33.2 「鏡を見てみろ。狂信者の貌だ」
いよいよリンを戻すときがきた。
二つ並んだ女神の泉。
オレの目の前には、花瓶を置くような狭いテーブルと、その上の小さな機械が一つある。
暗い部屋だ。壁すら闇に溶けて、広いのか狭いのかもわからない。
これは何だ! と
『スイッチだ。押せ』
たぶんノートンの声だ。通信機を介したときと同じ、くぐもった声だった。
「――いいのか?」
オレは
これを押すと何が起きるんだ。何の説明も聞いていないぞ。
「
背後から、ミラの声がした。
肩越しに振り向くと、後ろにジャックもいる。
「魔術も使えない。剣もいまいち。役立たずのお前でも、スイッチくらい押せるだろ?」
――わかったよ。押せばいいんだろ。
オレはおそるおそる――スイッチを押す。
カチリ。
すると同時に、どこからか女の悲鳴が聞こえた。スプレネムの悲鳴だ。
息を呑む。
突然、目の前がパッと明るくなった。
オレは手を
リンだ。天井と床から
その手足だけはまるで
「――ありがと、お兄ちゃん。神様になったよ」
リンは笑った。
オレは立ち尽くす。
こんな――こんなことは――。
いつの間にかミハエラ様が現れ、オレとリンの間に入る。
「ご苦労でした。我々は神を手にしました。無力とはいえさすがは大賢者の
輝く泉から爺さんが起き上がった。
それは首を深く噛まれた、あの偽マーリーンの姿をしていた。
「なんてことをしてくれたのだっ!! この愚か者めっ!!」
「うわあああああああっ」
オレは飛び起きた。
――夢か。
ジャックの屋敷。その一室。
スプレネムを保護したオレ達は、まず司令部のここまで引き返してきた。
まだ一日しか経っていない。
ミラの治療は続いている。
***
「皇女陛下。昨日、ノートンとその部隊がスプレネムを無事確保したようです」
報告の日付は昨日。連絡が届いたのは早朝であった。
「――そのようですね」
「皇女陛下――?」
カーライルは、椅子に座ったままの皇女ミハエラを横からそっと盗み見た。
もっと喜ぶと思ったのだ。
ミハエラが喜ぶから、カーライルは
こんなことならもっと嬉しそうに言えば良かった。
『皇女陛下! お聞きください! ノートン達がやりました!』
――
そうしたことはあの少年たちの役回りだと、カーライルは心得ている。
そこで、ミハエラが一通の手紙を持っていることに気付いた。
「カーライル。つい先頃、情報局の経由でこれを受け取りました。ファサ国の使者からです」
「ファサから? その手紙は、私が見ても――?」
勿論です、とミハエラはそれを渡してきた。
ファサは、パルマ皇女の部隊が国内で活動したことを関知していた。
部隊が国境を通るのだからそれは当然、昨日の早いうちには通告していたのだ。
作戦目標についても知らせてある。手抜かりはない。
だが文面は――ファサ国内の宗教施設を襲撃し、民間人を傷つけたとしてかなり高レベルの抗議を匂わせていた。
「い――言いがかりです! 事実ではありません! このような報告は受けておりません!」
「
「では、何を」
「続きを読んで御覧なさい」
『貴国との関係を害する意図はないと知れたし。しかし
――何だ、この投げやりな文書は。
早い話が、国としては知らないが『当事者』が行くからそっちで何とか収めてくれということだ。
確かに外交問題にする意図は見えないし、これなら公式の外交ルートを避けて送ってきたことも
「談話とは――彼らの条約違反は明らかです!」
「ファサは国としては関知しないとの態度でしょう。ある程度覚悟はしておりましたが――ややこしいことになりました。このままでは我々がスプレネムを独占しているとの批判を
「神性へのダメージが
「スプレネムの証言があればよいのですが――」
ミハエラは疲れ切った様子でそう
それは難しいだろうなとカーライルは思った。
「――善処いたしますが、なにぶん」
「難しいでしょうね」
ミハエラは途中まで
「ジャック達に
パルマに女神スプレネムを呼び、新たな泉を
空いた泉にリンを入れ、状態を維持したまま神格を分離させる。
かつて誰もしたことのない、神の分離手術が始まるのだ。
***
「まだあんな調子か?」
階段を降り、オレは地下に居たジャックとノートンに声をかけた。
「地下から出てまた地下。スゴい思いして助けたってのに」
「仕方ねえだろ。本人がここがいいっていうんだから」
「言ったわけではないがね。スプレネム様は共通言語をお話しにならないのか?」
「何ヶ国語か試したがどれもダメだ」
スプレネムは、地下室の隅に小さく――転がっていた。
頭から水をかぶって、黒い髪も服も濡れそぼったまま、折り曲げた
「――どう見てもトレスポンダ卿の拷問の犠牲者だ。神様には見えん」
「人聞きの悪いこと言うな。
「余程人間が嫌いなのだろう」
人間嫌いの神様――。他の神様とも
十年以上信仰されるのを
それがスプレネムだ。
「まぁ、ここだってあの地下よか過ごしやすいだろ。水だってあるし」
「あの教団の地下では生かさず殺さずの塩漬けだったからな。彼らの準備が整うまであのままだっただろう」
準備? とジャックは
「自分たちだけの神を
オレはそれより、早くリンを助けたい。
「ミラとなら話すかな?」
「いや――それは余計にダメかも知れない」
「余計に? 余計にってどういうことだ」
「ミラ君から聞いてないのか。我々もあの教団について調べた」
「他にすることがねえからな」
ジャックが嫌味を言うと、ノートンは心外そうにした。
「君達が潜入しているときから調べていたのだ。私は、あれの元信徒という者に接触した。パルマではあまり聞かない、宗教というものについても少し理解が深まった」
女神は――魔術を提供するものであって、救いを提供するものじゃない。
それは前にも聞いたことだ。
女神への信仰は自然信仰であって、人を絶望から救うようなものではなく――。
まぁ、目の前で縮こまってる神様を見れば
「死の恐怖からの『救済』だろ? 前にも聞いたが、よくは判らん。パルマあたりじゃ死人は焼いて海に
「それも儀式に過ぎんよ。死後の世界があるとか、復活を待つとか――本当の救いは、祈り
祈る相手――なるほどなぁ。
目の前のスプレネムは、とても
だから奴らは自分たちだけの神を考えだし、教義だってその神を中心にしている。
でもそれだけでは飽き足らず――神を造ろうとしたのだろう。
サマスも言っていた。
どこかに行ってしまわない神が欲しかったのだと。
言い換えればそれは、彼らはスプレネムを失って深い絶望を得た――ということだ。
アレンバラン卿あたりはスプレネムを信仰していたらしいし。
初代教祖のヘイムワース卿が「女神を捨てろ」と言ったのに、彼らはまたどこかで頼ってしまったんだろう。
ところで人間は死んだ後、地獄に行くんじゃないのか?
「待て待て。死んだ人間は地獄へ行くんじゃないのか? 爺さんがそう言ってた」
「まぁ、ガキを叱るときはそう言うよな。でもそれだってどこかの宗教の受け売りだぞ」
「違うのか? じゃあどこへ行くんだ?」
ノートンもジャックも「さぁ」「死んだことはねえから判らん」と小首を
「だがそう、あの『神と人々の家』だって受け売りで出来ている部分が殆どだ。あの十字シンボルもそう。礼拝の内容もそう。それに――オートライブか? それは西方小国の仮想的絶対神の名だ。野菜じゃない」
寄せ集めの教義。
あの教団については判らないことだらけだ。
サマスが何か言っていたが、
一番判らないのは――なぜミラを狙ったのか。
スプレネムのことと何か関係があるのだろうか?
もっともそれはもう、どうでもよいことだ。
あいつらが何を考えて何をしようとしていたかなんて、もうオレ達には関係ない。
「ノートン室長――」とロウが階段の上から呼んだ。
地下室に通ずる扉に隠れるようにしてこちらを見ている。
ロウの姿を見ると女神様はやや錯乱するらしい。ロウも部下を殺されている。
上で話そう、とノートンとジャックは階段を上がり始めた。
「室長。ミハエラ様から通信を受けました」
ロウが耳打ちすると、ノートンは階段の途中で足を止め、「やれやれ」とこちらへ向き直った。
「ファサから例の教団が、国境を越えて来るそうだ。昨日の作戦について、皇女陛下に抗議するらしい。ノヴェル君はまたあとで。ロウ君、詳細を報告したまえ」
「――ミラの様子を見て来る」
オレとジャックはそのまま地下を出て二階に上がり、ミラの部屋に入った。
医療班が二十四時間交代で治療にあたっている。
快方に向かっているのはオレでも判った。
「ミラ、調子はどうだ」
「変な夢見ちまったぜ」
オレはどきりとした。
「夢――?」
「ああ、昔の夢だ。オーシュの中でも、そんなのを見た気がするぜ」
ミラにはオフィーレアのことを話せていない。
それでもぼんやりと覚えているのか、彼女の口からオフィーレアの名が出ることは一度もない。
「リンちゃんを助けられそうか?」
「ああ。ベリルからの話だと小康状態らしい。スプレネムの力が戻ったら、何としても協力してもらうつもりだ」
「――神様はわがままだぜ。お前みたいなガキに乗りこなせるのかよ」
「でも気まぐれだ。何とかしてみせる」
生意気言うようになりやがって、とミラは笑った。
「ミラ。あのオフィーレアって奴は」
ああ――と、ミラは何か観念したようだった。
「全部あたいと、親父のせいなんだよ。……悪かった。お前らには話しておくべきだったぜ」
十二年前。
彼女が十四歳の頃のある晩だったそうだ。
親父さん、つまりヘイムワース卿は前日から戻らなかった。
当時既にあの『神と人々の家』の教祖だったはずだ。
心配したミランダは、「決して来てはいけない」と言われていた町外れの共同墓地に探しに行った。
「親父がそこにいるってことだけは、察しが付いてた。『
ある日ミランダは、父からする死人の臭いに気付いていた。
家が診療所だ。その手の臭いに、彼女は敏感だったんだろう。
その臭いは日に日に強くなってゆき、父が戻らなかった日の晩に――。
「どうなってたと思う? 屋敷を出た瞬間に、煙が
それは、教祖の手で行われた。
ヘイムワース領の町、ペニーは――歩き回る死者たちによって破壊されていたのだ。
ヘイムワース卿は領民を大量に殺害し、死霊術で動かした。
なぜそんなことをしたのか、ミラにはわからないという。
「ともかく、生き残った奴の中に、火魔術を暴発させた間抜けでもいたんだろうな」
町も森も、そこら中が燃えて、今まさに燃え落ちてゆくところだった。
ミラは命からがら逃げ延び、以来国に戻ることはなかった。
「親父さんは?」
「さぁな。風の噂じゃあそこで死んだらしい。あの晩、森の共同墓地で――」
思えばミラは――最初に出会ったときからずっと死霊術を毛嫌いしていた。
サマスによれば、生き残った教団はアレンバラン領に逃れることになる。
その先は、ミラに聞いても判るはずはない。
それでなぜオフィーレアがなぜミラを恨むのか、それともただの逆恨みなのか――。
そのときだ。
会議中のはずのロウが飛び込んできた。
「ノヴェルさん、至急一階本部へ。ノートン室長がお呼びです」
――何があったんだ。
オレはロウの後を追って階段を駆け下りた。
無駄に長くてつるつるする廊下を走って、開けっ放しの入り口に飛び込む。
ジャックとノートンは、大きな窓の外のテラスで遠くを見ていた。
ノートンは双眼鏡を手に、火の付いていない煙草を
「ノヴェル。アレを見ろ」
ジャックの指し示した方を見ると、道の向こうから集団がやってきている。
真っ白い服を着て、大きな横断幕や立て札を持った連中だ。
「あれは――『神と人々の家』!?」
「見たところそうだな。なんて書いてある?」
双眼鏡を
「――ファサ語だ。ええと『逆らって、私たちのもの、ここの――ここへ――』」
「判らねえよ。ちゃんと訳せ。情報室長だろ」
「語順が苦手なのだ!」
ノートンは乱暴に双眼鏡を押し付ける。
ジャックがそれを覗いて、眉根を寄せた。
「『パルマ皇女に抗議する』とか『神を戻せ』とかって――ん? 待て。『ノウウェルを返せ』――だと?」
ノウウェルはオレの偽名だ。
待て。待ってくれ。なぜ奴らがオレを。
なぜミラでなくオレを――。
****
サマスはジャック邸の応接室に座っていた。
サマス一人だ。
低いテーブルを挟んだ反対側で、ジャックは足を組んだ。
「怪我のほうはもういいのか?」
「ええ止血しております。浅かったもので」
その節はどうも、とサマスは笑った。
ジャックが踏み込んだとき、床で四つん
ミラの救出を
「トレスポンダ騎士爵だ。国境を超える
「またまた。ここに隠しておるのでしょう。スプレネム様と、ノウウェル様を。皇女陛下ではなく、騎士爵様が」
「答える必要はない。交渉にも応じない。さっさと信徒を連れて出てゆくがいい。ここに居ても時間の無駄だ」
「そうは参りません。我々にも、大願がかかっております。これが最後の機会」
「大願とは何だ」
ジャックは足を組み替え、腕を組んだ。
サマスはソファの上でやや身を乗り出すも――小さく笑う。
「――それこそ答えることはございません。宗教上の問題です」
「ふん。構わん。こっちも関心があって訊いたわけじゃない」
ですが――とサマスは再びソファに背中を預け、膝を叩いた。
「こちらにも覚悟がございます。どうしても交渉に応じていただけない場合――そのときは――」
「――なんだ。いやに
「――御領内、お宅のお庭で、信徒全員を道連れに、集団自殺を決行する覚悟です」
なんだと、とジャックは腕を解いて額を揉む。
「――交渉には乗らんと言ったはずだ。特にそういう、
「果たしてそうでしょうか。口数が増えていらっしゃいますよ。お庭で信徒が死ぬのは避けたいのでは?」
「……」
正直なところ、ジャックにとっては本当にどうでもよいことである。
だが今、彼にもミハエラやシドニアから受けた名誉がある。
彼の名は、もう彼一人のものではないのだ。
「どうでもいい」
「そうですか。ならば我らもすぐに自決致しましょう。元より帰路はないつもりでおります。ここには、覚悟した者だけで参りました次第」
サマスは立ち上がろうとする。
「待て――お前は、訊いたところじゃ、元医者なんだろう? 今だってたかが寺男だ。自分が何を言っているのか判ってるのか」
「そう、元・医者です。医術とは
――聞いていたのと違うぞ。ノヴェルの話じゃ、もう少し話せる奴かと思っていたんだが。
ジャックはそう心中でごちた。
「結構だね。見上げた決心じゃないか? だがそこで鏡を見てみろ。狂信者の
「決して言いますまいな。動物に注射を打って、効きをみていた頃の私には理解できないでしょう。なぜなら我々は――運命共同体。家族を救うのに、なぜ小さな犠牲を
これはダメだ――そうジャックは観念した。
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