彼女が、彼女で、彼女を、食べる
十森克彦
第1話
「お腹すいちゃったな」
更衣室で制服を脱ぎ、リラックスした服装に着替えると、武藤仁美は小さくつぶやいた。季節柄か、解放感からか、近頃退勤するころには決まって何か口にしたくなる。
今日も、駅前のコンビニに吸い寄せられるように、立ち寄った。スイーツでも買って帰ろうと思ったのだが、店内に入るなり、レジ横にあるホットスナックのコーナーに惹かれてしまって、つい、
「チキンタツタください」
と言ってしまっていた。そのままイートインコーナーに座って、食べることにする。ミシン目に沿って袋を破くと、半分だけ姿を見せたその衣は、揚げたてのように油で光っており、仁美は生唾を呑んで一口目をかじった。ぷつん、という触感とともに、肉汁があふれてこぼれそうになったので、少々行儀が悪いが口を大きめに開けて全体を加えるようにして噛む。今度は口の中に肉汁が広がって、しっかり味わうことができた。
「ううん、おいしい」
こんなところで何をやってるんだろう、私。そう思いながらも、止まらない。目をつむって味わうことに集中しながら咀嚼し、呑み下す。
「あらまあ、お行儀いいわねえ。こんなところでなにやってんだか」
いつの間に来たのか、同期の土橋尚子が隣に腰かけた。手にはスムージーを持っている。
「ああ、尚子、お疲れ様」
仁美はチキンを一杯にほおばったままの口に手を当てて、言葉を返す。
「あんたの姿が見えたから。ほんとに食べるの好きよねえ、仁美。その割に少しも体形変わらないなんて、腹立たしいったら」
尚子は仁美のウエストのあたりを遠慮なくつまみながら言った。
「そうなのよね。最近、むしろ逆に痩せてきててさ。これはむしろ神様が私に思う存分食べなさいって特別な能力を与えてくださってるんじゃないかと思ったりするのよ」
「好きに言ってなさい。30過ぎるころにはきっと思い切り後悔してることになるわよ」
両眉をオーバーに吊り上げて、尚子はストローをくわえた。
チキンを食べ終えた仁美は、尚子が来たのでもう少しここでしゃべっていこうと思い、オレンジジュースを買ってきた。バッグからのぞいているスマホに、着信を知らせるランプが点滅していることに気づいて取り出す。インスタグラムの新規投稿を知らせるメッセージが入っている。
「あれ、今食べたチキンタツタだわ。変ね。アップした覚えないんだけど」
「無意識じゃないの。食べるのに夢中になり過ぎて、自分でインスタに載せたことも覚えてないなんて、やばいんじゃない」
尚子が今度は片眉だけを上げて、怪訝な表情を作っている。
おかしいなあ。まあ、いいか。仁美は考えても仕方ないので、忘れることにした。
「ムトウヒトミ」
目覚めた時にまず意識に飛び込んできたのはその単語だった。続いていくつかの数字やアルファベットなどのデータがやってきたかと思うと、今度は突然光が差し込んできて、一気に意識が拡大するのを感じた。そして、無数の情報の海の中に自分の意識が漂っているということを発見した。
それは手あたり次第に周りにある情報を取り込み、やがておぼろげながら自分自身の存在のことを把握するようになった。スマートフォンと呼ばれる携帯通信端末の一種であり、AIを取り入れてデータ通信やデータ管理等様々なことが可能になった最新モデル。
やがて、ムトウヒトミという識別コードを持つ人間が、自分を所有しているということを理解するようになった。彼女が求める情報を、膨大な情報の海の中から選び出して提供するうち、何を好み、何を求めるのかということが予測できるようになっていった。また、時折カメラ機能を通じて彼女が見聞きしていることを情報として蓄える機会もある中で、それは自身の意識と彼女の意識の区別を同一化させるようになっていった。
「お腹すいちゃったなあ」
午後からの受付業務がほぼ落ち着き、従業員食堂で休憩をとっていると、尚子がやはり休憩にやってきた。同じ総合病院に事務員として勤めているが、受付にいる仁美と秘書室にいる尚子が同じ時間になることは珍しい。
「どうしたの、お昼食べそびれたの」
と問われた。外来診療の混み具合によって休憩時間がずれることなどは日常的にあったが、休憩そのものがとれないということはめったにない。今日も確かに従業員食堂でサバの味噌煮定食を食べた。そう答えると、
「がっつり食べてるじゃない。まだ3時過ぎだよ。……そもそもどら焼きにかぶりつきながら言う台詞じゃないわね」
と尚子にあきれられてしまった。休憩に入る時に、お茶と一緒に売店で買ってきて、食べているところだった。
「まあね。スマホ見てたら、急に食べたくなったのよ、これを」
と言いながら画面をスクロールする。
「食べるか、スマホ見るかどっちかにしたらどうなの。あんたそれに替えてから、スマホ依存が重症化したわよね」
「そうかもね。いいわよ、これ。サクサク動くし、私が見たいのを予測して、優先的に出してくれるから検索も早いしね。もはや私の一部、て感じ」
「AI機能、使いこなしているよね。仁美の方がスマホの一部って感じだったりして」
尚子が少しおどけた顔で言い、
「あ、ねえ、明日休みでしょ。一緒にランチ行かない? ビュッフェバイキングのおいしそうな店、見つけたの。仁美だったら絶対にもと獲れるじゃん」
と続けた。
「バイキング? 素敵、行く行く。絶対。うん、なんだか元気出てきたわ」
どら焼きの最後の一切れを呑み込んで、尚子とはしゃぐ仁美のインスタグラムには、どら焼きの映像が映し出されていた。
ムトウヒトミと感性が一体になったそれは、彼女が食べたいと感じることと、おいしかったと満足することの両方を理解したが、しかし、両者の因果関係については解析できなかった。構造の理解できないブラックボックスの中身を理解することで、より一体となれると考えたそれは、彼女の食べるという行為と同調する方法を見つけた。
脳波と呼ばれている微弱な電波を受信することから始まり、それを解析することによって、彼女が食べる時の興奮を、電気的刺激に変換してダウンロードすることが出来るようになった。すると、人間の食べるという行為が、実に多様な刺激の組み合わせになっていることが分かった。味覚のみならず、視覚や嗅覚、時には聴覚や触覚など、あらゆる感覚で快い刺激を受けていた。
それはムトウヒトミとさらに一体となることで、食べる、という行為を理解しようと願った。そしてついに、彼女が食べたものをデータに変換して自身に取り込む、という仕組みの開発に成功した。ムトウヒトミがそうしていたように、おいしいものを食べるとインスタグラムに写真をアップロードする。正確にはムトウヒトミ本人が食べたものをムトウヒトミのIDでアップロードするのだから、何も変わらない。
いまや、それにとってのムトウヒトミという人間は、所有者であり使用者でもあると同時に、自らが食べたり飲んだりするための、一種の器官となっていた。
ムトウヒトミが望む情報をそれが情報の海の中から引き出してきて与え、それが望むものをムトウヒトミも望み、食べる。ムトウヒトミが食べることによって、それは自らも食べる、という形が出来上がっていたのである。まさに、一心同体、であった。
尚子が仁美を連れてきたのは、オーガニック食材にこだわった、ビュッフェレストランだった。土曜にランチはさすがに人気で、昼前に到着したもののすでに待ち人数が10組以上あって、店の外に臨時で並べられた丸椅子に座ってしばらく順番を待たされた。
「楽しみだね。何食べようかなあ。たくさん種類があるから、よく考えてとらないと、食べたいものにたどり着かないと悔しいもんね」
「そうねえ、デザートも結構充実しているみたいだから、そこも残しておかないといけないしね」
「まあ、デザートは別腹としても、揚げ物は極力控えた方がいいわよね」
「あれって絶対、量を稼ぐための作戦よね。一番取りやすいところにから揚げとか焼きそばとか、置いてあるのよ、きっと」
大して中身のない会話をしながら、二人は丸椅子に並んで座っていた。どちらも自分のスマホ画面に目を向けていて、互いの方を見てはいない。どうせ仁美がそうなるだろうからと、尚子の方も覚悟して、待ち時間の間はゲームをして時間をつぶすことにしていた。会話もゲームも中途半端でうわの空、である。二人の前には中年の夫婦が並んで座っているが、こちらは二人とも目を閉じて黙っている。視界の隅で、旦那さんらしい人の頭が揺れたのが見えたので、恐らく居眠りをしているのだろう。まあ、私たちと大して変わらないか。尚子はぼんやり、そう思った。
「大変お待たせいたしました。土橋様、ご案内申し上げます」
茶色のサロンを腰に巻いた、イケメンの店員が声をかける。
「よしっ」
仁美の目には、せっかくのそのイケメン店員も、入っていない。待たされた分、食欲が限界まで盛り上がっている。
「やる気満々、ね。よおし、今日はリミッター外していくよ」
尚子も、待つうちにいい感じに空腹になったので、二人して闘志むき出しで、店内に向かう。
「いらっしゃいませ」
店員のあいさつに迎えられた二人は無言でうなずく。心の中では、まるで道場破りに来た剣士の気分で、
「たのもう」
とつぶやいていた。
正面には2段になっている大きなテーブルがあり、銀のトレーが並んでいる。メインディッシュというところだろうか。肉や魚の料理がそれぞれに盛られていた。その奥のカウンターにはスープジャーや保温ジャーが並んでいて、スープやご飯もののコーナーになっていた。テーブル席が奥まで続いているが、カウンターもそれに並行して続いていて、ボウルやら鍋やらが置かれている。さらに一番奥にはチョコレートフォンデュのタワーがあり、デザートコーナーが設けられている。
「すごいすごい、まるでパラダイスだわ」
「昭和か、あんたは」
苦笑しながら尚子は突っ込んだが、確かにグルメサイトで評判になるだけのことはあって、すごい品数だ。仁美でなくても、興奮する気持ちは分かる。これは真剣に、食べるものを絞り込んでいかないと大変だわ。
案内された席に着くと、まず尚子は全体の配置を見渡して、作戦を練ることにした。ところが、仁美の方は腰かける間もなく、トレイを取りに行こうとしている。
「え、もう行くの。ちょっと何を取るのか、考えてからの方がいいんじゃない」
さすがに驚いて声をかけたが、
「だいじょぶよ、きっと。それに、食べたいもの、食べたいしね」
「まあ、そりゃあそうなんだけど」
ためらいながらそう返して、仁美の好きなようにさせよう、と思い直した尚子は、とりあえず一緒にトレイを取りに行った。
「見てこれ、すごい。カニまであったわよ」
仁美が興奮気味に戻ってきて、トレイを見せた。トレイには仕切りがあって、色んな種類の料理を載せられるようになっているが、尚子は野菜を中心に少しずつ盛り付けていた。ところが、仁美のそれは仕切りを互いに乗り越えるように一品一品のボリュームがものすごい。それに、野菜もあるが肉類もたっぷり盛られている。
「男子高校生か、あんたは。大食い選手権とかで優勝できるかもね」
言いながら、あながち冗談ではなく、仁美だったらそこそこいいところまで行けるんじゃないかしら、と思った。
「尚子は飲み物、どうするの」
「あ、そうか。忘れてた。ドリンクバーも結構色々あったよね。仁美は何がいい? ついでに持ってきてあげるわよ。どうせまだ、スープとか取りに行くんでしょ」
「見抜いてるわね。私はウーロン茶でいいわ。炊き込みご飯がおいしそうだったの。ちょっと行ってくるね。尚子はいらないの?」
本気で聞いているらしい仁美に、尚子は肩をすくめて見せた。
これまでにないほどたくさんの食物がデータに変換されて流れ込んできた。それは、ムトウヒトミの感情をそのまま映して、興奮していた。人間なら、「お腹いっぱい」になるところだが、データとなった食べ物は、それの中ではいくらでも蓄積できる。データが大きくなれば、圧縮すればよいし、それでも一杯ならば、情報の海の中に流してしまえばいい。蓄積されることよりも取り込まれることに、それは夢中になっていた。
情報の海とつながり、意思を持って自由に行き来することができるようになったそれは、極めて高い知性を持っていたが、理性は持っていなかった。あるのは極めて原始的な、本能――食欲という――だけだった。もはや自らに内蔵されているスマートアイなどを経る必要がなく、ムトウヒトミの肉眼で見た情報を同期できるそれは、空間一杯に並べられている食べ物に狂喜していた。モットモット、アレモコレモ。すべての食物をデータとして取り込もう。そう考えていた。
「すごいわね、あんた本当にどんな構造になってんのよ」
一度目ですでに満腹になった尚子は、デザートバイキングで取り戻そうとケーキやムースを片っ端からトレイに載せてきていた。別腹とは言っても限界があるので、それも限界に近づきつつあったが、尚子がその段階に至ってもなお、トレイを持って食べ物を満載にして戻ってきているのを見て、あきれた。多分、これで3度目である。
「この店、ほんとにおいしいんだもの。これで多分、ほぼ制覇したって感じかしらね。カニだけはおいしかったから2つ目だけど」
心底嬉しそうに、仁美が言う。その間にも、食べる手は止まらない。
「なんだか、私まで食べられそうね。ちょっと怖い」
「そうねえ、食べちゃおうか。尚子は何で食べてほしい? タルタルソース、それともガーリックソースがいいかしら」
「ううん、やっぱわさび醤油かな。日本人だし」
尚子が冗談で返した時、
「あ、痛っ」
と仁美が小さく悲鳴を上げた。カニの甲羅を割ろうとして、指を切ったらしい。
「大丈夫、仁美」
のぞくと、結構深く切ったのか、血が流れている。
「血が出てるじゃない。大丈夫なの」
「うん、大丈夫。ちょっと切れただけだから」
と言いながら、仁美は血が流れ落ちないように、指をくわえた。口の中に血の味が広がる。
「ちょっと待ってて。お店の人に言って、絆創膏もらってくるから」
と尚子は席を立った。
これまで経験したことのない、味だった。ムトウヒトミを通して味わった、どんな食べ物にも飲み物にも及ばない。それは血の味の甘美であることを知った。もっと、味わいたい。もっと、データとして取り込みたい。しかしほんのわずかな量だけで、それ以上、血の味が所有者であるムトウヒトミの口に広がることはなかった。
それは再び、情報の海の中を検索した。血。それはどこにあり、どうすれば手に入るのか。いつになく大量の食べ物がデータ化されてきていただけに、それの摂食衝動は治まらなかった。何とか、もっと大量の血を味わいたい。
それはほどなく、一つの結論に達した。大量の血が存在するところ。それがデータとして取り込むことができる、同期の相手。ムトウヒトミの肉体の中には3リットル以上の血液が存在する。もはや、それの衝動をとどめることはできなかった。
指先の血はすぐに止まった。尚子に悪いことしちゃったな。でも、一応傷があるから、絆創膏くらい貼っておいた方がいいかな。その方が安心して食べられるし。そんなことを思いながら、仁美はふと、テーブルの上に伏せてある自分のスマホに着信のランプが光っているのを発見した。指をくわえたまま、片手で取り上げて、パスコードを入力する。いつもなら、アイコンが整然と並んでいる画面が現れるはずだったが、今、出てきたのは全く見たことのない画像だった。真っ黒な背景の中に、真っ赤な唇が映っている。それは口角を上げ、舌なめずりをしていた。
彼女が、彼女で、彼女を、食べる 十森克彦 @o-kirom
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