38.2 「なら金を持ってこい! 明日の朝八時までだ!」

 オレたちの車は、国境を抜けてアムスタに入った。

 途中で買ったガイド『北半球の歩き方』と『大陸ヒッチハイクガイド』によるとアムスタはとても小さい国だ。

 ジェミニとフルシは国境をほぼ隣接させている。

 ただ国境線を地図上で北へ辿ると、ヴァニラ海に面するところで間に小国が挟まっている。それがアムスタだ。

 アムスタは一つの街といってもいいほどの規模で、小さいがとにかく道が入り組んでいる。

 通り抜け難い。

 というかぶっちゃけ――通る必要がない。


「なぁ、南の越境街道166を通ればアムスタ通る必要ないんじゃないか」


 オレが助手席でそう言うと、ステアリングを握るファンゲリヲンは「判っていない」と絶望的な顔をした。


「君は旅の何たるかというものが判っておらぬ。そう言えば君、父母はいずこかにおるのか」

「いや――オレが小さい頃に事故で死んじまった。だから爺さんに育てられた。親が生きてればオレがホムンクルスか判ったか?」

「そうか。それは無論判るが、本当のことを君には言うまい。君が認識術を使えぬなら――まぁ、拙僧せっそうの出る幕ではないか」


 ファンゲリヲンはそう言って少し黙った。

 国境を超えていくつか小さな森と川を過ぎると、標識が忙しくなる。

 他の車も多くなってきた。

 あっちはジェミニの街、こっちはたぶんフルシの街、そしてそっちはアムスタ。

 道も常にカーブしてるし、複雑に交差している。

 オレは地図とにらめっこしながら、東西南北を考える。

 立体的な交差――川に沿って地面の下を通る道があると気付いて、オレは地図を閉じた。

 ――もうわからん。

 そのうち海が見えるだろう。




***




 アムスタ市街に入ると、いよいよ建物が入り組んできた。

 先に建物を建てて、その間に石畳をいたんじゃないかってくらい道も複雑だ。

 そして看板。

 なんていうか、派手だ。

 ガイドによればアムスタは特殊だ。

 厳格なジェミニと気難しいフルシに囲まれて、『頭蓋がパーンと破裂して脳みそを紙吹雪にしちまった』ような国らしい。

 アヘンくつ以外でのアヘンの使用が合法。

 なのに所持は違法らしい。さっぱりわからん。

 ともかく、大陸じゅうから上質なアヘンを求めて立ち寄る者が多いんだとか。


『!高くなる!』

『一日中、垂れ流しっぱなし! 上から下から!』


 看板は共通語で、文字は読めるが意味はわからない。


「『人間は一本のくだ』――っていったい何屋の看板だ?」

「主張がでかい・・・看板であるな。そのような主張を売る店であろう」


 狭い道路に、ふらふらと歩く酔っ払いが増えてきた。

 夕方近いせいもあるんだろう。

 彷徨さまよう死霊みたいに車道に急に出てきて危ない。

 あやうくきそうになってファンゲリヲンが車を止めると、酔っ払いは振り返ってボンネットを叩く。

 ファンゲリヲンはぶつくさ言いながら『モータープール』と書かれたところに車を入れた。

 似たような派手な車が並んでおり、おそらく観光客が車を置いておく場所なのだろう。


「車はここに置いてゆくぞ」

「大げさなんじゃないか? どこいくか知らないが、店先に停めておけばいいだろ」

「数日ここに逗留とうりゅうするのだ」


 数日って――と、妙にアバウトな日程が気になった。

 気が付くと増えてきた荷物を抱えて、オレたちは手近な宿を探す。

 二ブロックほど歩いたところに、薄茶色のレンガで化粧したすこしシックな宿が現れた。

 ガイドによると安宿はいくらでもある。

 なんとなく高級そうだと思ったのは、ドアが大きく、窓にもレンガがアーチ状になっているからだ。


「とりあえず三泊頼む。スイートは空いているか」

かしこまりました。二名様、スイートのご用意がございます。お支払いはチェックで?」


 分厚ぶあつい眼鏡をかけたフロント係がそう言った。

 ああ、と答えてファンゲリヲンは小切手に一筆いっぴつ書き、カウンターに置く。

 フロントの係はそれを確認して、フロントの向こうにある機械に並んだ数字のボタンをバカバカと押して、最後にレバーを横向きにスライドした。


「少々お待ちを」


 なんとなく気まずい沈黙の後。

 機械からジリジリと音がして赤い紙が吐き出された。


「お客様。決済にエラーがあるようです。恐縮ですが、こちらでお間違いないでしょうか?」


 どれ、とファンゲリヲンは紙を確認する。

 ――振りをして、フロント係の顔をのぞき込んだ。


「――間違っているな。ここのゼロが一つ多いのではないか?」

「いえ、金額はこの通りです」

「――そうか」


 ファンゲリヲンは慌ててこちらを振り向く。

 そして小声になった。


「認識術が効かん」

「おい、いきなり何だ!?」


 オレも小声でそう訊く。


「認識術で料金をまけさせることができぬのだ」

「アホなのか!? あの眼鏡を見ろ! たぶん対策されてる!」


 確証はないが、こいつの力が効かないのなら対策されているのだろう。


「普通に払え! 普通に!」

「――金が無限にあるわけではないのだ」


 ファンゲリヲンは再びフロントを振り返った。


「二泊に変更してくれ。現金で頼む」

「現金ですと先払いになりますが、よろしいでしょうか」

「あ、ああ。これで足りるか?」




***




 チェックインするなり奴は荷物を投げ入れて、いつぞやの派手なマスクで顔の上半分を隠すと「観光に行くぞ」と言い出した。

 外はもう暗くなり始めている。

 夕方と思ったが、高緯度なので実はもう七時過ぎている。

 こんな時間から? と思ったが――ついて行くとその理由がはっきりした。

 奴のいう観光・・とは盛り場周りだった。

 ピンクや紫に輝くサインの間を抜け、ごちゃごちゃした繁華街を渡り歩く。

 もう道なんてもんじゃない。店のテラスから別の店のテラスへ。怪しげな店の中を通って裏口からよりヤバそうな店へ――。

 すれ違う奴らも大体怪しい。観光客なのか店員なのか売人なのか娼婦なのか、もう誰が何なのかも判らない。

 ひたすら気おくれするオレをよそに、ファンゲリヲンは勝手知ったるなんとやらといった様子で、どんどん行く。

 度数の高い酒の細身のボトルを片手に、どんどん行く。

 テラスを通ってごみごみした往来おうらいに出る。

 色んな人種の色んな層の人間――中には人間か魔物か判らないような奴もいる。

 少し気になったのは、ゴロツキでも紳士でも、腕やら顔やらに妙なイボが沢山ある人物が一定数いるのだ。

 疱瘡ほうそうみたいな流行はやりの病なのか、それとも性病か。

 いずれオレみたいな通りすがりが気にすることじゃないんだろう。

 でもファンゲリヲンはまるでこの街の主であるかのように馴染んでいた。

「久しぶりだな」「元気してるか」などとすれ違う女性に声をかけまくり、女性も気さくに応じる。

 本当に知り合いなのかノリなのか。

「勇者!」などと言われてるのを見て、本当に有名なんだなと思った。

 いや、疑っていたわけじゃないが――ここの人たちに、こいつは一体どう見えてるんだろう。

 テーブルで酒を飲んでいたカップルに、「あの爺さんを知ってるか?」と訊いてみた。

 カップルは「子供がこんなところで何をしてるんだ?」と怪訝けげんそうにしつつも「放蕩ほうとうの勇者だ。初めて見るか?」と教えてくれた。


「勇者は最近評判が悪い。活躍もしていないしな」

「そうそう。ゴアも死んだし、メイヘムもモートガルドの王様だったなんて!」

「だがファンゲリヲンは別だ! 俺らの仲間! ファンゲリヲン! ファンゲリヲン!」

「ファンゲリヲン! ファンゲリヲン!」


 突如巻き起こるファンゲリヲンコール。

 奴もノリノリで、酒瓶を高々と上げて片脚だけで往来を跳ね回っている。

 寄って来る酔っ払い、呼び込み、商売女――。

 奴は悠然ゆうぜんとその中をこちらへ来て、オレの腕を取った。


「ノヴェル・メーンハイム君だ! 窮屈きゅうくつなパルマ女の尻を蹴ってここまで逃げてきた! 諸君! 喝采かっさいを!」


 拍手喝采が巻き起こる。

 馬鹿それを言うんじゃないとオレは言ったが、奴は「どうせ酔っ払いばかりだ」と意にも介さない。


「どこか店に入るんじゃないのか?」

「アムスタの醍醐味だいごみはここだ。アヘン窟だの連れ込み宿だの、個室でコソコソなどせぬ。それとも君は――商売女のほうが好きか?」

「勘弁してくれ」

「であろうな!」


 ファンゲリヲンはしたりという顔で笑う。


「ここの主役は素人である! アヴァンチュールを求める女が沢山いる。そこにも、あそこにも」

「そういうことじゃない! もう、勝手にやってくれ!」


 宿に戻るのか!? となげくファンゲリヲンをその場に残して、オレは元来た道を戻った。

 このときファンゲリヲンにしっかり縄をつけておけば、その後のトラブルは起きなかったのだが――。




***




 夜遅く。

 宿の部屋でオレが寝ていると、部屋の外がガヤガヤとうるさくなった。

 ――なんだ?

 目をこすりながら上半身を起こすと、ドアが開いてファンゲリヲンが入ってきた。

 酔ってる。

 三人の現地人らしき女性と、知らない言葉で談笑しながら入ってきた。


「ファンゲリヲン、誰だそいつらは」

「おお、もう寝ていたのか? すまぬすまぬ」


 時計を見ると深夜一時を回っている。

 きゃっきゃ、きゃっきゃと騒ぐ女三人は何を言ってるのかはわからないが――ファンゲリヲンの肩や腰に長い腕を回し、こっちを指差して笑っている。

 なんだかよくわからないが馬鹿にされている気がした。

 よく見ると三人はケツが出そうな短いスカート――というかほぼ出ている――に下着のようなぴっちりとしたシャツで今にもはみ出しそうな脇乳を辛うじてとどめたスタイルで、大変に刺激的である。

 寝起きで目がかすんで、細かいところがよく見えないのだけれども――。


「――なんだ、ノヴェル君。今更やる気になったか?」

「う、うるせえ、早く追い返せ!」


 なぜあいつはあんなに元気なのか。

 チェックインしたそばから盛り場巡り。

 付き合っていられない。


「――しようがないな。連れが休むのだそうだ。レディーたち、また今度に」


 ファンゲリヲンはどこかの国の言葉で三人を帰そうとすると、女たちは掌を向けた。

 別に魔術を使うってわけじゃない。

 金を寄越よこせって意味だ。


「おお、そうであったそうであった。済まぬ」


 ファンゲリヲンは紙幣を彼女らにつかませる。

 ――素人っていうのは金銭の授受じゅじゅが発生するものなのか?

 しかも三人は金額に不満そうで、もっと寄越せと訴えている。


「悪いが今手持ちがないのだ」


 ファンゲリヲンは「また明日ってことにはしてくれぬかな」と言いながら一人の顔を覗き込む。

 すると奴と眼が合った女性は、うなずいて部屋から出て行った。他の二人も、やや不満そうに振り返りながら出て行く。

 ファンゲリヲンは手を振ってそれを見送る。


「――まさか本当に先に帰るとは思わなかったぞ。せっかく遊びを教えてやろうというのに」

「最低野郎だ。金がないなら遊ぶなよ」


 奴は「大人になると他の遊びでは楽しめないのだ」とロクでもないことを言う。

 それは反論のつもりなのか。

 もっともまだ全然マシなほうだ。墓場で死体をあさったり手慰てなぐさみで追手を皆殺しにしたり、哀れな信徒を集めたりとか悪だくみされるよりは――。

 オレがそう思っていると、部屋のドアが乱暴に開かれた。


「おい、ソウィユノって奴はいるか?」


 見るからに用心棒っていう腕っぷしの強そうな男が立っている。

 ファンゲリヲンがソファーから立ち上がった。

 ソウィユノは私だ、と言う。

 嘘だ。偽名が、しかもソウィユノって。


「おい、テメエ、うちの女を値切ってくれたってな。どういう了見りょうけんだ」

「手持ちがないから明日にしてくれと、話して判ってもらえたと思ったんだが――」

「金がねえなら女遊びなんかするんじゃねえ!!」


 オレと同じこと言ってる。


「ないわけではないのだ。今、手元にないだけで、明日――」

「馬鹿野郎! そういうこと言ってるんじゃねえ!」


 そうだそうだ。


「テメエ、あのまじないを使いやがったんだろう? ふざけるな! こんな端金はしたがねでニシンだって売る奴がいるか!」


 やっぱり認識術を使ったのか。

 死んだ仲間の名前で女遊びをして、魔術で値切るとは最低野郎だ。


「認識術など使っておらぬ。明日払うと、言葉で約束を交わしたのだが」


 ファンゲリヲンがしらばっくれていると、その間に男は目敏めざとくテーブルの上の鍵を見つけた。


「おい、こりゃあなんだ」


 男が手を伸ばして掴んだそれは、オレたちの車のカギだ。


「それは――」

「へぇ。時代遅れだがまあまあの車じゃねえか。知り合いのディーラーに流せば即日金にならぁ。いいぜ、これで勘弁してやる」

「待つのだ。それは困る」

「なら金を持ってこい! 明日の朝八時までだ! 迷惑料込みで七十五万だ。女の居た事務所にいるからよ! それまでこいつは預かる」


 男は来た時と同様、乱暴にドアを閉めて去った。

 カギを取られてしまった。


「弱った。車を取られてしまっては困る――」


 よく男を殺さなかったものだ。そこだけは称賛に値する。


「――よく暴れなかったな。お前にしては大したもんだ」

「ん? ――ああ」


 考えてみれば、ファンゲリヲンの攻撃は基本的に相手の力を利用したものだ。

 自分からは攻撃魔術ひとつ使っていない。

 もしかするとこいつは――ミラと同様、攻撃魔術が極端に苦手か、使えないのじゃないのか?

 相手が向かってきたり、武器を持ち出さないと自分からは一切攻撃ができないのじゃないか?

 そうは思ったが、そうだとしても今更オレにどうこうするつもりはない。


「でも、金はあるんだろう?」

「ない。車もホテルも思ったより高くついてしまってな」

「口座には?」

「口座にもない。小切手が通らなかったのを見ただろう。あのようにその場でチェックされるとは思わなかったが――」


 なんてこった。


「じゃあどうするんだ! いや、フルシにまで行けば鉄道でブリタまで行けるか?」


 オレはテーブルの上のガイドを開くが、ファンゲリヲンは肩を落とし、首を横に振る。


「ブリタまで行けても車がなければアレン=ドナへはとても辿り着けん。面倒なことになった」


 ファンゲリヲンは両手で顔をおおう。

 考えているのか落ち込んでいるのか。

 酒のせいで躁鬱そううつが激しくなっているのかも知れない。


「まぁなんていうか――お前はよくやったよ。勇者にしてはな。ここで暴力沙汰を起こしたら、台無しになるところだった」


 ファンゲリヲンはハッとしたようにオレを見た。

 オレは宿屋の下男だからここのスタッフをおもんばかってそう言ったのだが、奴はどう受け取ったものか。


「あのなファンゲリヲン――」

「ふむ。見えたぞ。拙僧に任せておけ」




***




「ファンゲリヲン、ここはどこだ」

「裏通りだ。果たして名前があるかも知らぬ」


 ピンク色の照明が照らす、ガラスケースをずらりと並べたような怪しい通り。

 中にはお人形のように着飾ったり、半裸だったりする女性が収まっている。

 その通りから裏へ入った場所だ。

 時刻は午前二時半。

 この季節、この辺の緯度だと日の出が早まってるらしいがそれでもあと三時間はたっぷりある。


「ここを取り仕切ってるマフィアがあってな。ブーマン・ファミリー。貸しがいくつもある」

「マフィア? こんなところに? なんか知らんが明日じゃダメか?」

「こんなところ――とは、『アムスタなんて国自体がマフィアみたいなもんなのにこんな場末に隠れてんのか?』という意味かね? 空いている窓口・・がこの時間、こんな場所なのだよ」


 口調を真似されて腹が立ったが、まぁ、そうだ。

 国がマフィアかどうか知らないが、裏も表もないここのマフィアなら大手を振ってメインストリートに立派な拠点を構えていそうだと思ったのだ。


「それに――明日では遅かろう。期限までもう六時間もない」


 それもそうだ。

 つまりこれは金策ってことなのか?

 ファンゲリヲンは仮面の奥の眼だけでわらうと、振り返ってカンカンと外階段を上がり始めた。

 上の階の扉を四回叩く。


「――誰だ」

「仮面の者だ。フェルナンドは居るか?」

「はぁ? 仮面?」

「放蕩の勇者だ。フェルナンドはどこだ?」


 扉の向こうではげらげらと笑い声が響く。

 中には男が複数人がいるらしい。

 最低三人。

 声が答えた。


「フェルナンドなら寝てるよ。ヴァニラ海の底でな」

「ならデルはどうだ」

「デルだと? ふざけてんのか? どこの馬の骨とも知れねえ奴に――」


 扉が薄く開いて、太った男がのぞく。


「面会させ――られ――」


 目が合っていた。

 認識術かと思ったが違う。

 マントの下から伸びたファンゲリヲンの腕が、男のくびを掴んでいる。


「邪魔するぞ。放蕩の勇者が貸しを回収しにきた」


 男を盾にそのまま中へ押し入る。


「何だ! テメエは!」

「やる気か!? 殺せ」

「そう来なくっては――困る」


 オレからは見えない。

 それでも中で何が起きているかは音で大体わかる。

 ドカン、バキン、ボコン、カンッ――。


「良いぞ。入ってきなさい」


 ファンゲリヲンが顔を出したので、オレも中へ入った。

 男が三人伸びている。

 首をへし折られているのでも頭を砕かれているのでもない。ただ気絶している。


「殺してないな?」

「鼻血も出してはおらぬ。これでよいか?」


 手早く戸棚やら机やらを漁りながら、ファンゲリヲンが言った。

 振り向きもしない。


「君も手伝え。現金だ。現地通貨のみ。あるだけ頂いてゆくぞ」

「いいのか?」


 相対的な問題だ、とファンゲリヲンはうそぶく。


「彼らの立場に立てば歓迎はせぬだろうが、金で済むのなら受け入れる」

「お互いの立場で話ができて光栄だろうよ」


 まぁ、こいつらだってまともじゃなさそうだ。

 オレも手あたり次第に金を集める。

 でもあまり多くない。

 ただ皮のジャケットを退けると、そこに灰色の金属の箱があった。


「見ろ、チェストだ」

「チェストなものか。これは金庫だ。持てるか?」


 持ってみるとズッシリくるが、持ち手もあるし案外持てる。

 すると、誰か集団が外の階段を上がってくる音がした。


「――ズラかろう」


 オレたちは、奥の扉へ逃げ込む。


「金は集まったか?」

「現金は殆ど見つからぬ。どうやら今日の売り上げの集金後だったらしい。その金庫の中身次第であろう」


 狭い廊下を逃げる。

 背後のほうから「おい! 何事だ!」「しっかりしろ!」と声が聞こえてくる。

 前方の扉が開いて下着姿の女がでてくる。


「ごめんなさい、通して」

「失礼、お嬢さん。ぺルドン、ぺルドン」

「ナターシャ! ゾクだ! その二人を捕まえろ!」


 今まさに横を通り抜けようとしていたその女が、勢い殺気だった。

 拳を突き出してくる。

 ファンゲリヲンはそれを見逃さず、女の腕を引いて足元を蹴り払って倒す。

 倒れた女で扉を固定すると、狭い廊下の幅いっぱいだ。

 オレたちは更に廊下を走る。


「追え追え!」

「邪魔だ! どけ!」


 背後の喧噪けんそうが大きくなった。

 ――廊下をふさいで、時間を稼いだはずだ。

 下へ降りる階段はまだ見つからない。

 廊下を曲がると、先はガラスのはまった扉が一枚あるだけでそこで行き止まりだ。

 ガラスの向こうには外のサインが見える。

 そこを開けて飛び出ると、パッと左右の視界が開けた。

 そこは――例のお人形のショーケース通りの上を横切る空中通路だった。

 ガラスの中を物色するお客とポン引き――。

 眼下は助平すけべと金の亡者でいっぱいだ。更にはそれと――。


「いたぞ! 上だ! 回り込め!」


 こちらを見上げるボーマン・ファミリーの追手だ。

 一斉に、連中は手に手に合図を送り合い、何人かは人混みの中を走り出す。

 この空中通路は通りの反対側の建物までつながっている。

 でもそこもきっと奴らの巣だ。


「ダメだ、先回りされる! 袋の鼠だぞ!」

「ならばここから逃げるよりあるまい」


 ファンゲリヲンは廊下の手すりから身を乗り出す。

 下は下で、追手が回り込んでいた。

 ファンゲリヲンの真下――丁度落下地点あたりを固めている。


「無理だ! 下にも追手がいる!」

「知っておろう。混沌の中を逃げさせたら、拙僧せっそうかなう者はおらぬ」


 ファンゲリヲンはまだ余裕の笑みを浮かべながら、オレから金庫を奪う。

 そしてそれを両手で高々とかかげた。

 ――どうするつもりだ。


「勇者・放蕩のファンゲリヲンから贈り物だ! 開けた者に全額くれてやるぞ!」


 そういって奴は――下に群れなす追手に向かってそれを――投げ落とした。

 身をひるがえしてける者、動けない者、頭をかばって金庫の下敷きになる者――。

 絶叫、悲鳴、嬌声きょうせい

 ――嬌声?

 すぐに騒ぎを聞きつけて、金庫を奪おうとする連中がわらわらと集まってきた。

 マフィアの追手は、そいつらにはばまれて動けない。


「逃げるぞ」


 ファンゲリヲンはそういって、廊下の反対側の手すりからひらりと身をおどらせる。

 オレもそれに続いた。


「離れろ! 退け!」

「逃すな!」

「やめろ! これはファミリーの金だ!」


 マフィアが、人混みに揉まれながらそう叫ぶ。

 下はすでに大パニックだ。

 オレ達は左右に並んだガラスを割りながら逃げた。

 そうすると中の女たちが逃げ出すからだ。

 追手が多いなら獲物えものも増やせばよい。

 いや――そんな計算は後付けかも知れない。

 思い起こしてみれば、それは単に、そうしたかったからだ。




***




 オレたちは道端にへたり込んで、いつの間にか手にしていたボトルを開けた。

 乾杯をする。


「あ――でもオレ、酒は」

「ここはアムスタだ。酒は十三歳から合法であるぞ」


 一口飲んでみると案外きつくない。

 香りのする水みたいだ。

 この辺の水は変なにおいがするからとても飲めなかったが、これは飲める。


「落ち着いて飲め。水のような度数だが全力で暴れた直後であるからな」


 それくらいは判ってるつもりだ。

 余計な気づかいをしやがって。


滑稽こっけいであるな。あれだけ楽しそうに暴れていたではないか。懸賞首けんしょうくびが、今更酒の年齢など気にしおって」

「あれは仕方がなかった」

「これも仕方がないのだ。喉がかわくからな」


 ボトルを持ち上げ、ファンゲリヲンは笑う。


「人生は短くはかない。たとえ君がどこの誰であろうとな。もっと気ままに生きろ。拙僧のように」

「だんだんお前のことが判ってきた」

「ほう?」

「お前は――他人を利用するのが上手い。それがお前の、なんていうか、本質・・だ。お前は利用する。囚人だろうと信徒だろうとしかばねだろうと」

「神だろうとな。なるほど。それにしても――」


 本質ときたか、とファンゲリヲンは楽しそうに言う。


「それでいうなら君の本質は何なのだろうな。君がどんな生まれの者であっても、少なくともそんなところに本質はないと思うがね」


 はげましのつもりなのだろうか。

 オレは聞かなかった振りをした。


「そのお前がなぜ勇者なんかに? スティグマに利用されてる」

「あのお方か。前にも言ったが、拙僧にも考えがあるのだ。そのためにあのお方を頼った。死んでもらっては困る。それだけだ」

「お前は――」


 気になっていたことがある。


「なぜ『拙僧』と?」

「拙僧は拙僧だ」


 違う、とオレは首を振る。


「ミラの前では『私』と。勇者になる前を思い出してたんじゃないか?」


 細かいことを――とファンゲリヲンは苦笑して下を向いた。


「お前はもう教祖じゃない。坊さんごっこは終わりだろうが」


 オレは食い下がる。

 やがて奴は顔を上げた。


「まだとむらいの途中だ」

「誰の? 墓参りした、お前のかみさんのか?」

「いいや――全ての者のだ」

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