遺書

印鑑太郎

遺書

 太陽が沈むと部屋にはスマートフォンの明かりがあるのみとなった。電気を付けなくなって半年ほど経つだろうか、日没の早さを、身を以て感じる冬のある日の話だ。

 「ある日の話」と、今日を物語の起点のように書いたが、実を言うと今日も私の「何もない日常」の一部であって、今日について書く事も、書けることもない。昼前に起きて、本を読み、そして日暮れと共に床に就くだけの生活に物語は生じえない。物語は常に私の外で、目まぐるしく、生まれ、閉ざされているのだ。そこに私が介入する隙間などなく、初めから私が参加する予定の物語など存在しない。逆に言えば、私は傍観者たることを許された身であったが、そうすることもなかった。ただ「終わった物語」を何度も頭に流し込み、来るべき日に備える、飼い主のいない家畜といったところだろう。そんな私に物語が現れるというのは、まさに「来るべき日」がすぐそこに息を潜めているからである。



                  ※



 「うんうん、良い感じです。続けてください。」

 半年ぶりに人工の光に照らされた私の部屋で、楽しそうに私を急かす声があった。

 「遺書って、書く人の全てが詰まってるじゃないですか。なんだか、読んでるとその人の全てが見えてくるみたいで、とても面白いですよね。」

 早く書いて死ねると良いですね。と悪魔的な囁きを繰り返す彼女は、自らを悪魔だと言った。白いワンピースから流れ出る細い手脚は氷のように透き通っており、艶を纏った長い黒髪から覗く顔はこれもまた白く、悪魔のような美しさであった。私の知る限り、誰よりもその身で「美しさ」の何たるやを表していた。薄汚れたアパートの階段を、裾を沈ませてしとしとと上る姿が容易に想像できてしまう。そして「なぜエレベーターも無いのか」と悪態付きながら私の部屋のチャイムを鳴らしたのだ。

 玄関には無意識のうちに向かっていた。私の在り処を知る友人など初めからいなかったし、訪ねてくる者に心当たりもなかった。鍵を開けなければ物語が始まらないことも分かっていた。しかし、私が鍵を開けたのは他でもなく、生命活動を維持するための、週に一度の買い出しの時間であったからだ。チャイムが鳴った事には気づかなかった。

 ドアを開けると、白いワンピースを着た女が笑顔で立っていた。

 「こんにちは、阿川さん。死ぬ準備は整っていますか?」

 私は咄嗟に彼女の両手に視線を向けた。しかし、そこには白くて細い指が合わせて十本あるのみであった。

 「あたしは死にたがっている人の邪魔をする悪魔です。残念でしたね、あたしが見ている間は死ねませんよ。さぁ、嫌がってください、悔しがってください。」

 そう言ってケラケラと笑う彼女を私はただ見ているだけだった。理解ができなかったのもあるが、単に彼女の姿に見とれていただけなのかもしれない。当然、死ぬ気が無かったというのもある。


 悪魔は私の許可も得ずに部屋へ入って行った。何も無いじゃない。と、部屋を見渡し、最後に私の顔を見て言った。

 「客人に出すコーヒーくらいはある。」それに本も。食糧は確かに無いに等しかったが、悪魔が来なければ買いに行っていた。生命を維持するには必要以上のものが私の部屋にはある。もちろん、私にとっての話だ。

 「コーヒーじゃ自殺できません。」

 どうしてか、悪魔は残念そうにその長い髪を揺らし、勝手にカーテンを開けた。飛び降りられるか確認したようだ。

 「こう言っちゃ悪いけど、出ていった方が君のためだと思うよ。私は自殺する気が無い。死ぬところを邪魔するために来たみたいだけど、それが君の生業にしろ、趣味にしろ、もっと効率の良いところに行くべきだ。…参考までに聞くけど、どうして私のところに来たんだ?」

 彼女の影はまだ窓の側にあった。冬の太陽が静かに差し込んでいる。

 「あなたが死にたがっているからですよ。最初にも言いました。」

嘘は良くないです。と、背を向けた影の言葉が、まるで耳元で囁かれたかのようにはっきりと聞こえた。本当は死にたいんじゃないですか?生きてる理由、あるんですか?

 「何度も言うけど、死ぬ気は無い。生きていて楽しい。生きていることが楽しいんだ。私は自分が大好きだからな。死ぬのが勿体ない。」

 コーヒー飲んだら出て行ってくれ。既に視線は影から手元へと移っている。悪魔は何か言ったようだが、耳を貸すだけ無駄である。万が一、心変わりでもしてしまったら大変だ。

 フィルターをセットしながら、ふと自分が幾分か矛盾した事を考えていたことに気づいた。「死にたい」なんて、口にしたことはおろか、考えたこともなかった。逆に、かつて「死にたくない」と、布団の中で虚無へ落ちてゆくような恐怖に飲まれることが何度もあったように、もしかしたら私は生に執着しているのかもしれない。と、自らの死生観を客観視したこともあったが、総じて私は死に興味がなかった。興味を持つ予定もなかった。「死にたい」って、どんな感覚なんだろう。と、人並みに持ちあわせた好奇心で「死にたい。と思えるようになる人の生涯」を想像したことはあったが、あまりにもつまらなかったし、願わくばそんな無駄な思考をしたくないと思った。

 コンロからお湯が沸いた小鍋を持ち上げ、もう一度彼女の言ったことを思い出した。『死にたがっている人を邪魔する悪魔』だと、彼女は確かに言った。人が苦しんでいるところを見て楽しみたがっているサイコパスだが、今の私からするとあの影の主は天使そのものではないか。


 「死にたい」とアピールすれば、徹底的に「生かして」やる。


どんな手を使うのかは知らないが、彼女を手放す理由はもうこの部屋には残っていない。


「…死にたい」

 

 彼女は一瞬驚いたような顔をしたように見えたが、私の宣言を聞くと———これから何度も見ることになる———満面の笑みで「覚悟してくださいね。」と、黒髪の間から薄桃色の頬を私に見せたのだ。

 確かに、この笑顔を向けられたら死ぬのを躊躇いたくなるかもな。


 

                  ※



 「…ほら、手が止まってますよ。『楽しかった事』、思い出しちゃったんですか?」

 悪魔が囁いている。遺書を書いていたら手が止まってしまったので、別のことを考えていたのだ。コーヒーはとっくに冷めている。ちょっとした出来心で『来るべき日』などと銘打って、貯め込んだ文才を珍しく発揮したのは良いが、死ぬ気もないのにあれこれ裾野を広げたのは失敗だった。人間はそんな簡単に嘘を吐けないのだ。

 「今日はもう寝る。続きは明日書く事にするよ。」

 万年筆のキャップを閉じて残ったコーヒーを呷った。カップの向こう側から笑顔の悪魔が覗いている。

 「早く書いて楽になった方が良いんじゃないですか。」

 私が死を先延ばしにする方が、都合が良いんじゃないのか?とは聞けないが、彼女の目的は、私が死なないことのはずだ。お互いにだが、言っていることが矛盾している。

 「いつ死ぬかくらい、決めさせてもらっても良いじゃないか。」

 壁に掛かったカレンダーを見る。なるほど、『来るべき日』が確かにあるじゃないか。こんなことが理由になるのかは分からないが、あるとしたら、非常に私らしい死ぬ理由が二日後に迫っている。

 そういえば

 「君、いくつなんだ?」

 つまらなさそうに本棚を眺めていた悪魔は、いくつに見えますか?といたずらっぽく聞いてきた。私はそれを背中で受け止め、マグカップを洗いながら考えるふりをした。正直、何歳でも良かったし、きっと———

 「じゃあ二十歳。」

 「じゃあ二十歳です。」

 ———やはり。

 名乗らない悪魔が年齢を答えてくれるはずがない。「どうせ死ぬから関係ない」と言えば終わりだが、私は「生きた物語」が苦手なのだ。終わっていない物語、変動しうる物語、私の知らない物語、知らなくて良いものは知る必要がない。彼女が何歳でも、私が死ねない事には変わりがない。

 「…阿川さんは何歳なんですか?」

 カップを洗い終わって部屋に戻ると悪魔がそう言った。

 どうせ知っているんだろう。ふと、そんな事を思ったが、答えないわけにはいかない。

 「明後日で二十歳になる。…そしたら同い年だな。」

 嫌味っぽく言ったつもりだが、それを聞いた彼女は目を丸くした。驚けるんだな、といらないことを考えた。

 「なら、明日までに死なないといけないじゃないですか!ぐずぐずしてる場合じゃないですよ!早く遺書書いてください!」

 早口でまくし立てる悪魔の頬はわずかに上気している。

 「死ぬべき日がある人は珍しいですよ。大体皆さん、死ぬ死ぬ言っていつまで経っても死なないですから。」

 何かを思い出したような顔は既にいつもの白さに戻っていた。

 「過去にもこうやって誰かの家に押しかけてたのか?」

 「ええ、それが仕事なので。」

 「いつからやってるんだ?」

 中空を睨む悪魔が悩んだ末に「いつからが良いですか?」などととぼけてきた。…まあ良い。

 「お前の目的は何なんだ。」

 「人が苦しんでいるところを見ることです。阿川さんも変な質問してる暇があったら希死感抱いてください。」

 やかましい。

 「…対象が死んだら次のターゲット?」

 「あたしの仕事は死ぬ人を邪魔することですよ?」

 ますます訳が分からなくなってきた。いや、一貫しているのか。彼女は、「死にたがる」人の元へ行き、決定的瞬間に至らせないよう監視する。言動がアレだが、やはり彼女は善行をしようとしているのだ。ただ、ちょっとした手違いで本来対象とならない人の元へ来てしまっただけで、私が「作り出した希死念慮」を克服したら、つまらないことを考える人の元へ行くのだろう。



                  ※



 翌朝、散歩を兼ねた朝食として近所の喫茶店に足を運んだ。昨日は結局食糧の確保に失敗したし、悪魔の食事まで作る気にはなれなかった。

 すべてが悪い夢だったならば。なんて、思うのは簡単だがこうして目の前でおいしそうにモーニングのトーストに噛り付く悪魔の姿を見ると、悪夢も悪くはないと思ってしまう。チェーンの喫茶店は開店からそれなりに混んでいる。混んでいるが故に、冬場にワンピース一枚でいる悪魔は良く目立つ。しかし、特に気にしていない様子で「阿川さん、今日は何をしますか?」と聞いてきた。

 「特に考えていない。」

 茹で卵の殻を剥きながら答えた。強いて言うなら帰って本を読むくらいか。

 「死ぬ前にやりたいこととか、無いんですか?」

 「人生に絶望した人はやりたいことがないから自殺するんじゃないのか。」

 卵を口に放り込む。不味くはない。

 「阿川さんは人生に絶望したから死にたいってわけじゃないですよね。」

 悪魔の視線がメニュー表のデニッシュケーキから私の目に移った。

 「自殺の理由は人それぞれです。幸せを手放したくないという思いや、ぼんやりとした不安感、あるいは「死ななきゃいけない」という一種の強迫観念から自殺を試みる人もいます。はたまた純粋な好奇心から。…今挙げた理由はほんの一部です。阿川さんはどうして死にたいんですか?」

 それと、これ食べたいです。と、あの笑顔でデニッシュケーキを指さした。

 「あまり他人の財布に縋ってると怪しまれるぞ。」

 「なら家に入れないでしょう?」

 勝ち誇った顔でこちらを見られても何も起きない。正論ではあるが、それとこれとは話が違う。

 「お前を飼うとは一言も言っていない。」

 「死ぬ前に恋人ごっこ、したくないですか?」

 「認知の歪みを正すべきだ。今後の業務に支障が出るぞ。」

 口には出さないが、腹が立っている。

 「色仕掛けなら効かんぞ。」

 恋人いなさそうですもんね。

 舐めるな。

 「…とにかくだな、お前の意図は知らんが、もしそれで私が『死にたくない』なんて言い出したらどうするんだ。」

 豆菓子を弄る手が止まった。

 「本望ですよー。そしたらあなたの前から消えてあげます。」

 阿川さんに生きる希望を持ってもらうことが仕事なので。

 訳が分からない。

 「知ってますか?『死にたい』と『死ぬしかない』は別物なんですよ。」

 どこか慈しみを感じる表情で悪魔が続ける。

 「子供の阿川さんには分からないかも知れませんね。」

 と、笑う彼女の顔はどこか幼さを感じるものであった。無言を返答に代えると、しばらくお互いに沈黙が続いた。

 私は死にたいと思ったことなど一度もない。ならばこの女はなぜここにいるのだ。それは私がどうやら彼女の言うところの『死にたい』と思っている人の一人と数えられているかららしい。確かに、私は嘘で彼女に向かって死にたいと口にしたが、彼女は来訪の時点で私と死を結び付けていた。私の意識とは別の部分で、そう認識されている可能性があるということか。いや、単純に彼女が壊れた脳みそを持っている可能性だって十分にあるはずだ。ただ、それを含めて彼女は「阿川さんには分からない」と言ったのだ。加えて彼女は昨日、こうとも言った『明日までに死なないといけない』

 そう、私が大人になるとは思っていないのだ。想像の下で大人になり、自分の人生を振り返って『死ぬしかない』と結論付けろ。と、悪魔は言ったのだ。

 この女は一体何者なんだ。考えるにはあまりにも遅すぎるような気がするが、そうでもしない限り、『つまらない思考』にたどり着いてしまう気がしたのだ。私は無意識のうちに紙とペンを鞄から取り出した。



                  ※



 『来るべき日』をこうして清々しい気分で迎えられたことに、私は何に感謝すべきだろう。

 決断の時はすぐそこまで来ている。自意識の汚染、あるいは、約束されし敗北。何とでも言えるが、私は明日の二十歳の誕生日を迎えることができない。理由を挙げるには時間と、これを読むあなたの理解が足りないので簡単に済ませようと思う。

 私は一冊の本、一人の作家に人生を狂わされた。と、ここではそうすることにする。この場で本と、作家について言及はしない。思考の遷移を説明するには必要かと思われるが、「死ぬしかない」ことを説明するには必要がないと判断した。

 話を戻そう。私はこの生涯で、何度か「物語」を生むことに挑戦してきた。成否はこの際どうだって良い。ただ私が自分の行いに満足できなかったという事実のみが伝われば良い。足るものを書けずにいると、気づいたら手も足も出せない状況になっていた。私はもう子供の話が書けなくなってしまう。大人になることが恐ろしいのではない。子供でいられなくなることが無性に悲しいのだ。子供という終わりの決められた物語から解き放たれるのが、恐ろしくて仕方がない。

私は明日で二十歳を迎えるはずだった。しかし、私はそれが受け入れられない、ただ、それだけだ。



                  ※



完成した遺書をぼんやりと眺めるのは私だけだった。悪魔はいつの間にか姿を消していた。いつ消えたのかは覚えていない。彼女でさえも、私の想像であったのかもしれない。

残された時間は僅かであった。これは精神的な問題であり、私というアイデンティティの結論である。今夜布団に入り、目が覚めたら十年巻き戻っているかもしれない。猶予はあったが、想像した明日は何にも代え難いほど、つまらないものだった。

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