜日は雨だった。ほんとのとこ言うと、一週間全部が雨、雨、雨、で、木曜日は少し弱まっていたが、けっきょく雨だった。

 瀬尾は月曜日から休んでいたので、「雨の日は無理って言ってたけど、ほんとに来ないんだ?」と生徒たちは思っていた。

「肺気腫かなんかなのかな」

「なにそれ」

「肺が腐っちゃう病気。水分とかで」

「まさか。それならなんか説明とかあるでしょ」

 第二次中東戦争、ゲーデルリング事件、カリフォルニア州VSシドニア・ランボー。お互いが歩み寄り、最後の一言まで話し合えば解決したはずの問題というものはどこにでもあるが、これがまさにそれだ。瀬尾はとにかく、自分からなにかを説明したりはしない。プライドが高いし、高そうにも見えるので、事情を知っている人も、うかうか勝手に話すことを躊躇っている。生徒たちの中で不満が高まる中、高野は「なんだ雨ぐらい」と考えていた。高野には断られるという想定はなかった。先例にしたがって、自分が来て欲しいというなら、来れるだろうというのが彼女の傲慢で、浅薄で、それでいて計算された考えだった。来るなら行くよ、という半信半疑の同級生をやり込めて、カラオケ店の予約をし、意気揚々と瀬尾の家に電話をかけた。

「ええ。雨が降っているから、いけない」

「ううん、今日の約束、いけないかと思って」

「雨の日はいけないって言ったでしょ」

「でももう、お店の予約だって取ってあるわ。せっかくだし、来ましょうよ。きっと楽しくなるわよ」

「雨が降っているでしょう」

 高野はいらいらして言った。

「でも雨よ? 雨ぐらいでどうして行けないものなの? だって雨よ? 隕石が降ってくるんじゃないのよ? おかしいと思わない。仲良くしたくないなら、仲良くしたくないと言えばいいのに、どうして雨じゃなきゃ行くなんて言うの。どうせ行く気ないのに」

 高野は途中から自分でもなにを言ってるんだかわからなかった。表層的な話題を、わざわざ深堀して話すようなものだった。高野は気づいていなかったが、この状況を表すのに適切な言葉が三つあった。“馬の耳に念仏”“ぬかに釘”“のれんに腕押し”であった。

 瀬尾は高野が喋ってるあいだ、電話口の向こうでしばらく黙っていた。それは、少し前に高野から歓迎会のことを聞かされたのと、ほとんど同じ態度だった。

 ここでも返事はシンプルだった。瀬尾は「無理なものは無理よ」と言って、電話をぶちりと切った。あとには呆然とした高野が残された。

「どうだった?」

「切られちゃった。もう、なんだったのかしら」

「よくわかんないけど、やっぱり歓迎会はやれないのかな」

 ここで瀬尾に対して、生徒たちからマイナスの掛け算が行われた。(瀬尾の評価は主にマイナスのほうに振られていたので、実際に行われたのは普通の掛け算だけども)

 こういう評価をひっくり返すのは、非常に難しい。一般的に一度張られたレッテルはずっとついてまわると言われている。もし瀬尾が今までの非礼すべてを詫びて、クラスの全員にかしづくのであれば、いや、そうであっても、高野が想像したような融和は実現しなかっただろう。それならそれでよい。万物は流転するものだ。

 瀬尾は自宅の扉を粗雑に開け、粗雑に閉めた。家の中は生命活動というものが感じられなかった。ジャングルの洞穴のように、薄暗く、ぽっかりと虚無が浮かんでいるように見え、瀬尾は座って靴を脱いだ。

 振り返ると、階段のうえに、妹の足が見えたので、瀬尾は「ただいま」と言った。

「おかえり。ガッコどうだった?」

「どうもなにも、て、感じよ」

 瀬尾は自室に引っ込んで、水たばこをやった。糖蜜に火をつけ、煙を吸う。それでいつも通り、頭がくらくらしたあと、ばたんと倒れた。

 その夜、瀬尾と瀬尾の妹は、こんなことを話した。

「それも一種のホット・ハンドだよね。悪い流れは、支流が現れるまで悪い流れでありつづける、ていう。恐怖症というのは、記憶の反復なわけだから、まったく手の出しようもない。ジンクスやカルマに縛られたホット・ハンドだよね。勝率90%のチームに91回賭けるような。姉さんは高所恐怖症や水について、ひた隠しにしてる――というか、積極的に話したがらないけど、それって悪のホット・ハンドだわ。今まで話したせいで嫌な目にあったから、いっそのこと話さないでいよう……。でも姉さん、それは誤謬というものよ。嫌な目にあった理由を、治療可能な部位に求めているにすぎないのよ。なにかが起こったとき、それがそばにあったとしても、それが起因になっているとは限らないわ。同じよ。それと」

「貴女の言ってることはよくわかるわ。志摩」瀬尾は妹の名前を呼んだ。「こう言いたいんでしょう。別に悪いことばかり続くわけじゃない、と。でも反論させてもらうわ。悪いことは続くものよ。貴女は言うんでしょうね、それは気のせいで、偶然で、もしくは認識の差であると。でも違うわ。悪いことというのは、悪い出来事であって、悪そのものではないのよ。悪いことは偶然起こるのではなく、悪いものに引き寄せられることによって起きるのだから、悪いものが正されない限り、悪いことは続くのよ」

「姉さんはその“悪いもの”が、自然に治せないものだと言うつもりなの?」

「そんなつもりはないわよ」瀬尾は目を伏せた。「ええ。まったく、そんなつもりはないわ。でもどんな方法がいいか、私にはわからないのよ。私はただ慎重でいるだけなのよ」

 彼女には憶えがあった。

 瀬尾は前の学校では自分の事情を話したのだ。彼女は自分が持つ固有の性質による欠損を、また、それが引き起こす責任の一切を放棄する権利を持っていたが、それは他人が理解できる領野にはなく、一部の考えなしを除く人々にとって、彼女の内包する欠陥は単なる不公平であるかのように見られた。

「彼らにとって、それ以外なかったと思うわ。冷静に考えれば、そうなる、けれど、掲げられた目的と方法に対して、思想が伴って、いなかったから、結果としてそれはただの歪んだ行いになってしまったわ」

 彼らが用意したのは、コップ一杯の水。

 彼らの前にいたのは、丸腰の瀬尾忍。

 頭がくらくらする。吐き気と、めまいもする。液体には底が存在していない。ずっとずっと落ち続ける。天井の電灯が反射し、丸い月が浮かんでいるように見えた。うっかり覗き込んでしまうと、自分と目があった。

 理解されたいと思わなければ、その目的を達成するのは簡単なことである。

 他人は基本的に他人を理解したいが、理解するものではない。

 瀬尾の評価は定まった。

 高野は瀬尾になるべく関わらないことにして、遠巻きから、たまにおもしろくなさそうに観察するにとどめた。高野がそんな態度をとるようになったので、同級生たちもそれを真似て、瀬尾に冷たく当たった。

 ほどなくして、自己嫌悪にかられた添島から瀬尾が重度の高度恐怖症であることの説明がされたが、数人の生徒に罪悪感を植え付ける以外には、それほど効果はなかった。彼女が病気であっても、優しくしがいがないのには変わりない。

 私にしたって、添島が変な気を回したりしなければ、瀬尾の性質に気づくことはなかったし、友達になったりもしなかっただろう。

2/小学生のとき、私は前方倒立回転ができなかった。体育の先生は面倒見がよかったが、私にはうっとうしく、できたくもないものができるよう応援されるのは、なにより私の心を辛くした。

 私は、はじめ、あの子をはっきりとは見なかった。あの子は美人だし、態度も冷たいので、なんとなく目に入ってしまうけれど、私はあえてはっきり見るようなことはしない。それは、私が超然的なふるまいを心掛けている、ということではなく、自覚的に、見たい気持ちを抑えて見なかったということになる。

 私は体育座りになって、川崎と川津の背中を見つめている。

 彼女たちは私の友達だ。

 私は川崎・川津グループの女の子だった。

「だからね、お金の問題なんだわさ。交通費が一〇〇〇円でしょ、飲み物代が一〇〇〇円でしょ、映画代が一〇〇〇円でしょ。これで三〇〇〇円。たぶん五〇〇〇円ぐらいかかっちゃう」

「えー?」川津はやけに艶っぽく言った。川津はどんな挙動も色っぽく見える感じの子だった。「ちょっとぐらい貸すって言ってるのに」

「お金の貸し借りはいけんよ。普通にテキトーに近所で遊ぶんでいいじゃん」

「ええ? いま梅雨よ? 外遊びはつらくない?」

「ねえ」私は思いついたことを川崎と川津に話しかけた。

 六月二〇日。

 あの日も確か、雨だった。私は一人で廊下を歩いていた。廊下は教室と違って、外と切られていない。教室から出ると、ぶるりと身震いをしてしまう。私は前から添島が歩いてくるのを見つけた。

 添島は見るからに自分が持てる量を超えたプリントを両腕に抱えている。

「先生、なんのプリントですか? 止まんなくていいですよ」

「これはね、次の道徳で使うプリント。見てみる? トロッコ問題とかあるよ」

「トロッコ問題ってなんです?」

「ウソ。知らないの」添島が驚いて振り返った。バランスを崩しそうになって、二度足踏みをした。

「半分持ちますよ」

「あーありがと。金盥さんは人の心を持ってるわ」添島は微笑んだ。年上なのにかわいいと思わせる笑顔だった。こうしてみると、教師と一括りにしてみても、オジンのでもしか教師とはまるで違う。「じゃあ、お願いできるかな。三種類プリントがあるから、一番上のをお願い……うん、そう。コピー紙が挟んであるでしょう?」

 外はざーっと雨が降っていた。

「トロッコ問題っていうのはね」

「はい」

「トロッコ問題っていうのは、えっとね、レールの上を、トロッコが走っているんだけど、それは暴走トロッコなのよ。それで、もう少しでレールが二つに分かれるところまで来ているの。

 レールの片方には、二人の子供がいて、もう片方には、大人が一〇人いる。一足先に気づいたアナタは、レールの切り替え板の前にいる。さあ、どっちにトロッコを行かせるか? っていう」

「なるほど」

「道徳的でしょう?」

「はい」

 添島は私の顔を見て、廊下の真ん中で立ち止まった。

「ねえ?」

「はい」

「ちょっと頼みたいことがあるんだけど。大丈夫?」

 私は添島に対して、負い目を持っていた。その場の、他愛もない、すぐ忘れてしまうような負い目である。半分ではなく、三分の一だけプリントを持ったことである。私は小心者で、梅雨になると、湿気でふやけて、雨に溶かされてしまう。

「今日休んでる子、いるでしょう。ちょっと夏休み前に決めておかないといけないことがあって、そのプリントを今日配布するの。本当なら後で個別に渡せばいいんだけど、この先もしばらくは雨みたいだから、そういうわけにもいかなくて。よかったら、その子の家まで届けてもらえないかな」

「はあ、大丈夫ですけど」

 私は一も二もなくそう言った。けれど、たぶんどんなお願いでもそう返していた。

「帰り道の途中だから」

「はい」

 添島は教員室の机にどっかとプリントをのせて、入れ替わりに引き出しのバインダーからプリントを出して私に渡した。

 林間学校のプリントだった。

「来ないと思いますけど」

 山なんて気候の変わりやすいところ、彼女が行くのはきっと死んだ後だけだ。

「来ないかもしれないけど、お願いね」

 添島はさっと椅子に座って、別の作業を始めてしまった。後悔するばかりの私。なんだか眠たくなってくるような気がする。

 教えられた彼女の住所は、ほんとうに私の家のすぐそばだった。通りを二つずれただけだ。放課後は雨がしとしとと降っていた。私は川津と川崎に断って、先に一人で帰った。靴箱のまえでビニル傘を広げて、口から憂鬱を吐き出した。

 瀬尾に関して私は多くの印象を持っていない。そこはみんなと同じ。彼女と直接話したことはないし、話しかけようと、そうしたこともない。

 話したくないのではなかった。私は小心者なので、そうする勇気がなかったのだ。

 私はけれど後悔していない。

 自分が小心者なのは知ってる。それは私の偽らざる、私の内包する欠陥で、私は自分が小心者であることをあるていど受け入れていたから。

 だから不思議とドキドキもしていた。通学路の途中で、周りの熱に溶け込みながら、胎動する、熱、心臓が早鐘を打つ、音、蒸気を逃がす手管で、上を向く。そうするように私は、緊張と、それ以外を楽しんでも、いる。

 けれど表には出さず、期待を不安とすり替え、私は憂鬱だけを装って、彼女の家の前まで歩いて行った。

 雨はうっとうしいのは本当。

 私は番地と、表札を確認して、ここが瀬尾の家だと認めた。飾り気のない。もともと、私たちが住んでいたのは、この辺りがニュータウンとして建設予定だったころの名残りだった。住民の移住計画と、大型のモール建設を同時に進めて、片方がぽしゃった結果が今の住宅地で、どの家もモデルハウスをコピページしたかのように似通っているのだ。屋根の色まで同じなので、私はずいぶん自然でいられた。

 私は動悸を抑えつつ、呼び鈴をおした。

 返事はなかった。

 もう一度押したけれど、やっぱり音沙汰はない。彼女は雨の日は、音だって聞きたくないので、ずっと音楽を聴いているのだった。私はおさぼりかしらんと冗談づいて考え、緊張のぶり返しを恐れている

 落ち着こうと思って息を吸って、一歩下がって、これで最後にしようという気持ちで呼び鈴をおした。

 するとようやく向こうから誰かが向かってくる音が聞こえて、ついで、自己紹介以来、なんども聞いていない瀬尾の声が「入って」と言った。

 瀬尾はフリルのついたインナーの上にダボついたパーカーを羽織って、膝丈のボトムスを履いていた。私に目もくれずリヴィングに入って行って、「上がってもらえる?」と言い捨てた。

 部屋の全部のカーテンが閉まっていた。ここは一つの密室だ。

 私はカウチに座らされている。瀬尾は黙って、私にコーヒーを淹れている。

「なにしに来たの?」

「えっ?」

「だから、なにしにここへ来たわけよ? なにか用事があるんでしょう」

「これ」私はプリントを出した。「添島センセが届けてって」

「あ、そう」瀬尾はこちらをちらりと見やった。「砂糖はいる? これ、ボタン一つでミルクの量とか調整できるのよ」

 静謐な空間だった。冷房が効いていて、フローリングがひんやりしていた。雨の音は完全に遮断されているのか、エアコンとコーヒーメーカーと、床を擦る足音以外のなにも音がしない。

「なにこれ?」

 瀬尾は林間学校のプリントを覗き込んた。ぐっと彼女の体が近づき、首元にイヤホンの線が見えた。

「林間学校のプリント。瀬尾さん、聞いてないと思うけど、うちのがっこうは七月の夏休みが始まったばっかりのところで林間学校をやるのよ。そっちのほうにある(東のほうを差して)色岳のロッジに二泊三日」

「へえ」瀬尾は興味のなさそうに呟いた。そして次の時には、苦虫を噛み潰したようになり、乱暴にマグカップを私のほうに押し出した。私は受け取ったマグを、テーブルに置く気にもならず、飲むつもりにもなれない。おなかの前で両手につつむ。

「飲むといい」

 瀬尾はなぜだか私と同じぐらいか、もっと所在なさそうにしている。足元に落ち着きがない。

 瀬尾はコーヒーを一口飲んだ。

「山には行かない」

 私はやっぱり、と思った。瀬尾の問題をどうとらえるべきか、まだわからなかっていなかった。

 私も瀬尾も、すっかり肝を潰しているようで、なにを話せばいいのか全くわからないようだった。瀬尾はかえって欲しいのかどうかもわからず、私は、このマグがあるから帰れないんだと考えていた。

「音楽、なに聴いてるの?」

「これ? タンジェリン・ドリームっていうの。ドイツのバンド」

 全然知らないバンドだった。私は言葉に詰まった。

「ええー、うーん、あー……」私は唸って話題を探した。「コーヒー、飲んでも大丈夫なの? なんか、水は苦手だって、聞いたから……」

 瀬尾は平静だった。平静に、いま私から聞いた言葉を検分していた。瀬尾は添島が瀬尾の事情について話したことを知らなかったから、すこし飲み込むのに時間がかかったらしい。でも結局、飲み込んで、うっすら微笑みさえした。

「苦手だよ。話をするだけでウッ、て、なるね。でもコーヒーとか牛乳とか、色の濃いのは大丈夫。というか、大丈夫になったんだけど。最初は果実で水分補給をするはずだったんだけど、喉を伝うのが耐えられるようになるまで時間がかかってね。点滴でまかなって。結局、果実が食べられるようになるまで半年かかった。今ぐらいになったのはここ何か月かって感じ。だからね、誰かが思っているほど、重症ってわけじゃないわ」

 私は気まずくなって呻いた。

「ごめん。不用意に話すべきじゃなかった」

 瀬尾はマグを持ったまま肩をすくめ、コーヒーを飲んだ。

「生きていたら避けられないことだし」

「まあ、うん、それは、そうなんだろうけど。もう少し考えるべきだった」

「いいって。別に」

「これ、ありがとうね」

 私はほとんど口をつけていないコーヒーを、瀬尾に突っ返した。瀬尾は受け取ったマグを自分のといっしょに棚に置いて、見送るよ、と言った。私は素早く玄関に回り、靴を履いていた。リヴィングから出た瀬尾が壁に寄り掛かってこっちを見ていた。

 私はすぐ出て行こうとした。出て行こうとしたのだが、ドアノブに手をかけたところで、瀬尾が私に声をかけた。

「私は気にしてないっていうの、本当よ。でも気にしていないことを気にされるのは、気になるわ。私は貴女に怒ったわけじゃないし、そう言ったわ。私はそれでまだ気に病んでいるのなら、私には理解不能よ。別に私と仲良くしたくなくて、自己嫌悪なんて言葉を使って、私から逃げたいというのなら、もちろんそれでいいんだけど、そうなの?」

「ううん、そうじゃないけど……」

 けど、のあとにどう続くのか。

 頭の中は真っ白だった。

 気が付くとドアががしゃんと閉まる音がして。

 次いで、足音が家の奥へ消えて行った。

 どうすればよかっただろう?

 瀬尾はマグを片付けるときに、なみなみと残ったコーヒーを覗き込んで、うっかり自分と目があって、ギャッと叫んで卒倒してしまった。

 瀬尾は三半規管を直接揺らされたような頭痛とめまいを感じていた。ひどいめまいは、直接、回転と繋がっていた。吐きそうだったので体を動かしたかったがそれもかなわず、もしこの状態で吐いていたらレッド・ツェッペリンのドラマーよろしく死んでいたかもしれない。

「落ち着いて、無理に息をしようとしないで。細かく、ゆっくりと息をして。できればその回転に身を任せるの」

 瀬尾は昔のことを思い返していた。

 以前の、以前にいた場所で、瀬尾の一家はキャンプをしていた。川沿いのキャンプ場にキャンピングカーを停めて、父がいすや机を出し、母はその横からピーナッツバターサンドを切り分けていた。瀬尾は妹と一緒におかしとオレンジジュースを運んだ。瀬尾の家には一年に一度、キャンプをする習慣があった。それは瀬尾が四つの頃からの習わしだった。もう一三になる瀬尾は、この習わしに、心のどこかではうんざりしていたものの、妹が楽しそうにしていたので、自分もなるべく楽しんでいこうと決めていた。きっとあと二年もすればこの妹もこっち側に来るんだろう、なんて思いながら。

 新緑がいくえにもかさなり、日光を遮蔽していた。そこは広葉樹林で、低木の少ない、迷いづらい地形で、そういう油断もあってか、瀬尾の両親は子供たちが遠くまで歩きに出かけるのを特別とめはしなかった。

 瀬尾はキャンプにはうんざりしていたけれど、楽しみが全くないのでもない。昔から体を動かすのが好きだった彼女は、すぐ近くにある川で泳ぐのが好きだった。下流の方に行き過ぎると、別の家の子供が多いので、泳ぐのはもっぱら上流、山から降りてきた川の流れが、小さな滝によって膨らむころ合いのところで、深いところだと一五五cmあった瀬尾の足がつかなくなる部分もあった。瀬尾は小さなバスケットにサンドウィッチとペットボトル飲料をつめ、妹を連れ立って川に向かった。

 瀬尾は自室のベッドではたと目を覚ました。倒れた時と服装が変わっていた。机の上に書置きが貼ってあった。

“気を付けてよね。お姉ちゃん”

 最後のは嘘だ。

3/糖蜜で固めた煙草を、水パイプに設置して、中を色つきの水で満たして、火を点けた。瀬尾は汗をかき、知恵熱のようなものを感じていて、めまいもしていた。世界が回転しているような気分だった。それは、水がちゃぷんと音を立てるたび、胃が乱降下しているかのようだ。糖蜜が溶け、泡の中に白い煙が入り始めると、瀬尾はその中身を一気にスゥーッと吸った。途端にすべての苦しみが頭からはずれ、どこかに宙ぶらりんになった。煙を吸い、吐き出す。もくもくと天井へ上がっていく煙を見て、瀬尾は深海が細波と無縁であることを思い出す。でもそれも一瞬のことだ。泡がはじけ、水が揺れる――煙が肺と口から離れてしまうと、いやでもそれが脳髄をとらえ、離れなくなる。また回転の世界へ逆戻りだ。瀬尾は激流を再現したプールの中で、必死になって流れに逆らっていた。それは口から、肛門に向かって通り抜け、瀬尾の体の中を傷つけた。気が付くと彼女は床に伏して倒れ、口の中は吐しゃ物の味がした。

 はじめて水たばこを嗜んだとき、そのようなことを感じた。世辞にもいい感覚とは言えなかったが、これでしか得られない感覚があるのも事実だった。両親はたぶんこれのことを知っているが、見逃している。

 あれから瀬尾と金盥は仲良くなった。瀬尾は金盥という少女の性質をよく見抜いていた。金盥は、寂しく、自己評価が低く、素直になれず、悪い人間ではないが、かといって特別魅力的でもなく、自己中心的で、ようはあまりできた子ではないのだが、神経質なわりに変に図太く、その気さえあれば実は遠慮というものをあまりしなかった。

 初めて触れ合ったのは、三度目に会ったときだった。二人の関係は、瀬尾の立場などもあって、秘め事のようだったし、瀬尾の家以外では口もきかないでいるのは、なにか逢瀬でもしているような風情で、金盥は、もしかすると瀬尾も、二人で会うことに意味合いを見つけ出していたかもしれない。いや、少なくとも金盥のほうは、瀬尾に対して尋常ならざる思慕を持っていただろう。

 そんなようだったので、金盥は瀬尾の指に触れると、名残惜しく、いつまでも離したくないような気がした。彼女のしなやかで、繊細な指に自分の熱を与えたく、とはいえ実際は、マグの受け渡しのときに、ふと、触れただけなのであるにも拘わらず、それだけのことが金盥の心をときめかせるのだった。

 瀬尾とはただ時間を過ごすだけだった。金盥は話すのが得意ではないし、瀬尾もまた、諸々の事情から、あまり話をしない。ここ最近は学校に来ても、なにか用事でさえ誰とも話をしないし、休み時間になると、一人でどこかへ行ってしまう。金盥が家に訪れると、瀬尾はマグにミルクたっぷりのコーヒーをいれ、カウチに向かい合って座る。彼らは時折、本や絵画や学校や、出来事や歌や自分たちの話をするが、とりとめなく、語りたいことをすらすらと語るのみである。相互補助的な会話がされたことは、数えるほどしかなかった。それでも二人は満足していた。金盥は瀬尾と一緒にいることが、一種のステイタスのように感じられて、誇らしかった。瀬尾は金盥でも誰でも、相手というのが欲しかった。

 このずれが表面化しなかったのは、ひとえにも金盥の臆病さによるものだった。金盥は瀬尾と関わるようになって以降も、もとから仲良くしていた川津、川崎と付き合っていた。もしも瀬尾が少しでも積極的ならば、もしも金盥に異端児である瀬尾を相手に公然と付き合いができたならば、この関係は長くは続かなかっただろう。

 瀬尾はしげしげと、捕らえた手を眺めた。自分の手より心なし大きく、指の一本一本がぽてっとした可愛らしい姿だった。緊張のために奇妙な形に変えられ、触れたその瞬間に、片が外れるほど飛び上がったほかは、じっと新しい飼い主になれようとする犬のように、従順というよりは、怖がりのところ、震えながら、固まっていた。

「本を見ながらじゃなきゃできないんじゃ、占い師とは言えないわね」瀬尾は言った。瀬尾はパッと金盥の手を離した。金盥は宝物を守るようにさっきまで瀬尾に触れられていた手を胸に抱いた。

「占い師の才能はない?」

「ないんじゃない。別にいいけれど」

 本を読んだ、と金盥は言いたかった。『分別と多感』、『エマ』、『マンスフィールド・パーク』。あなたのものを私も共有した、と言いたかったけれど、なかなか言い出せないでいた。

 瀬尾はカーテンを眺めて、退屈そうに息を吐いていた。金盥は彼女が自分を捨てるのではないかと不安になっていた。

「ねえ。外、行こうか。外」

「雨が降ってるよ」

「うん。わかってる。だから外に行くフリをするの」

「行くフリって?」

「行くフリは行くフリよ。私はこの町をちゃんと探索したことがないから、案内して欲しいのよ」

「想像の中で?」

「想像の中で」

「私、そういうのあんまり得意じゃないんだけど」

「別にうまくなくたって。あなたがどこかへ行って、どう感じたかを話してくれるだけでいいわ」

 こんな風に頼まれると、金盥は非常にうれしかった。

 二人はもしかすると、急に仲良くなりすぎたのかもしれなかった。もしかすると、この二人だったからいけなかったのかもしれなかった。

 金盥は少しずつ、思い出していった。正直言って、この城南という町は、語るに値しない、観光資源も何もないところだったけれど、思い返してみれば、印象に残るところもないではなかった。

「山の斜面みたいなとこに、神社があるんだよ。丙神社っていう。柱が腐ってるの。すごく危ないし、役所から注意も入ってたんだけど、そのままになってて、私が幼稚園ぐらいの時はぜんぜん大丈夫だったんだけど、年々、腐ってる箇所が増えてってね、ちょうど、中二のときかな。閉鎖されて。そのあとは心霊スポットになってた」

「あ、それ聞いたことある。無縁仏の霊に乗っ取られるってやつよね」

「そう」

 金盥は思い出した順番に語る。スーパーマーケット、農道、駄菓子屋、繁華街のカラオケ店、微妙なデートスポットに友達と集まってキャアキャア言ったこと。

 でも金盥がとくに思い出深くしていたのは、海開きのことだった。

 城南は漁師町だ。はっきりとしたビーチはない。小さい砂浜はあるが、目と鼻の先に漁船の停泊所があるので、遊泳ができない。小学3年生の時だった。白浜のいとこの家に遊びに行く予定だったのが、向こうの子が高熱を出したので、いけなくなった。うちは車の運転ができるのが父しかいない。普段から仕事の忙しい父は、日程をそこしか空けておらず、その機会を逃すと、もう夏休み中に海に行けるチャンスはなかった。

 駄々をこねる私に困った父親は、内緒だぞ、ほんとはいけないんだからな、と言って、停泊所から少し離れた、たった4、5mの海辺で私を泳がせてくれた。

 結局、見つかって怒られてしまったし、次の年はちゃんと白浜に連れて行ってもらったので、二度とそこで泳ぐことはなかったが、今でも近くを通ると、堤防の向こうに、灰色の岩に囲まれてぽつんと空いた、あの砂浜を思い出した。

 金盥は口に出そうとして、はたと口を手で抑えた。海だ。私は今、海の話をしそうだった。

 瀬尾を見ると、不思議そうに首を傾げている。

「どうしたの?」

「ううん、なんでもない」

「どうしたの、って」

 瀬尾は今度は、楽しそうな顔になっていた。

 少し前から、瀬尾は金盥に意地悪になった。金盥の真面目な質問に、わざとふざけて返したり、アイスをあげる、と言って頬に押し付けて驚かせたり、子供のような悪戯をしてくすくすと笑うのが最近の瀬尾の流行りだった。さっきのスキンシップにしたってそうだ。金盥の反応が面白いので、瀬尾はしょっちゅう金盥の体に触れる。

 特に楽しんでいたのが、幽霊の話だ。

「私には幽霊が見えるのよ。

 金盥はある日、やり返してやろうと悪戯を思いついた。金盥は今日は自分がコーヒーを淹れると言ってコーヒーメーカーを借りて、密かにくすねたマグに水を注いだ。

「ミルクは後からでも入れられるよ」

 それは金盥からすれば、他愛もないことだった。他愛もない悪戯。ホラー映画の嫌いな友人に、ホラー映画を見せるようなもの。まさか水を見せることに、重要な意味が含まれているだなんて思いもしなかった。金盥の恐怖に対する理解は、娯楽作品から来ていたので、本質的に正しくなかった。

 金盥は「はい」と言って瀬尾にマグを渡した。瀬尾は、不味いものが来なければどんな味でも「別に私が淹れたのと変わらないな」と言ってやろう、と、身構えていたが、マグの中を覗き込むと、ギャッと叫んで卒倒した。

「なんてこと……」

 瀬尾は目を回して、その場に倒れたまま、頭痛と吐き気を感じていた。ソファに横たわっていたので、死んだりはしないが、おなかが圧迫されて、余計に吐きそうだった。水に包まれる感覚。

 液体は永遠である。

 液体に触れることはできないが、液体は間違いなくそこにある。

 人は液体の中で生きることはできない。

 水はコズミック・ホラーなのだ、と瀬尾は思う。人が水に惹かれるのは、そこに宇宙が隠れているからだ。自分の矮小さを受け入れられる気がするからだ。

 川の流れる音が聞こえる。私は興奮している。これは死に瀕するスリルである。

4/私は妹を連れ立って森の奥にある、大きめの滝壺に向かった。大きめと言っても、大きいビニルプールぐらいである。川幅が大きくなり始める辺りで、いくつかの支流が合流して、岸壁を勢いよく流れ落ちていく。具合のいい石があれば滝行なんかにもつかえそうだけど、あるのは深い水だけだった。

 私はここを、穴場だと思っていた。とてもいいところなのに、誰もいない。自分たちの見つけたスポットだと決めていて、妹と遊ぶことに誇らしさも感じていた。

 当時の私は気づいていなかったが、あの滝壺は、かなり深いので、遊泳できないことになっていた。周りに監視がいるわけでもないので、気づきづらくはあるのだが、私たちが来たところとは反対側のほうに進むと、立ち入り禁止の札が黒黄の紐にぶら下がっていた。

 妹はまだ小さいので、滝壺に飛び込む遊びは危ない。

 私が気持ちよさそうに飛び込むのを、浮き輪につかまって泳ぎながら眺めている。

「志摩、学校で水泳を習っているでしょう? どんな泳ぎ事が得意?」

 バスケットの卵サンドを濡れた手でつまみ、口元についた川の水を飲料に食べた。

 志摩はきちんとタオルで手を拭いていた。

「犬かき」

「それ泳げてないじゃない」と私は言った。「泳ぐと言ったら、バタフライとか、平泳ぎとかそういうのよ」

 妹はちょっと不機嫌になったようだった。

「だって平泳ぎってなんだかバカみたいじゃん。カエルみたいだし。バタフライとか蝶って言ってるけどよくて手羽先だからね」

「犬かきよりはマシだと思うけど……」

「るさいなあもう……どうせ泳げないよ。わたし」

「開き直るもんでも無かろうに…なんで泳げないの? 泳げないってどんな感じ? 水が怖いわけじゃないよね。浮き輪使えば泳げるんだから」

「わかんない。でもなんていうか、水の中にいると、どこまでも沈んでしまうような気がして、すごく不安になるの。

 泳ぐのは好きだよ。身を任せるのは、心地よい感じがするよ。でも、浮き輪がないと……ううん、あっても、ふと、このままするりと落ちていったら、どこまでも沈んで、二度とあがってこれない気になるの」

「ふうん」私は言った。心配するふりをして、目を伏せた。「つまり、意気地がないってことね」

「ふざけないでよ」志摩が私をにらんだけど、喜ばせるだけだ。「わたしは本当にそう思ってるんだから。知ってる? お姉ちゃん。怖いものって、思い込みで解決できないのよ。怖いものはそう感じるように、怖いものなのよ。私がどうかなんて関係ないわ。怖いものは怖いものという“もの”で――この世界以外のどこかで、同じ形として繋がっているわ。ただどういう形で出てくるか――そこに差があるのよ」

「でも私たちがフィルタだというなら、志摩が受け取った怖いものがどんな姿で現れるかは、志摩の資質によるのではないの? それに怖いものが多く出てくる人はいるし、そういう人は大抵の場合、意気地がないわ。あなたみたいにね」

「もう、お姉ちゃん、キライ……。なんでもふざけて返すんだもん」

「悔しかったらついてきなさいよ」

 笑って私は滝壺に飛び込んだ。一瞬の浮遊感と、水に包まれる感触。この二つが私は好きだった。

 滝壺の底近くまで泳いで、水面を見上げる。太陽から降り注ぐ光が、水中に散り、きらきらとかがやくものが周りでたわんでいた。

 志摩は私を見下ろしていた。姿が崩れ、どんな表情をしているかはわからなかったが、きっと睨んでいるに違いない。私はじっと妹の姿を見ていた。妹が後ろから現れた男に連れ去られるまで見ていた。

 なんだかわからなかった。妹の後ろに黒い影があらわれ、ひどく胸騒ぎがしたのは覚えている。

 すぐ浮上して、崖を見上げたが、妹はもう見下ろしていなかった。

「志摩?」不安になって名前を呼んだ。「志摩?」

 崖の上まで登ってみたが、シートとバスケットと、自分の着替えがあるだけだった。私はTシャツを被り、サンダルを履いて森の中へ目を凝らす。薄水色の、ワンピース、志摩の上着が地面に落ちている。

 服をひろう、すぐそこの木陰に志摩の足と、つば付きの帽子をかぶった男を見つける。

 私は驚いて、恐怖、すぐそこ、怒り、そして無意識の拒否感が、打ち勝ち、私は男の横腹に目掛けて突進していた。男が転がり、妹の全身が現れる。妹はうつろな目で、私を見ていた。

「志摩。志摩? ねえ、なにか言って」

 口が力なく開き、息が漏れる――このとき私は、志摩の口から、白いものが立ち上るのを見ていた。「志摩?」おなかにナイフが刺さっている。あるはずのないものが体にある違和感を、私は共感覚的に感じ、ひどく不快に思った。

 起き上がった男が無言で私の頭を蹴飛ばした。十三歳と、大人の男とでは体格がまるで違う。枯れ葉のように体が舞い、地面に転がった私に男はなんども蹴りをいれる。

 私はえずきながら、悲しんでいて、そして、生きるために必死で、なにをしているのかもわからない。ただ起こったこと、起きたことだけを書いておくと、私は蹴られながらもそこら辺に転がっていた大きめの石を拾って、私の脇腹を目掛けて飛来する足の脛にそれをぶつけた。悲鳴が飛ぶ。私は、一目散に逃げる。

「ああ、間違えた!」

 滝壺の前で立ちすくむ私。

 そして、奇声をあげた男が後ろから迫り、振り返った私の頭を、石で強打する。

 そのとき私は、はじめて理解したのだ……恐怖の扉をあけ、深遠へ続くコリドーが私たち以外の世界にあると悟ったとき、私は水中に、そこがないことに気づいたのである。水は永遠。水は宇宙。水は孤独。孤独はとても怖い。

 水面が迫る。

5/『だから瀬尾忍がリヴィングのカウチで一人目覚めたとき、彼女の中に怒りはなかった』

 瀬尾忍が目覚めたとき、彼女の中には、怒りや、憎しみ、何者かに対する負の感情は、存在していなかった。ただ、得も言えない失望と、仕方なさ、諦めのようなものが宇宙をうろつき、彼女はそれに支配されていた。

 吐しゃ物がカウチから床に垂れていたので、瀬尾はいつもそうするように台所の流し台の下からキッチンペーパーをとって、吐しゃ物を拭った。黄色く濁った半液状の物質。“ああ、吐き気がするわ。頭痛も。”瀬尾はキッチンペーパーを丸めて捨て、自分の手についた吐しゃ物を拭きとって、またゴミ箱に投げ入れた。パックの牛乳を、吐しゃ物も気にせずのんで、口元を拭いた。

「悪意があるのとないのではまるで違うし、べつに怒ってないよ」

 げっぷのあとで、そんな言葉が突き出た。

「でも失望してるんでしょう?」

「その権利はないわ」

 それは失望していると言っているようなものでは? と、志摩の反論を待つまでもなく、瀬尾は自分でそう思った。

「でもじっさい、そんなの思っていないのよ。金盥の行動が、客観的に失望できるものだからと言って、自分が失望していると勘違いしてしまっているのよ」

「そこは“かも”と言うのが正しいと思うんだ」

「そう“かも”ね」瀬尾は水たばこが欲しくなった。「おいおい考えるわ」

 瀬尾がいう、客観的な意見を知見しているからこそ、自分がどのような見解を持っているか正しく見当づけられない、というのは、金盥にも起こっていることだった。

「ああもう、さいあく、さいあく、さいあく……私は自分がなにやったかわかってるのかよ?」

 もともと、臆病な少女である。仲のいい友達と一緒にいるときの、どこまでも貫くテンションがなくなれば、いきなり成層圏に投げ出されたように、彼女の背筋は凍り付き、今や脳髄にまで凍結が到達していた。

 金盥の脳は、恐怖を感じた状態のまま、愚鈍さによって凍結されていた。金盥は逃げるように自室に引きこもった。

 瀬尾は学校に通った。以前と変わらず。一人で。教室の端っこで。『ジェイン・エア』や『ダロウェイ婦人』『緋文字』を読んで。

 読書はカウンセラーのすすめで始めたものだった。カウンセラーにはじめ渡されたのは、なんの本だったろう? そうだ。『インドへの道』だわ。川や海の描写をマジックペンで消していたので、裏側の文章も読めなくなってしまっていた。

 金盥が来ていないことには気づいていたが、誰かに質問をしようとは思わなかった。そこに、瀬尾は違和感を憶え、疑問を呈したが、重視はされない。

「“長く冗長でさして意味もなく役には立たず数ある主張の一つを授業時間を名目に都合のいいところだけ抜き取った眠気を誘う低音でなされるジョセフ・コンラッドの説明”」

「“発音もへったくれもなく小説を読むというよりは文字を一字ずつ発音しているという風情の聞くに堪えない倦怠に満ちた朗読”」

 瀬尾はぼーっと頬杖をついて、虚空を見つめていた。川が出てくる下りになると、そっと耳をふさいだ。

 ふとした良心が鎌首をもたげて瀬尾に覆いかぶさったのは、フィリップ・マーロウの台詞が原因だった。

“やさしくなければいきていてはいけない”とフィリップ・マーロウは言った。

 ふとした行動意欲が、瀬尾の表に現れたのは高野の嫌味が原因だった。

「実験って一人じゃできないんだよ。アルコールランプが見られないのはわかったから、せめて網ぐらいちゃんと管理しててよ」と高野は言った。科学の時間だった。

 そして、確実に、消極を理由にやらないでいる必要がなくなったのは、添島が気をまわしたのが原因だった。

 瀬尾は添島に頼まれて、金盥の家にプリントを届けに行った。金盥の両親への挨拶もほどほどに、金盥の部屋があるという二回に昇った。

「金盥。私よ。瀬尾。そこにいるんでしょう」

 軽く声をかける。

「なにしに来たの?」

 と、声がする。

 次いで、「階段、昇れたの」と言う。

 瀬尾は「なに言ってんの。学校でなんかいも昇ってるでしょ。今は別に高いとこが全部だめというわけではないわ」

「知らなかった」と金盥の声が言った。

「話しに来たのよ」

「……話したいことなんて、ないよ」

「私は話したいわ。無駄足を踏ます気?」

「家ちかいじゃん」

「話しましょうよ」

 瀬尾は続けた。

「ね?」

「同情してるの?」

「ええ。してるわ。でも、安くないわよ。高価な同情よ」

「高所恐怖症の癖に」

 金盥にしてみれば、精一杯の嫌味だったろう。

「引きこもりよりマシよ」

 金盥が出てくる気配がないので、瀬尾はため息をして、ドアに手を添えた。

「気に病むな、と言いに来たのよ」

「でも……」

「でももクソも」瀬尾が言った。「はじめに言ったじゃない。あなたは私に迷惑をかけたいの? 私の高所恐怖症が原因で、引きこもってるって、そう思わせたいの? 申し訳ないと思ってるなら、手間をかけさせないでよ。それとも、あなたは私に怒っているの?」

「そんなことはないけど」

「いいのよ。怒っているんでしょう。私だって怒るわ。水を……水を見るだけであんなになるなんて、詐欺みたいなもん、でしょ?」

「そんなこと思ってないのに……」

「じゃ、出てきてよ」

 金盥は素直に出てきた。髪はぼさついていたが、さほどやつれてはいなさそうだった。瀬尾は安どしつつ、不遜に笑って、金盥の頬に触れ、ふけだらけの髪を梳いた。

 茶番をこなした気分だった。

 外はいつの間にか雨が降ってきていた。瀬尾は両親に電話して、迎えに来てもらえるよう手配した。

 二人は会わなかった間に起きたことを話し合った。金盥は引きこもっている間に、小学生の頃にやったゲームを二周した。瀬尾は、一人でいる間、ほとんど生活を変えなかったけれど、金盥と会っていただろう時間を合計して、一つの長編と、三つの短編を読んでいた。

 瀬尾はその夜、はっ、と、脳裏に思うものが在って、ひとり暗い部屋で妹を振り返った。

「あんた、消えるんだ」

 なぜだかそれがわかった。なぜだか時々あらわれる、死んだ妹、もしくは、その残滓、もしくは、ただの妄想、その存在が、自分から離れようとしている。

 志摩は特に否定はしなかった。

「お姉ちゃんがそう思うなら、たぶんそうだと思う。そうなのかな? ねえ、私が消えるっていうのは、死ぬことなのかな。死ぬことなんだと思う? 人間は忘れられたときに、二度目の死を迎えるって、今さら言わなくてもいいような当たり前のこと、だけど。仮に死ぬんだとして、お姉ちゃんはなにを忘れるのかな」

「仮に、から仮に、に繋げたって、もっともらしい形にもなりやしない。くだんない。でも私は、あんたにはコーランにのってた天国に行って欲しいと思ってるのよ」

「なんだ」志摩は笑った。「やっぱり死ぬんじゃない。私。でも行くのは物質的快楽の都、エル・ドラドなのかしらん?」

「さあ」と瀬尾は言った。「でも死は不幸じゃないんだわ」

(どこからどこまでが現実かだとか、どこからどこまでが私なのかとか、志摩が果たして幽霊だったのか私の妄想だったのかとか、まったくもって、私の判断のそとにあるのだけど、現実問題として、私の妹はどこかへ行ってしまったし)

 あの子はなんのために出てきたんだろうか。瀬尾は少し考えてみようと思ったけれど、長いことそういうことをしてこなかったせいか、二の足を踏んで、三の足を踏んで、急に地面を失ったように、あまりに遠いところまで行ってしまった友人を見るように、その場で足踏みをすることしかできない。なんだかいらいらして水たばこに手を伸ばした。糖蜜に火を点けて、泡がぶくぶく言う音を聞く。

 ああ、そうだ。もしかしてあの子は私を支えていてくれていたのかもしれないわ。ふと、立ち上る煙をかいで瀬尾はそう思った。

「ハア、落ち着く」

 あんまり良いことじゃないっていうのはわかってるんだけど。そのうちに水が背後から迫ってくるのはわかっているんだけど。この煙には得難いものがある。

(妹が私を支えてくれていたんだとして、それがいなくなったということは、もう大丈夫と

いうことなのかしらん)

(大丈夫っていうのは、なんのことかしら。水が大丈夫になってるということなのかしら。試していないから、わからないけれど。)(…………ううん、やっぱりまだダメだわ)(じゃあどういうことなんだろう? 私が気づいていないだけで、この忌々しいものがいなくなる要素が揃っている、とか? そうかな、そうなのかも。私は自分では気づいていないけど、高所恐怖症を治していて、恐怖していたという記憶によって恐怖しているのかも)(そうだったらいいわ)(すごくいい)

(水たばこの煙を吸う)

(……でも、恐怖症って本来そういうものよね)

「アチッ」

 いつの間にか指が水パイプの火に触れていたのか、蛇に噛まれたような痛みが走り、水パイプを手から離してしまった。

 瀬尾はやけどを見つめ、傷ができた指を口で咥えた。

 血と、肌の一部と、よだれを飲み込みながら、瀬尾は“どうせすぐまたでてくるわ”と、考えていた。

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水たばこを吸って 柏木祥子 @shoko_kashiwagi_penname

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