34.4 「もう、ここで終わりにしよう」

 ミラが治療していた部屋の前は――それは凄惨せいさんな有様だった。

 あれだけ部屋の前で渋滞していたしかばねたちが、部屋の前の廊下に散らかって・・・・・いる。

 壁やら床やらを汚した大量の血も、死後十時間以上って色味に新鮮さがない。

 あまり気にしないようにしていたが――においもひどい。


「こっちだ! 急げ!」


 なか呆気あっけにとられても、あまりぼんやり観察している時間はない。

 ともあれ、オレ達はミラに招かれて部屋に踏み込んだ。

 二十体からの屍のり重なる部屋の前を抜けるのはそれだけでかなり大変だった。

 部屋の中には、更に十体ほどの屍が転がっている。

 足の踏み場もないし、扉ももう閉まらない。


「ミラ! 無事か!? よかった」

「ああ、スプレネムも無事だ」


 スプレネムはベッドの上で頭を抱えて小さくなっている。

 高齢の医者と、若くて気の弱そうな医者もいた。

 彼らはあり合わせの医療器具で、部屋に雪崩なだれ込んだ屍の襲撃にえたらしい。

 ベッド際には馴染なじみのある女の屍が倒れている。

 オフィーレアだったもの・・・・・だ。

 不思議と、サマスはあんなになってもサマスのままだったが――オフィーレアは別人のように毒気が抜けて見えた。

 多分気のせいだ。

 奴はミラを執拗しつように追ってここまで来たのだろう。


「外にサマスがいる」


 奴はまだ動ける。

 他の屍も大半はまだ動いているが――ピクリと動かない屍もある。


「ドレーンだ。この先生がみ出した。こいつを刺せば、奴らを動かす魔力を吸い出してただの屍に戻せる」


 サマスはまだ動ける。すぐにここに来るだろう。

 オレはミラからもらったその棒状の管を握りしめた。

 でも足元では――オフィーレアが動きだしている。

 トドメを刺していないのか?


「ミラ! 早くそいつにトドメを!」


 オフィーレアは低くうなりながら、上体を起こしつつある。

 オレは急いでそう叫んだのに――ミラはゆっくりと、オフィーレアのかたわらにしゃがんだ。

 スプレネムも、おどおどとしながらもベッドの上をって来る。


「オ、オオオオ、オフィ、オフィーレア」

「無駄だ! そいつはもうオフィーレアじゃない!」


 わかってるさ、とミラは言った。

 それはミラの――見たことのない表情だった。

 ミラはオフィーレアだったものに向かって、噛んで含めるように言い聞かせる。


「オフィーレア。あんたは人一倍信心深くて、誰より優しかった。あの日、あたいはあんたの信仰を傷つけた。思えばあれが始まりだ」


 グガァッ、とオフィーレアは吠える。


「あたいが許される道理はないね。あたいの復讐はまだ終わっちゃいないが、あんたの復讐は――もう、ここで終わりにしよう」


 ミラはオフィーレアに、彼女のナイフを差し出す。

 やれ――と言って、ミラはオフィーレアを抱きしめた。

 スプレネムは、遠い目をして指をくわえ、それをながめている。

 オフィーレアはナイフを手に、握り締める。


「ミラ、ダメだ! 止せ!」

「ミラ君!」


 ジャックとノートンが叫ぶ。

 すぐには動かなかった。

 ナイフを持つ手が、激しく逡巡しゅんじゅんしている。

 刺すか。刺さないか。

 死霊も戸惑とまどうのか?

 彼女のたちの間に、かつて何があったのか知らないが。

 オフィーレアは、一人ではない。

 たぶん彼女の心――それがまだあるならば、教団よりも複雑に引き裂かれている。

 オレは彼女をミラを殺そうとしたと断罪した。

 それもまぎれもない事実だ。

 でも同時にオフィーレアは、きっと全然逆の感情も持っていたのじゃないかと思う。

 オフィーレアは――床をまさぐり、それを掴み、握りしめる。

 それを振り上げ――。

 自らのくびに刺した。


「グギャッ」


 彼女の頸に刺さったのは、黒曜石のようにきらめく棒状の魔力ドレーン。

 その先から、血のようにヴォイドが流出してゆく。


「オフィーレア!! なんでだ!!」


 ミラの悲痛な叫びが響く。

 ミラは、そのドレーンを引き抜いて彼女の頸の傷を押さえる。


「なんでだ……」


 それでもオフィーレアは、心なしか満足げに崩れ落ちていた。

 ミラは、屍をいたわるように片腕に抱き、片手をそのほおに添えて、そっと横たえてゆく。

 オレからミラの顔は見えない。

 でもオフィーレアには――きっと彼女が求めていた表情のひとつが見えているに違いなかった。


「ノウェェェッ」


 サマスの声がした。

 振り返ると、部屋の入り口にもたれて、奴は立っていた。

 外れたあごに、狂った笑顔を張り付かせてだ。

 スマイリー・サマス――空気を読まない奴だ。

 オレは右手に剣を、左手にドレーンを握り締める。

 斧を手にしたロウが前に出るが、オレはそれを制して入り口のサマスに向きあう。


「そいつの狙いはオレとスプレネムです。オレがやります」

「ノヴェルさん、無理しないでください!」

「ここはもう聖域だ。門番役をやらせてくれ」


 ここは聖域だ。

 血まみれの死体だらけだが――たった今、ここは彼女たちの聖域になった。

 やってやる。

 オレは剣を大きく振りかぶって奴へ向かった。

 振り下ろす。

 奴は素手でそれを受ける。

 剣は奴の手を斬って、止まった。

 そのすきを突いて、オレは左手に握ったドレーンを突き出す。

 真正面から、奴の胸元を狙って――。

 刺した。

 奴の胸のド真ん中、気管支のあたりにそれは刺さる。

 コオオオッ! と音がしたが、そこからは何も出てこない。

 平然と、サマスはわらっている。


「――!?」


 効かない――!?

 オレが硬直していると、横からジャックが飛び込んできた。


「それじゃダメだ」


 ジャックはオレの刺したドレーンを、更に深く突き刺す。

 ドレーンからヴォイドが流れ出した。

 サマスは嗤ったままだ。

 嗤ったまま、刺さったドレーンを押さえている。

 抜こうとしても、手が血で滑ってドレーンを引き抜けない。

 ――勝った。

 そう思った――が。

 サマスは血まみれの指をひろげ掌底を自分に向けると、そのドレーンを思い切り深くまで押し込んだ。

 ドレーンは背中に突き抜けたのか――ヴォイドの流出が止まる。


「まずい! 離れろノヴェル!」


 ジャックの声でオレは半歩後退あとずさる。

 サマスも元医者なのだ。人体の構造には精通していた。

 もう一回だ! ――ジャックはそう叫ぶ。

 しかし。

 サマスは狂った笑いを張り付けたままで――何かを観念したように天井をあおぎ見た。

 部屋の中をぐるりと見まわすと――サマスはそのてのひらをこちらへ向けて拡げた。

 血とヴォイドにまみれた掌だ。

 そこに、黒い力が渦巻いてゆく――。


「伏せろ! 魔術だ!」


 オレは一瞬だけ振り向く。

 俺の真後ろにはベッドがあるのだ。

 そこにはミラとスプレネム。

 ダメだ。

 ――ミラはオフィーレアを抱えているし、スプレネムは座り込んでいる。

 オレはかわせても彼女たちには直撃してしまう。

 オレは――飛び出していた。

 サマスの腕に飛びつくと、その向きは上へ下へと暴れる。


「やめろ! くそっ!」


 サマスの掌の黒い輝きは止まらない。

 下向きに――光球が飛びだした。

 それは大きな火球となって、床を直撃する。

 轟音ごうおん

 蒸気と炎で、一瞬目の前が真っ白になった。


「アアアアアアアアアアアッ」


 スプレネムが叫ぶ。

 床に穴が開くほどの威力だった。

 それだけじゃなく――床に炎が広がる。

 流れ出したヴォイドが燃料のように燃え上がって、一瞬にして部屋を火の海にした。


「退避! 全員逃げろ!」


 魔術を使い、体内のヴォイドを使い果たしたサマスは炎の中に崩れ落ちてゆく。


「生理食塩水を!」


 医者が、手にした液体入りのバッグと魔術を駆使して入り口までの炎をあおる。

 一際ひときわ激しく炎が渦巻いたが、それはすぐに収まり、少し小さくなった。

 到底消しきれはしないが――。


「今だ! 早く! スプレネムを!」


 ロウがスプレネムを抱えて、入り口から脱出する。

 医者二人とミラがそれに続く。

 ノートンが先に出ろと合図をするのでオレが出ようとすると、炎の中から燃える屍がオレの脚をつかんだ。

 その腕をフランツが踏み潰して、オレとフランツが脱出する。

 ノートンとジャックも出てきた。


「――ああっ、俺の家がぁぁ」


 ジャックが振り返って情けない声を出した。

 客室は炎に巻かれ、火の粉を散らして床が崩落する。

 そこに僅かな間だけ存在した聖域を、オレ達は確かに見たのだ。

 先に階段を下りて行ったノートンが、再びバタバタと上に戻ってきた。


「下からも煙が上がってくる! 奴らは自暴自棄じぼうじきになったのか!?」


 人間は火事で殺せても、女神だけは燃え残るかも知れない。

 しかし魔術を使えば奴らも消える。

 これは――確かに最後の手段だ。

 サマスがやったのだから他の者も続くだろう。


「吹き抜けだ! 吹き抜けを目指せ!」


 階段をあきらめ、元来た廊下を走って戻る。

 吹き抜けからロビーに下りられれば、玄関はすぐそこだ。

 オレ達が走り抜けたすぐ後ろで、次々と部屋の扉から火の手が上がり始める。

 熱い。

 煙もどんどん濃くなってゆく。

 そして――辿り着いた吹き抜けも――。


「ダメだ! 吹き抜けも燃やされている!」


 下に残っていた屍だろう。

 火魔術を使って火をつけまくった後だった。

 一階は火の海で、足場にした高級な家具が紅蓮ぐれんの炎を噴き上げている。

 熱気は上昇気流を伴うほどになっていた。


「くそ! ふざけるなよ!? 俺の家なんだぞ! くそっ!」


 ジャックはせっかくの豪邸がなくなりそうだが、逃げ道がなければオレ達は全員ここで家を焼くまきになる。

 ガラガラと、屋根が燃え落ちて背後の二階廊下が潰れた。

 吹き抜けの回廊も、端からどんどんと崩れてゆく。

 もう戻ることも進むこともできない。

 万事休す。

 そのときだった。


「イイイイイイアアアアアアッ!」


 スプレネムが叫び声を上げた。

 見ればもう、ロウに支えられていない。

 女神は二本の脚で、自ら立っている。

 初めて見るスプレネムの姿だった。

 女神は両手を広げ天を仰ぐ。

 燃え上がる床も、落ちてくる瓦礫がれきもものともせず――そこにはたしかに、女神がいた。

 水の女神、スプレネムだ。


「アァアァアウゥウォォォォオォオォオォッヤッヤッ!」


 いつもの奇声とは少し異なる。

 それは微妙なビブラートを伴って、やや荘厳そうごんな響きを持っていた。

 祈りだ。

 これは――女神の力。

 急に、足元がぐらついてオレは飛び退いた。

 ついにここが崩れるかと思ったのだ。


「――なんだ!? 地震か!?」


 家全体が揺れている。

 にわかに倒壊が加速する。

 次の瞬間。

 ドドドドドドと轟音がした。

 水だ。

 空から大量の水が降ってくる。

 あっという間に、前も見えないほどの水量になった。

 熱気を吹き飛ばすほどの水量だ。

 オレは――押し流されないように壊れかけの手すりに片手で掴まって、空いた片手を伸ばして誰とも判らない手を掴んだ。

 その誰かはきっと別の誰かの手をつないだだろう。

 その先の誰かもだ。

 轟音。

 濁流だくりゅう

 水蒸気。

 やがて水がんだ。

 蒸気がだいぶ上がってはいるが――茹で上がるほどじゃない。

 炎は消えていた。

 ちんたらやっていたらオレ達全員が蒸し焼きになっていてもおかしくなかったのに。

 あの大火事を一瞬で消してしまうほどの、壮絶な量の水が天から降り注いだのだ。

 これがスプレネムの力。そのごく表層。


「た――助かった――のか――!?」


 信じられない。

 助かったなんて実感はまったくない。


「俺の家が! 燃えちまった!」


 半焼で済んだだろうか。

 天井が落ちてくるくらいだから全焼な気がするんだけど――。

 そのときまた家全体がグラリと揺れた。

 うわああっ、とフランツが蒼白になって叫ぶ。

 ドゴォンと凄い音がして、吹き抜けの壁が倒壊した。

 外が見える。

 東の空が少しだけ明るい。

 陽が昇るにはまだ少し早いだろうか。

 とにかくオレ達はまだ生きている。

 スプレネムもミラも死守した。

 ようやく実感が沸いた。

 オレ達は――生き残ったんだ。



***



 陽が昇ると被害の大きさが明らかになった。

 さすがは貴族の家というべきか、あれだけ激しく燃えているように見えたのに無事なところは無事。

 ただ――地盤は壊滅していた。

 オレ達が家だと思っていたそこは、いつの間にか沼に浮かんだ島になっていたのだ。

 スプレネムの起こした『奇跡』によって、延焼は食い止められたが敷地は丸々沼になっていた。

 地下室は完全に水没。

 フランツの見立てによると、燃え残った部分も倒壊秒読みであるらしい。

 とりあえず生き残ったはいいけど、そんなところに取り残されちゃって――。


「ははぁ。これが女神の泉なのですか。泉というよりは沼のようですが」

「なんだ、ロウ君。思っていたより……大きいか?」


 ノートンが笑いをこらえてそう言ったが、ついに噴き出した。

 ジャックは「どこが笑えるんだよ」と、こちらは完全に燃え尽きていた。

 実際笑いごとでないのも確かだ。

 ロウの部隊もフランツの他、ロビーから脱出していたビルとジョン、オッカム、ハンロンは無事だったがローリングは重症だ。

 医療班四名のうち二名は死亡した。

 ミラとスプレネムは少し離れたところに座って、静かに遠くを眺めている。


「いや失礼した。私は責任者。事態の重大さは百も承知だ。だが――これだけの奇跡をの当たりにしてね、なお無事な人間がこれだけいるのだ。少し違った視座しざを得た気分だよ」

「視座。視座ねぇ。いいよ。笑いたきゃ笑え」


 ジャックが放り投げた石は、夜までは庭だった沼にボチャンと落ちた。

 ノートンの言うのも少しは判る気はする。

 笑うしかないよな。

 オレ達は沼の孤島に取り残されて救助を待つ身なんだし。

 辛気しんき臭くしていても気分が滅入めいるだけだ。

 背後でガラガラと音がして、また少し家が崩れた。

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