第8話 聞きたいこと
*
ぽんぽん、と頭に乗った手の感触に、我に返る。
見ると腕を伸ばした素子が彰を見下ろして笑っていた。
「まあ、若い頃の人間関係なんていくらでも変わるからな」
視線だけで隆二を示して素子が言う。そういえば、隆二との仲を聞かれて言葉を濁したままだった。
喧嘩をしたわけではない。だけど疎遠になった。
その理由について彰は説明しなかったが、おそらく素子は何かを察したのだろう。追求を控えて、代わりに一言付け加えた。
「何か聞きたいことができたらまたおいで」
ひらり、と手を振って素子がその場を去っていく。
遠ざかる白衣の背中を眺めながら、彰はふと奇妙な違和感を覚えた。
聞きたいことができたら。
話したいことができたら、でも、相談したいことができたら、でもなく、聞きたいことができたら、と素子は言った。
まるでこれから彰に「聞きたいこと」ができるような言い方だ。
座りの悪い思いを抱きながら素子が消えた方向を見つめていると、頭上のスピーカーからチャイムの音が流れた。
ざわざわと喧騒がそれぞれのクラスへ引っ込んでいく。
弘史は杳輔に叱られながら、霞花は日菜に手を振って。隆二の姿は、もうない。
変に勘ぐるのはやめよう。
首を振って、彰はまとわりつく違和感を振り払った。
考えすぎないことだ。少しばかり妙なことがあったとしても、どうせ日常の中に消えていく。
「アイラ、待っていてくれたの?」
通り過ぎざま会釈してくれた日菜が、彰の背後に呼びかけて走って行く。
こんなことも、慣れてしまえばなんでもない。
仲睦まじく会話する日菜の独り言を背中に聞きながら、彰は振り返らずにクラスに入っていった。
「彰君、今帰り?」
放課後。昇降口に向かう階段を降りていると、霞花に声をかけられた。
「ああ、うん」
「部活は? 引退?」
とん、とん、と軽快に階段を下って来て、霞花が肩を並べる。
運動部系は引退試合を境にすでに多くが受験モードへと突入し、文化系は細々と活動を続ける、そんな時期だった。
「俺は部活入らなかったから」
「そうなの?」
「転校時期が遅かったしね」
暦の上では秋口に入ろうかという頃に転校してきた彰は、部活動を選ばなかった。
もしもっと早い時期に転校していたら、どんな部活に入っていただろう。
パソコンをいじるのが好きだから、情報科学部か……渋いけど将棋部でも良かったな。運動も嫌いじゃないから、陸上とかにチャレンジしていたかもしれない。
そこまで考えて、彰はふと思いついた疑問を口にした。
「そういえば、水都さんは吹奏楽部じゃなかったんだね」
「え」
彰の記憶が正しければ、霞花は確か弓道部だったはずだ。
大会でも弱小の弓道部は引退も早く、その分受験勉強に取り組む時期が前倒しになる。
それを利点と捉える生徒もいるのだから、弱小部が一概に悪いものとは言えない。
それでも彰は常々不思議に思っていたのだ。
「なんでピアノを弾く部活に入らなかったの?」
くりくりした瞳を大きく見開いて、霞花がその場に立ち止まる。
数段追い越してしまってから、彰は霞花を振り返った。
「ほら。よく一緒にいる二年生の、日菜ちゃん。あの子が前にそんなこと言ってたから」
『霞花ちゃん先輩、なんで吹奏楽部に入らなかったんですか?』
『めちゃくちゃ上手くて才能もあるのに、もったいないですよ!』
『私、霞花ちゃん先輩と一緒にセッションしたかったなぁ』
それらはことあるごとに日菜が口にしていた言葉だ。
日菜にとっては入学してから続く無念のようで、続く言葉は大体『あんなに誘ったのに』だった。
おそらく何度も霞花に転部を促したのだろう。しかし諾と言わないまま、ついに霞花は吹奏楽部引退の時期を見送ってしまったのだ。
「……」
「……」
これは話題を間違えた。
完全に固まってしまった霞花に気後れして、彰は話題を取り下げることにした。
「あー。えっと、言いにくい話なら……」
「あっ、ううん」
はっとした様子で霞花が階段を降りてくる。
「久しぶりに、なんで? って聞かれたから時間止まっちゃった。前は日菜ちゃんに何聞かれても応えられるように『弓道部に興味あったから』とか『道着がかっこいいから』とか言い訳たくさん用意してたんだけど」
「言い訳」
そのフレーズは自分を前に口にしていいものなのだろうか。
誤魔化したかった理由を無理に聞き出したいわけではなかったので「話したくないことなら」と彰は再度、話をたたみにかかった。
「いいの、いいの」
彰の気遣いを笑顔で退けて、霞花が言う。
「彰君なら、ちゃんと聞いてくれそうだし」
どういう基準か知らないが、霞花にとって彰は「ちゃんと聞いてくれる人」にカテゴライズされているらしい。
正直、かけられた期待は嬉しかったので、彰はそれ以上引き下がるのをやめた。
アイラ、君は。 風島ゆう @kazeshima
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