Ep.33: 離別
33.1 「わたしは見逃さない。一秒たりともね」
ようやく見つけ出した女神の姿に、オレは少しだけ意表を突かれていた。
拷問のような扱いもそうだが――その
女神様にこれだけの敵意を向けられてオレがまだ無事ということは、この女神にはもう何の力も残っていないってことだ。
消えずにいるのだけでやっと。
そんな印象を受けた。
「オフィーレアさん! サマスさん!」
サマスがオフィーレアをきつく抱き締めていた。
オフィーレアはさめざめと泣いている。
「おお、神よ」
――まさか。
「おいっ! ミラは!?」
「ノウウェルさん! ミラさんは――持ち
よかった。
でも。
「薬――オフィーレアから聞いてないのか? 全滅だ! 倉庫の他にどこにある! どうやって作る!」
全滅? とサマスは眉をこれ以上ないほど釣り上げ、悲壮な顔をした。
「そんなバカな――倉庫には鍵が、鍵は私が。昨夜一度開けましたが、そのような報告は――」
「それはあとだ! 薬は、薬はないのか!」
サマスは顔を伏せ、少しだけ何かを考えると「お待ちください。どうか時間を」と言い残し部屋を出て行った。
ドアの向こうで、
室内は静かで、ミラの荒い呼吸だけが途切れながら聞こえている。
オレはオフィーレアを見た。
彼女は肩を落とし、また
ベッドの横に座ったまま、ミラをじっと見守っていた。
ミラを、一瞬たりとも見逃すまいと、そんな様子で――。
やがてサマスが戻った。
「
手に注射器を持っている。
オフィーレアが立ち上がった。
「すぐに効果があるかはわかりません。馬から作った薬です。ミランダさんの頑張りと、我らが神のご加護次第です。これで効果があればすぐに二本目を打ちましょう」
慣れた手つきで、サマスは注射器に薬剤を注入してゆく。
開いたままのドアから、野次馬達が心配そうにこちらを
「経験上、この風土病は土から感染します。土の中に、きっと小さな病原体がいるのでしょう。我々には見えませんが、かつてこの地にいた名医はそれを発見し、ボツリナムと名付けた。彼こそ我々の始祖です。そしてミランダの父上です。やがて彼は失われたが、名声を
「サマスさん、あんた一体」
「私のことではありませんよ。昔取った
サマスが注射器を
そのときだ。
背後で、扉が閉まる音がした。
室内がぐっと薄暗くなる。
背後から迫る薄闇――
スッと現れた影が、まるで熱烈な
「――?」
二つの影は少しの間そうして――やがて離れた。
背後にいたのはオフィーレアだった。
「オ、オフィーレア――? 何を」
その手から注射器が滑り落ちた。
すかさずその注射器に足が振り下ろされ――それはズドンという音と共に――。
「へ――?」
オレはきょとんとしてしまった。
何が起きたのかわからない。
少なくとも注射器を踏みつけたのは――オフィーレアだった。
手には、オレが見つけた小型ナイフが握られている。
ナイフは、サマスの血に汚れていた。
「神はお
何が。何が起きた。
こいつは何を言っている。
ミラは――死ぬべきだと?
「オ――オフィーレアアアアアッ!」
オレは
ナイフを叩き落し、ベッドの下に蹴り入れる。
オフィーレアの頭を
「どういうつもりだっ!!」
オフィーレアは声もなく静かに
「や……め……ろ……」
苦しみの声を上げたのは、オフィーレアでなくミラだった。
「ミラ! どうしてこいつを
こいつは。
思えば畑でミラが
その後なぜかミラの傷口には土がついてた。
そしてこの女の服には、妙なところに血と土――それを
こいつは汚染された土を握ってミラに駆け寄ったのだ。
『さぁ、すぐ手当てを』
それをミラの傷口に塗り込んだ。
あのとき一瞬だけ、ミラは痛そうにした。
『あら、ごめんなさいね。さぁ、手当てに行きましょう』
感染したのはそのときだ。
こいつの手は血と土にまみれ、それを自分の尻のあたりで拭いた。
それだけじゃない。
他の女から庇っているように見えたのも、ミラを逃がさないため。
昨夜の騒ぎにしたって、そんな汚染土で育った作物を無害化する下処理だったに違いない。
他の者達からすれば当然の処理――それをこの女は邪魔した。
ミラの口に入る作物を、有害なままにしておきたかったからだ。
倉庫の謎も、こいつが犯人なら何の不思議もない。
一番に飛び込んで、薬を壊すだけ。
後からオレが追ったから、慌てて取り乱して
そのままでは床の濡れ具合、
オレは、床を
今にして思えば、あの台車の下は塗れていなかった。
薬が破棄されたのは、どれだけ
気付けたかも知れなかった。
一瞬でも早くオフィーレアを疑っていたら、オレはこいつを
でもなぜなんだ。
なぜこいつはミラを――。
オフィーレアは、頭を押さえたまま床に座り、壁に
「ミランダは、ここで死ぬ運命なの」
オレは――指の間に残ったオフィーレアの髪を取りながら、呼吸をしていた。
しばし忘れていた呼吸を始めて、なんとか次の手を考える。
そうだ。
通信機を探すんだ。
ジャックに連絡し、ノートンを呼んでもらう。
ぐぐぐ、とハマスが床で苦しそうに
背中から出血して、白衣が見る見る血に染まってゆく。
「――クソッ!」
オレは悪態をつき、ベッドの下からナイフを取り戻すとシーツを引き裂いた。
出血を止めなければ。
サマスに死なれたらミラの治療を継続できない。
「オフィーレア……なぜなのです。始祖ヘイムワース卿がご乱心なされたのはミランダのせいではありますまい。あなたの御父上……アレンバラン男爵のこととも……」
教祖、ヘイムワース卿が――乱心?
「な、なにを言っているんだ……? 喋るんじゃない! 血が出る!」
「何故なのです、オフィーレア……。ノウウェルさんも……聞いてください。わ、我々は……確かに険しい道の上にいます。始祖が事件を起こされ、お亡くなりになった後、我々は、アレンバラン領で助けられました……。我々には医術があり――」
ヘイムワース卿は医術と女神を捨ててこの宗教を作り出した。
それが人の救いになると考えたのだ。
ハマスによると、当時診療所の医師見習いだった彼もヘイムワース卿に従った。
でも――ヘイムワースは突然乱心したのだという。
彼は地位も教団も全てをかなぐり捨て――。
残された信徒は、アレンバランに拾われた。
「表向き、もう捨てたはずの医術を提供することで、我々はこの土地へ受け入れられた……。しかしそれが、
そこにある男が現れた。
男は教団のことを何もかも知っていて、信徒の顔も一人一人知っていて、
「ファンゲリヲン最高司祭様――あのお方のお導きで、我々は、古き女神を離れ、医術を離れ、新たなる神の元へ、その道筋が――」
男の名は――
「ファ――ファンゲリヲン! この教団は――勇者が引き継いだ教団だっていうのか!?」
引き継いだのか。
乗っ取ったのか。
「
教団は真っ二つに割れたのだそうだ。
原義に従い、神と医術を捨てた宗派。
医術を捨て、神を拾おうとする宗派。
そしてこの
「特にオフィーレアさん。あなたは――そのために全てを許し、何もかも捨てて尽くすと」
サマスはそう言いながらも震える手で自分の
オレはそれを手伝う。
彼の指は、鞄から薬の入った
薬はまだ残りがある。
「他に注射器は」と
オフィーレアに踏まれたものが最後だったのだ。
彼女は
しかし彼女の独白は、オレには意味のわからないものだった。
「――分派に父が殺されたのは仕方のないことです。父は私たちを
オフィーレアはミラを見ていた。
おそらくずっとそうしていたのだ。
「あなたは別なの。あなたがこの地で
第二次征東戦線。
こいつはそこで何を見たのか。
ミラに、ヘイムワース卿に何をされたのか。
反医術――つまりこれは、言うなればそういうものなのか。
医術の不完全さへの恨み。それが教義や支持を得て、『神と人々の家』の中で育った。
そうだとして、オレはこいつを許さない。
立ち上がろうとしたとき、サマスがオレの服を引っ張った。
「ノウウェルさん……。注射器を。隣の町へ行って、注射器を――」
なんとか止血はできた。
たぶん――だ。手足の止血とは訳が違う。
そのとき、部屋の扉が乱暴に開いた。
「叔父貴! 外に変な奴らが――ウッ」
入ってきた男は、中の惨状を見て思わず
「ハリー……どうしました」
「大勢の――まるで軍隊だ! たぶん先月、滝を襲撃した連中だ!」
ノートン!
オレは机まで走り、中に隠した通信機を確認した。
ランプが点滅している。
オレは通信機を手に、ノートンを呼び出した。
「ノートンさん! オレだ! 来たのか!? ミラが大変なんだ!」
『ノヴェル君! たった今到着した。昨夜ミラ君から要請を受けた。君が倉庫でスプレネムを見つけたと』
昨夜。オレが箱に入って倉庫に向かっていたときだ。
ミラの奴――とっくにオレに全部
「あ、ああ! オレ達は西の棟の一番西側にいる! とにかく医療班を
『了解した。倉庫は――スプレネムはどこだ』
「南東の建物だ! 奥の床が開く! スプレネムは無事だ!」
スプレネム――。
その言葉に、オフィーレアがこちらを見た。
オフィーレアだけじゃない。サマスも、ハリーもだ。
ただ見たのじゃない。
ギロリと目を
「おい、小僧。スプレネム様がどうした」
「ノウウェルさん、スプレネム様を――ご覧になったので」
そいつはいけねぇ、と
「スプレネム様は我ら待望の神を招く
「ああ、俺達は負けねえ」
な、なんなんだ――どうしたんだ急に!
「待ってくれ! オレはただ、頼みがあっただけだ! あんたたちと同じだよ! そこだけは間違いない!」
「本当か?」
ハリーが詰め寄る。
「本当だ! オレは個人的な頼みがあったんだ! あんたたちの大願をどうこうしようなんざ、考えたこともない! 大体大願って何なんだ! オレは何にも知らないんだぞ!」
「叔父貴よ。こいつこんなこと言ってるが――どうする?」
サマスは床に四つん
「判断しかねますね。念のために
クソ――捕まるわけにはいかなそうだ。
オレは椅子を
「うおおおおっ!」
椅子はハリーの側頭部を直撃し、砕けてしまった。
ハリーは目玉をくるりと上に向け、その場に崩れ落ちた。
その後ろに
弟をやりやがったな!――と叫んで飛び掛かって来る。
オレは何とか身を低くして鍬の初撃を避ける。
ガツッと
「おっ! くっそ! 抜けねえ――」
オレはガラ空きになった脇に一撃を食らわす。
でも――男は痛そうにしただけで倒れない。
続けて体当たりをしたら、男はバランスを崩して倒れた。
思いのほか軽い。
栄養が足りてないんだ。
そこへまた別の男が扉から飛び込んできた。
「ノヴェル! 待たせて悪かった!」
飛び込んできたのは――ジャックだ。
「ジャック! 説明は後だ! その女を倒してミラを救出してくれ!」
オレはバラバラになった椅子の脚をジャックに投げた。
***
ジャックの白兵戦は強かった。
邪魔をしてきた男達の
男達はバタバタと倒れた。
ミラを抱え上げると、
「侵入者です! 皆様! このならず者を――!」
四つん這いのまま大声を上げるサマス。
ジャックはその、出血した部分に思い切り
せっかくオレが止血した箇所なのに。
サマスは絶叫してのたうち回る。
さすがに迷いがない――というか、ゲスい。
これが騎士爵様の戦いか。
部屋の入り口を
続いてオレも部屋から脱出した。
サマスとオフィーレア、そしてハリー達は、オレの部屋で倒れたままだ。
「世話になったぜ」
オレはそう吐き捨てた。
もちろんこれは――ジャック達悪い大人の真似だ。
外に出ると、ロウの部隊が次々と抵抗する者を制圧していた。ノートンが連れて来たのだろう。
信者らは両腕を頭の後ろに組み、膝を地面につかされていた。
「日没までには片がついたな」
裏手の待機地点まで、ジャックとオレでミラを両側から支えて歩いた。
ミラを医療班に引き渡す。
「スプレネムは!?」
「あれだ」
ジャックが
ノートン指揮の元、大きな布を掛けられたスプレネムが救出されていた。
「『神聖資源に関する独占禁止条約:第二条一項・神の身柄の不当拘束の禁止』に
ロウは、逮捕した信者を前に大声を張り上げている。
終わった――。
オレ達はスプレネムを開放することに成功したのだ。
***
医療班の馬車では、ミラが点滴を打たれて横たわっていた。
見るからに医者っていう感じの神経質そうな隊員に、発症までの経過を説明した。
「――風土病の疑い、か。なるほど」
「ああ、あのサマスって元医者は、馬から薬を作ったとか言ってた」
「ウマ血清だな」
「たぶんそれだ。生きた馬に何か注射してた。使える薬はあるか?」
「この地域への出動では必ず準備している。あとは我々にお任せを」
良かった。
ミラも少し落ち着いているようだった。
「――まだ会話はさせないで。体力が戻ってからに」
オレはミラの様子を振り返りつつ、馬車を下りようとして立ち止まった。
もう一つ気になったことがあった。
「ひとつ聞いてもいいか?」
「この症状に関係することならどうぞ」
「それが――オレもミラも、ここで採れた草を食べた。生で」
「――君も検査を。それと寄生虫の検査だ。命知らずな」
「その食べ物に白い粉を
「それはおそらく『
そこの炊事場に沢山、と答えてオレは馬車を離れた。
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