Ep.38: 許さない男/許されない女

38.1 「オレもあれになりたい!」

 ジェミニ国のだだっ広い平原を貫く道を、オレたちは走ってきた。

 ガスステーションで給油をしていると、そこで別れる道の向こうを指差しファンゲリヲンは「古城街道だ!」と騒いでいる。


「道沿いの丘に古い城が沢山並んでおろう。征東せいとう戦線では拠点きょてんとして再利用されたのだ」

「へぇ。なら今は用無しか?」

「ホテルとして営業しているところもある。今夜はそこで休むとしよう」

「何が古城のホテルだ。趣味が悪いぜ。オレはこれでも宿にはうるさいんだぜ」



***



「うわああっ! すっげえっ!!」


 外観はまるでベリルの庁舎だったが、内装はまるで違う。

 お城だ。

 ここはまさにそのお城の中だ。

 陰気なお役所然とした庁舎と違って高級なオーク材をこれでもかと使った床、壁はきらびやかにシャンデリアを反射し、温かみがあって――。


「広い! これがロビー!?」

「部屋はあるかね? 一晩だ。一番良い部屋を頼む」


 真っ赤な絨毯じゅうたんが真っすぐに伸びる廊下。

 壁のランタンは魔術を使ったイミテーションじゃない。本物の炎だ。これは滅茶苦茶手間がかかってる。


「長い! これが廊下!!」


 部屋は五部屋ぶち抜きのスイートで、『アグーン=ルーへの止まり木』にだってこんな部屋はない。

 部屋というより美術館だ。

 調度品ひとつとっても複雑で、埃を取るのに小一時間もかかりそうなうねりを持っている。


「豪華!! 成金大家族でも住んでいるのか!?」


 ふかふかのソファーで飛び跳ねていると、ソファーの反対側でファンゲリヲンが飛び跳ね始める。


「靴ぐらい脱げよ!!」

「何を言う! これが醍醐味だいごみなのだ!!」


 最新型の宅内電話機もあるが古い伝令管も現役で残っている。

 ファンゲリヲンはその伝令管を使ってルームサービスを頼んだ。

 ルームサービスは上等な酒と、賢そうな女性がついてきた。

 何をもって賢そうと思ったのかは自分でも判らない。

 瞳の知的な光というか――まぁ、成績からして世の中の六~七割くらいの人間は自分より賢いと思っていい。


「ディナーはいかがなさいますか」

「もう遅いから軽めで頼む。朝食はソーセージをけて、羊肉マトンを少し頼む」

「ポーク、チキンといった他のお肉も避けたほうがよろしいでしょうか? 代替食材メニューもご用意がございます」

「いや、明日は平原を抜けてブルマンを通る予定だ。そこでとびきりのを頂く。テディは元気にやってるか?」

「お調べ致します」

「もし死んだようなら、ブルマンで一番の店を教えてくれ」


 賢そうな女性は、すらすらとメモを取り、丁寧ていねいにお辞儀じぎをして「ごゆっくりおくつろぎくださいませ」と退出していった。


「――何なんだ。メイドか? それにしては――」

「コンシェルジュを知らぬか。君の御実家は宿屋という情報は誤りか? 旅のことを何でも調べてくれるサービスだよ」

「へぇ――」


 わずかなやりとりだったが――なんというか、憧れた。

 オレ向きの仕事なんじゃないかと思えた。


「オレもあれ・・になりたい! ポート・フィレムに帰って、宿無亭やどなしていを再開したら――」


 ハッとした。

 ファンゲリヲンが、値踏みするような視線をこちらへ投げているのに気付く。


「それは――どうであろうな。第一、君は重大犯罪者なのではないかね。故郷に帰るなどということは――」

「――そうだったな」


 舞い上がっちまったよ、とオレは笑って誤魔化ごまかす。


「どうした? 『お前のせいだ』と責めるのではないか?」

「――今はいい。明日にするよ」

「明日はないかも知れない。だが、君が望むならモートガルドかどこか――パルマ皇女の手の届かないところで、好きな仕事をさせてやることもできるぞ。別人になって暮らすのだ」

「馬鹿にするな。お前が自分でそうしないってことは、そんなことはできないって意味だ」


 オレがそう言うと、なぜかファンゲリヲンは――少し寂しそうな顔をした。




***




 翌朝、早くにチェックアウトしてオレたちは再び平原を貫く街道ルートを目指した。

 よく晴れた朝の、緑輝く丘にそびえ立つ石の城。

 戦争ばかりやっていたなんて嘘みたいだ。


「なぁ。戦争はひどかったのか」

「君たちの言葉で言えば、『酷かった』になるのだろうね。言葉――否、価値観か」

「込み入ったことを聞くけど――お前らは心が痛まないのか? 目的のためなら手段を選ばないやり方に――」


 ファンゲリヲンは、ステアリングから離した片手を拡げて「心が痛む?」とオウム返しする。


「少しも痛まんね。価値観というか順序の違いだ。拙僧せっそうは、我ら七勇者の結末を予見している。誰もが我らに感謝する。我らをたたえ、我らのために犠牲になりたがる。だがそれ・・を迎えてからでは――遅い。だから先に犠牲になる機会を与えているのだ」


 本気で言っているのか。


「このままではこの宇宙が終わる。知っているだろう。それを根治するというのは――本気である。だがこのままでは、先にあのお方が・・・・・限界を・・・お迎えになる・・・・・・


 あのジャックの屋敷の庭で――信徒を山と従えたこの勇者は言ったのだ。

 これは『救済』であるのだと。

 やがて壊れてしまう宇宙を『第二の法』から『脱出』させ、『根治』させると。


「それだ。前にも言ったけど、根治なんて本気でできると思えないね。オレの爺さんに無理だったんだ」

「大賢者も考えてはいたのではなかろうか。だから光の神などを作って備えた。もっとも、拙僧に言わせれば見当違いだ」

「――見当違い?」

「さよう。真に必要なのはヴォイドの神だ。ヴォイドの神によって再契約は成る」

「再契約?」


 少々ややこしい話だ、とファンゲリヲンは前置きした。


「宇宙が生まれたとき、ヴォイドは四つの力に別れた。重力、電磁力、強い力、弱い力だ。だが全てではなかった。未分化のままのヴォイドが、宇宙にはわずかながらあったのだ。それが真空からエネルギーを引き出すことで真空の底が抜け、真空崩壊を引き起こした。大賢者は真空崩壊を止めただけで、ヴォイドには至っておらぬ」

「――随分と詳しいんだな。確かなのか? お前たちに都合のいい想像ってことは?」

「いずれ判る。だが判ってからでは遅い」


 ファンゲリヲンはあくまで不敵だ。


「真空崩壊――ヴォイドによる真空の誘爆が意味するのは別の宇宙の誕生だ。この宇宙では表しようもない凄まじいエネルギー。だから拙僧は、宇宙をいくつも作れるほどのエネルギー……無限の力だと言った」


 なるほどな、とオレは言った。

 細かいことはさっぱり判らない。

 そんなとんでもない力があるのは間違いないにしても――スティグマはその力を神を通じて従えたのか? ならなぜ今更ヴォイドの神を造ろうとしたのか? もしかしてかつて一度はその神がいて――だから『再契約』なのか? そういうところだ。

 それでも奴らの論法というか、筋道は見えたような気がした。


「でも聞いてると、なおさら不可能だって思うね。無限のエネルギー? そんなものを制御できるわけがない。オレたちは、フィレムやスプレネムにだって手を焼いたんだぞ。この間だって、生まれてもいない光の神をどうするかで右往左往してたんだ」

「それは間違いではなかろう。無から人に似せて神を生み出すからそうなる。果たして君の妹君を神にすれば、フィレムのように癇癪かんしゃくを起こすかね? 大賢者のいうことを聞くのではないかね?」

「――そういうことか。お前らはそのためにオレの家族を狙った」

「制御できぬものは、制御できるようにすればよいのだ。そのための策はひとつではない。いずれにせよ我らは、大賢者を必要としていた。彼の知識。彼の魔力」

「それが本当なら――話せばわかりあえたんじゃないのか? 爺さんは、お前たちに敵意を感じていた。だから隠れていたんだ」

「いかにも。決して我らになびくことはなかったであろうな」


 勇者か爺さんか。

 いずれかが正しいならオレは爺さんを信じる。

 でも――オレは黙っていた。


「大賢者を神にする手もあったが、大賢者がより強大な力を手にすればまずいことになる。だがメイヘムにより、大賢者が光の神を造ったと知るに及んで――我らのすべきことは決まった」

「最初――ポート・フィレムのときは爺さんだけを連れてゆくつもりだったのか?」

「ソウィユノの作戦ではそうだった。だがソウィユノもゴアも戻らず――大賢者も手に入ることはなかった」


 ヴォイドの暴走を根治すべく、爺さんを連れていこうとした――いちおう筋は通る。

 でもまだ、何かを隠している。

 爺さんも別にヴォイドの専門家っていうわけじゃなさそうだし、それだけなら爺さんは隠れなかった。

 

(爺さんは、七勇者に何を見ていたんだ)


 おそらくそれが――本当の核心だ。

 もしかするとファンゲリヲンすら知らない勇者の秘密を、爺さんは知っていたのかも知れない。

 爺さんには、オレの知らない秘密がまだある。


「なぁ。オレがホムンなんとかだっていうのは――どれくらい確実なんだ」

「いきなり話を変えるな。曲がりそびれてしまったではないか。慌てるな。今からそれをはっきりさせる」


 車はいつの間にか草原を抜け、小さな街へ入っていた。

 ファンゲリヲンは「その前に手紙を出さねば」と言いつつ、車を停め、窓から道端のポストに封書を投函とうかんした。


「――手紙?」

「そうだ。あのお方に助力をう用ができた」

「何のために!?」


 ファンゲリヲンはかすかに笑いつつ、質問に答えるつもりはなさそうだった。

 再び車を走らせ、いくつかこぎれいな街を走り抜ける。

 森、街、丘――車窓の景色はめまぐるしく変わる。

 そうして大きなアーチを持つ、メルヘンチックな街が見えてきた。


『ようこそ、童話の街ブルマンへ』


 古い街並みで、とても車では通れない。

 町はずれのガスステーションに車を停め、オレたちは徒歩に切り替えた。


「さぁ。夕方にはアムスタ入りを目指す。忙しくなるぞ。少し早いが昼食にしよう」


 ファンゲリヲンはアテがあるのか、先に立ってすたすたと街を歩いてゆく。

 メルヘンチック――かどうかはピンと来ないが、組石の建物はおとぎ話のように小さい。

 少なくとも派手な金色のアイマスクにマント――ファンゲリヲンは妙に溶け込んでいる。

 でもどうみたって――森の奥の風変わりな屋敷から出てきた悪い魔術師だ。

 思わずオレは笑った。


「――どうした」

「いいや、なんでもない」


 辿り着いたのは一軒の小さなレストランだ。

 ファンゲリヲンは『準備中』と書いたドアを殴る。

 するとドアが開いて、面倒くさそうな顔をした老人が顔を出した。

 鷲鼻。突き出した顎。これまたファンゲリヲンとは別の種類の悪役顔だ。


わりぃな。字が読めねえとは思わなかった。上にランチは十一時からだァて書いてあ――ファンゲリヲンか!?」

「久しぶりだな。近くへ来たので寄った」


 店の看板には『テディの肉屋』と書いてあった。




***




 何年もどこで何していやがった、とテディ爺は口汚く、それでも親しげにしていた。


「ジェミニといえばソーセージと思われているが、ソーセージの本場はソパだ」

「ソパ? 国か? どこの?」


 知らなくていい、と厨房からテディがさえぎった。

 ファンゲリヲンはよくわからない蘊蓄うんちくを続ける。


「拙僧はあちこち旅をしたが、肉料理といえばソパだった。だがある時、突然食肉を禁ずる宗教が流行って、がらりと変わってしまった。青臭い草ばかり食うようになってな」

「もしかしてあのオートライブっていうのは――」


 それだ、とファンゲリヲンはうなずく。


「拙僧は『そんなバカな話があるものか』と高を括っていたのだが――なぜかオートライブは大流行し、数年のうちにソパを制圧してしまった。深く落胆したものだ。テディのような肉屋は行き場を失くした。だからジェミニに亡命させたのだ」


 お陰で厳しい教義が人に与える影響というものを知ることができた――とも語る。

 そこへテディ爺さんが、前菜とパンとメインとデザートを同時に持ってきた。


「デザートは温まっちまうから先に食べな」


 なんて店だ。

 いつも悪いな、とファンゲリヲンはデザートをスプーンでひとすくいして食べる。

 何の疑問も持たないようだ。

 オレも食べる。

 丁度いい冷え具合のムースだ。

 ミントの香りが、まだ食べてもいない肉料理のしつこさを清涼にし、強い甘みと粒粒した香り高い何かの苦みと合わさってまだふくれていない腹を無駄に落ち着かせてくれる。


「このツブツブはなんだ」

「カカオ。チョコレートの原料だなァ。肉に合う」

「へぇ。たしかに。まだ食べてないけど」


 テディは厨房に戻るでもなく、椅子を引いてオレ達の隣に座る。

 まぁ自分の店なんだからどこに座ってもいいのだが、妙にオレをしつこく眺めていた。


「――しっかし驚いたなァ。お前にこんな年頃の息子までいたとは」

「息子ではない。人質だ。しかも賞金がかかった大罪人だ」

「ああ。パルマに帰れば投獄されて処刑だ」


 オレがそう調子を合わせると、テディ爺さんは驚いたようだ。


「こんな子供に酷ェ国だ。国が滅ぶぞゥ。そういやァノートルラントの民王はくたばったんだろう? あのろくでなしめ」


 ――にしてもまァた面倒を起こしてるなァ、とテディは呆れていた。

 続いて前菜のマリネに手を付ける。

 マリネというか、半端にさばかれた魚が一匹ドンと皿に乗って、レモンがその周りを囲んでいる。

 生っぽい魚の頭と眼が合って、オレの手は早速止まっていた。

 ファンゲリヲンによればニシンのマリネだそうだ。


「独特のエグみがあってなァ、若いもんは食わんわ。エグみを取ると次はいがらっぽい塩味えんみ。手間のかかる食材だァ」

「これを頭から丸々食うのがこっちの作法だ。この店では食べやすく開いてある」


 頭も尻尾も残っているのは、好みによっちゃ頭から食えるようにしてあるのか。

 マリネっていうとファサで食べた、虫がきそうなやつを思い出してしまう。

「ファサのと一緒にするな」と、オレの考えを読んだファンゲリヲンが渋い顔をする。

 気後きおくれしたが、食べてみると実にマイルドな塩味でパンも合う。

 ほんの僅かな生臭さも悪くなく、不思議と食欲を誘った。


「で、おれに用ってのァこいつをかくまえェとか、そんな話か?」

「違う。人質は拙僧が責任をもって預かる。この少年が、ホムンクルスかどうか見て欲しい」

「ああァ――そゆことかァ。パッと見ィそんな風にゃ見えねえけどなァ」


 メインのソーセージをかじりながらオレはいぶかしむ。

 ――なんだ。どういうことだ。

 この爺さんには、人かホムンクルスか、判断する能力があるのか?


「この少年は魔術が使えぬ。魔力を持たぬのだ」

「――本当かァ? ここの看板にはなんてェ書いてあった? 坊主、読めたかァ?」


『テディの肉屋』とあった。

 確かにここのソーセージは滅茶苦茶うまい。

 香草が練り込んであって香り高く、それが肉汁と一緒に弾ける。

 香りと旨味の野生の爆弾。

「店の名前が書いてあったけど」とそう答えると、テディは「あちゃァ。どうやら本当らしいなァ」と考え込む。


「この時間、あの看板にゃ『ランチは十一時から』と書いとってなァ。魔力がありゃァ普通は読める」


 なるほど。ベリルの酒場の看板と同じか。


「テディ、どうだ。何か判るか?」

「オーガニックな人間とホムンクルスの違いは肉質・・だァ。焼いて食ってみればァ間違いなく判る」


 オレはゾッとする。


「――だがそういうわけにもいかんしなァ」


 ホッとする。

 しかしファンゲリヲンは至って真剣だ。


「足の小指か、耳たぶなら――」

「耳たぶはダメだァ。耳たぶではわからん。足の小指なら、ソテーにしてまァ――」

「やめてくれ! 他の方法はないのか!」


 そんな都合いい方法があるものか、とテディは言う。


「魔力も肉質もアテにせんとしたら、もう親ァをとっ締めるか、よォく観察する以外にないわい。確度もずゥーっと下がるがな」


 観察。そんなことで本当に判るんだろうか。


もっとも観察と言やァ、日頃ホムンクルスをェでとるお前の方が適任だろうが」


 テディ爺さんはファンゲリヲンを見た。

 そういやファンゲリヲンは本物のホムンクルスを造ったことがあるようなことを言っていたが――。

 ファンゲリヲンは「さぁ」とでも言いたそうに手を広げた。


「判らぬな。成功例は一つだけだ。それもどれほど成功したのか知れぬからな」

「ほォか。尤もだわィ。なら残る方法は一つだ。ホムンクルス自身に判別させるゥ」

「ホムンクルス自身に?」

さい・・だァ。ホムンクルスどもはどうしたわけか、ホムンクルスを見分けることができるようでなァ。牛でも豚でも、人造品は同類・・を見つけると人造品だけの群れを作りよる。天然もんにはない特性だ。天然もんには、人造品を見分けられん」

「な、なるほど」


 いくら何でも家畜と一緒にされるのは微妙な気分だが、興味深い話だ。

 ホムンクルスなら、オレがホムンクルスかどうかを見極めることができる。


「――ならば丁度良い。拙僧の仲間と合流する予定があるのだ」

「お、おい、そんな話初めて聞いたぞ」


 てっきりブリタシア島までは他の勇者に合流しないと思っていたのだが。

 待てよ――とオレは思う。残る勇者は一人のはずだ。

 最後の勇者が来るのか――?


「安心せよ。つかいの者だ。勇者ではない。無論あのお方でもない。今は瑣事さじわずらわすことはできぬのでな」


 ファンゲリヲンはソーセージを食べ終わって満足げにしている。

 オレとしては途中から味なんか判らなくなったけども、うまかったのは間違いない。

 皿を片付けながらテディ爺さんが訊く。


「これからァどういう予定だ」

「ジェミニを出てアムスタだ。そこからフルシに行く」

「相変わらずだなァ。まっ、気が向いたらまた寄ってくれよォ」


 テディ爺さんはそう言って笑う。

 しかしファンゲリヲンは――曖昧あいまいうなずいただけだった。




***




 昨日の夜――『急な用事がある』とベリルを訪れたミーシャとサイラスが、火の女神フィレムを連れていた。

 どういうわけかポート・フィレムの宿無亭を訪ねてきたところで、二人と会ったのだという。

 フィレムが突然宮殿に現れたことで事態は急変した。

 神学者らは上へ下への大騒ぎとなり、ミハエラとノートンも対応を迫られた。


「スプレネム、壮健そうけんですか」


 入り江を訪れたフィレムがそう呼び掛けても、スプレネムは答えようとはしない。

 例の小屋のすみちぢこまり、おびえたようににらみつけている。


「フィレム様――スプレネム様は今、大変消耗しておられます」

「後見など、慣れぬことをするからです。自身の存在と争うのは容易ではなかったでしょう」


 ――よくやりました、と聞こえぬほどの小声でフィレムはねぎらった。

 結果的にフィレムと神学者の突貫のチームは、うまくいった。

 儀式を継続し、リンを光の神として着地させることができたのだ。

 リンは、子供が塀の上でバランスを崩すように急速に不安定化し、塀から落ちるように光の神へと転じた。

 ようこそ、重力井戸の底へ。

 軟着陸――。

 それを受け止めたのはフィレムだ。

 フィレムの後見によって光の神リンは安定した。

 それは神学者らが想定していたような仰々ぎょうぎょうしい儀式・・ではなかったという。

 大部分は、フィレムの腕の中で行われた。

 フィレムが抱えた、原初の量子状態のリンがかつて持っていた情報を取り戻し量子揺らぎを獲得する。

 物質的な誤差が取り除かれ、その姿を確定してゆく。

 リンは、かつてそうであったであろう幼気いたいけな、どこにでもいる七歳の少女の姿を取り戻していた。

 ――尚、記録によると誕生日を迎え、既に十五歳であるらしい。

 光に包まれた二人はまるで母と子であったと、神学総長ハイゼンベルクは語る。

 ハイゼンベルクたちも、ただ見ていたわけではない。

 フィレムが最善を尽くせるよう、火をき、並べ、それもスプレネムに悪影響を与えないように計算しながら――。

 彼らはぐったりと疲れ、安堵あんどしていた。

 それにしても妙なのは、スプレネムの変化である。

 スプレネムは当初、フィレムを威嚇いかくし、激しく怯えていた。

 儀式のあと、スプレネムとフィレムが二人で話をしているのを何人かが見ている。

 それは談笑というようなものではなかったらしいけれど、自発的にあの二人が接触するというのは極めて珍しい。

 歴史的、神学的にみても、彼女らには深いわだかまりがある。

 人々が直感的にそう信じるように、火と水――これは正反対だ。

 気ままに振舞うフィレムと、怯え続けるスプレネム。スプレネムの怯えの根底には、おそらくいやしの力を持ちながら不器用で誰も癒すことができなかったという、彼女の葛藤かっとうがあるとハイゼンベルクは見ている。

 その二人が――会話をしていた。

 ひとつ考えられる原因は、『電子の神』が降臨を果たしたという事実だ。

 ノートンは学生を前に大統一理論などとハッタリをかましていたが、電子の神の存在には大きな意味があったのかも知れない。

 水の分子間力も電磁力――静電相互作用によって記述できるし、火も激しい酸化力であると書ける。

 つまり電子の神には、身近な二つの相互作用をつかさどる神を、統合する力があったのではないか。

 神が人の姿をしているのは、人と自然界の力を結びつけるためであると神学者は考える。

 ならば神同士を結びつける力を表す神があったとしてもさほど不思議ではない。


(『量子スケールの神』――か。ノートンの奴め。まぁ、悪くはないんじゃないか)


 大賢者マーリーン――現在の電子の神クォータネムも徐々に安定しつつある。

 皇女やノートンと面会し、自らの死後、これまでの記憶を手繰たぐっているようだ。

 地上に降臨したばかりのクォータネムを、再びこちらのいざこざに巻き込んでしまうのにはハイゼンベルクは反対したが、何よりこれはクォータネムの希望である。

 それと、その名前は何とかならないのか。

 ハイゼンベルクはノートンに迫ったが、四元数がどうこうというばかりで応じない。

 ――むかしからそうなのだ。

 ひたむきに微分方程式に取り組むことをしない。近道ばかりを探して、遠回りをしている。

 いずれにせよかつての教え子は、今ひとつ大きな仕事をこなしたようである。

 小賢こざかしい男だ。

 ノートンの顔を見ながら、ハイゼンベルクはそう――安堵した。

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