第2話 不穏な山道



 アースレディアには聖域が存在しない。フロントーラを軍事的に発展・拡大させる過程で聖域の条件である自然を破壊してしまい、その効力を失ってしまったのが原因だ。

 

 この危機的状況に直面した軍部は、フロントーラを中心に東西南北、そして各々の中間点、すなわち八つの地点に『周衛しゅうえい基地』という防衛拠点を築いた。これにより想生獣や王連合軍の侵攻を阻むと同時に、人類は広大な生活圏を獲得することができた。この周衛基地とフロントーラ間にある領土を、聖域に対して『域内いきない』という。

 

 こうして広大な土地を手に入れた人類は、食糧生産と人口増加を目的とした村を作ることにした。それにはまず域内の安全を確保しなければならない。そのため、ナイト級による大規模な想生獣および残存敵兵の調査が実施された。

 

 エレフト山の登山道は、ナイト級が調査のために切り開いた道がそのまま使われている。標高およそ1100メートル、傾斜は基本的に子どもでも登れるほど緩いが、それ故に裾広すそびろであり、整地されてない山路やまじは登頂までに半日を要する。

 この山を調査するに当たり、ナイト級は東西に分かれ、そこからさらに分散して複数の地点から同時に入山し、頂上で落ち合う、という方法を取った。最も逃げ場の多い裾野から逃げ場の無い頂上に敵を追い立て、そこで一網打尽にするやり方である。

 

 そのような経緯があり、エレフト山には東西に複数の登山口が開かれている。ミヤビが通っている山道もそのうちの一つだ。エレフト山の豊富な山の幸や川魚を求めて入山する村人たちに踏み慣らされ、地面は平べったくて歩きやすい。途中、近場を担当する集団の賑やかな声を聞きながら、ミヤビはずんずんと奥へ進んでいった。


 出発から二時間ほど歩いて、ミヤビは中腹に建てられた休憩所に辿り着いた。本来なら登山道を管理する人間が滞在しており、登山者の世話をしてくれるのだが、入山を禁止された今、ただの古びた小屋でしかない。

 しかし、休むくらいなら申し分ないだろう。ちょうど昼頃の時間帯だし、腹ごしらえも兼ねて、ここで一息つくことにした。


 建物前に設けられた一枚板の木製ベンチに腰掛け、大量の水を貯蓄できるボトルを呷る。ただの水のはずなのに、山の中ではどうしてこうも美味しく感じるのか。

 

 そうして喉の渇きを潤したミヤビは、次にリュックから携行食である堅パンとスープジャーを取り出した。スープジャーは蓋を開け、それに内容物の野菜スープを注ぎ、後は堅パンの袋を開ければ昼食の準備は完了だ。

 

 味の無い堅パンをバリバリと噛み砕き、薄い塩味のスープと一緒に飲み込む。そうして楽しくない昼食をさっさと済ましたミヤビは、最後にボトルの水を呷り、口元を拭いつつ辺りを見回した。

 

 「……にしても、ずいぶんと静かだな……」

 

 いや、実際は他のチームの話し声などで山はそれなりに賑やかなのだが。


 エレフト山は動植物に恵まれた山。鹿が茂みを横切る葉音や小鳥の歌声などが聞こえてきてもいいはずだが、不思議なことに山に入ってから一度もその知らせが届くことは無かった。見かけることなど言わずもがなである。

 

 「不気味だな…………やはり、この山には何かあるのか?」

 

 今回、ルーク級の作業員たちはエレフト山の東側から登っている。というのも、失踪事件の被害者たちは全員、東側の山道からエレフト山に入っているからだ。つまり、彼らがなんらかの事件に巻き込まれたのだとしたら、現場は東側である可能性が極めて高い。ちなみに、明日の野営訓練に挑む訓練生たちは西側からエレフト山に入ることになっている。


 この妙な静けさは失踪事件と何か関係があるのだろうか。アンテレナはこの事件に想生獣か山賊が関わっていると睨んでいた。だとするならば、山に動物を見かけないのはそいつらの仕業なのか?

 

 「…………考えても埒が明かねえな。まあ、それを確かめるためにやってんのがこの作業だ」

 

 情報が少ない今、ここで頭を悩ませても意味がない。大体、その真相を明らかにするのは明日の調査隊の役割だ。自分はただ与えられた仕事を忠実にこなすのみである。

 

 ただ、用心はしておくべきだろう。山というのは頂上に近づくにしたがって勾配が険しくなってくる。中腹までは楽に来れたが、このペースだと与えられた持ち場に着くのは夕方前くらいか。さらに、そこから動体検知器の設置作業をしなければならない。全てが終わる頃には間違いなく日が暮れているはずだ。

 

 夜の山を下手に歩けば遭難しかねない。つまり、今晩は頂上で過ごすことになる。一応、寝袋はリュックに用意していた。マルクに同行を命じられた時は万事に備えるべきだと心得ているからだ。しかし、何が潜んでいるかも分からない山で一晩を明かす、という不安は尽きない。

 

 一応、ルイワンダは持ち込んである。フロンズ聖伐軍の全ての軍人には、第一世界アマニチカイの技術を用いた大容量の収納能力を持つ『スパス』という小袋が配給されていた。その中に忍ばせているのだ。


 何かがあった時はこれで自衛する他無い。マルクは当てにはならない。もし、ミヤビの身に何かがあった時、彼は確実に保身に動くだろう。全ての責任をミヤビに押し付けるか、部下たちと口裏を合わせて事件そのものを揉み消すかもしれない。それだけの権限と人望が、彼にはあるのだから。

 

 「結局、頼れるのは自分だけか…………っ、」

 

 その時、どこからか人の声が聞こえてくる。作業を終えたチームが休憩をしにやって来たのか。

 ミヤビは急いでゴミをリュックに押し込むと、それを背負ってそそくさと休憩所を後にした。

 

 


 登山口は複数あるが、中腹の休憩所からは一本道しかない。山登りが目的でない限り、大抵の村人は中腹で引き返すため、登山道は次第に草木の生い茂る悪路になり、傾きも大きくなってくる。

 

 もう、人の声は聞こえてこない。それほど高い地点まで登ってきたのか、すでに他の人間は山を下りてしまったのか。相変わらず動物には出会えず、道の途中で現れた小川のせせらぎが、時が止まってしまったかのような静寂の中に涼やかな色を付けてくれるのみである。

 


 ――ガサッ。

 


 葉と葉が擦り合う音。唐突に訪れた世界の変化。

 

 ミヤビは咄嗟に、音が発生した方向に顔を向けた。

 

 徐々に闇が深まる茂みの中、僅かだが確かに草が揺れている。それは少しずつ近づいてきて、やがて草むらから大きな牙が特徴的な動物が姿を現した。

 

 「こいつは……ピギーボアか」

 

 それは、ピギーボアという猪を一回り大きくしたような外見を持つ想生獣だった。

 

 周衛基地が完成し、その内側全土が人類の支配下に置かれた時、域内にはまだ多くの想生獣が生息していた。ナイト級による大規模調査によって粗方の想生獣は駆除されたが、実は、特定の想生獣は存続を許されている。生産業やアルニマの素材などに利用できる益獣や、その土地の生態系に寄与する生物。また、訓練生の教材として危険性が低いものなどがそれに当たる。このピギーボアがまさしくそれであった。

 

 大変、鼻が利き、嗅覚を用いて餌を探す。非常に憶病で警戒心が強く、下手に追い詰めたりしない限りは攻撃してくることはない。また、悪食で大食ながら、一週間は栄養を補給しなくても活動できるピギーボアの肉は、脂肪分を多く蓄えられる体質が故にジューシーで、臭みが強いものの美味。しかも、繁殖力が高く、大きな牙は素材として利用できる、人類にとって有益な想生獣だ。

 

 「……なんか、変だな。あのピギーボア」

 

 入山して初めて目にする想生獣。この山にもちゃんと生物がいるんだな、と少し安堵すると同時に、疑念が湧く。

 

 ピギーボアは非常に警戒心が強い想生獣だ。だから、仲間以外の気配を感じ取ると、すぐにその場から逃げてしまう。それが、わざわざミヤビの前に現れ、しかもずっと彼を凝視し続けているのだ。

 

 「…………まあ、いいか」

 

 そういう個体がいる、と結論付けたミヤビは、道筋を大きく膨れてピギーボアの前を通過すると、そのまま振り返ることなく先を急いだ。

 

 しかし、歩き始めて数分もしないうちに、

 

 「うっ」

 

 新たなピギーボアが草むらから現れる。ピギーボアは仲間同士の連帯感が強く、普段は群れで行動する想生獣だ。

 もしかしたらさっきのヤツの仲間かもしれない。そう判断し、ミヤビは同じように前を通過していった。

 

 だが、その後もピギーボアの出現は続いた。背後を確認すると、森の中から複数の視線を感じる。まさか、ピギーボアの群れから監視されている?

 

 「どうなってんだよ……?」

 

 不穏な空気を感じたミヤビはどんどん足を速めていった。それに従うように、後ろの草音が一層、激しくなってくる。前からのピギーボアの登場も相変わらずだ。

 

 ――やばい。

 ミヤビの胸中に焦燥感が広がっていく。

 

 ミヤビは駆け出した。脇目も振らず、徐々に幅を広めていく川に沿うように伸びる坂道をひたすら爆走する。しかし、背後からの草音や視線はなかなか途切れない。

 

 それでも追いつかれないように、必死にミヤビは走り続けた。やがて、二つの分岐点に差し掛かる。


 一方は川に沿う直進のコース。もう一方は右手に折れる頂上へのコース。

 

 無論、ミヤビは躊躇わずに右に折れて、砂利が混じる急な坂道を駆け登った。全力疾走した後にこの急勾配はさすがに堪えたが、その甲斐あってか、登り切った時、周囲にはピギーボアたちの気配は無くなっていた。

 

 「…………なんだったんだ、いったい……?」

 

 ミヤビの呟きを掻き消すかのように吹いた山風が、森を激しくざわめかせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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