15.3 「皇女陛下――お逃げください、とあれほど――」
「逃げなくてよろしいのですか、皇女陛下」
「……もう少し待ちます」
「何を待たれるのです。待っているのは彼らです。彼らこそ陛下が安全な場所に避難するのを待っているのです」
「――判っています!」
皇女は涙ぐみ、肩を震わせた。年相応の少女の姿――とも言えよう。
彼女もまた多くを失い、今また優秀な部下達を失おうとしている。
そこへ、見張りが飛び込んできた。
「ご報告します! 西より、正体不明の船団がこちらへ向けて航行中です!」
船長は椅子を倒して立ち上がった。
なんだって、と双眼鏡を覗く。
「――あれは――」
***
――なさい。
――答しなさい。
夢、だろうか。
皇女様の声がする。
そんなはずはない。皇女様はもう、ポート・フィレムへ向かったのだ。
「――皇女陛下――お逃げください、とあれほど――」
これはノートンだ。借り物の眼鏡を落として、必死に探している。
『逃げております。充分な距離をとって――』
「まったく……。やり甲斐のねえ仕事でさぁね」
これはエイスだ。
「機関室――よかった無事か。ミランダ女史も無事と。そりゃあ……なによりで」
ジャックのイアーポッドのような方法で機関室の様子を聞いている。
死人はでていないようだ。
オレ達は、いやキュリオスは逆様になって、海底に転がっている。
天井に落ちていた眼鏡をようやく見つけ、ノートンはそれをかけた。
「エイス君、船は動きそうか?」
「進むくらいは進むでしょうが――操縦は効くかな」
「こちらキュリオス。クイーン・ミステスへ。海底に墜落した。現在損傷を確認中。乗組員は全員無事です」
『なによりです。その――逃げなくて御免なさい、ノートン』
「――いいのです。これから逃げてください」
ノートンは
皇女様は「それが……」と口籠った。
『状況が変わりました。付近で操業中だった漁船が数隻、先刻の爆発に気付いて救助に来てくださいました』
「それはよかった。分乗して逃げるのです」
不意に、返事が途切れた。
数秒の間があって、聞き覚えのある声がした。
『ハロー。聞こえるか? こちらクイーン・ミステスだ』
『ジャック、コールサインはクイーン・ミステス・ワンと』
ジャック――!
「ジャック君! もう動けるのか!」
『ああ、麻酔が効いてる。ブリッジまで引っ張って来てもらった。大体の事情は聞いた。とりあえず、スティグマの野郎は来ないんだな?』
「オーシュを、奴の目標に近付けておけば大丈夫だ」
奴は、少なくとも自分の意思では奴らの指導者を呼ばない。
それだけは断言できた。
『では改めて。これより
「作戦ならもう始まっている! さっさと陛下をお連れして逃げろ!」
『姫さんはお前が死ぬとこ見るまで帰らねえってよ。係官、周辺に何がある』
周辺は真っ白。
まるで雪原だ。
海底には山まであったが――雪原まであるのか?
僅かに残ったキュリオスのライトは、真っ白く輝く海底を照らしている。
パッと見は白い砂と思ったが、その表面は磨かれた岩のようで、そこにスッと落ち積もる砂煙の黒い砂とは明らかに異質なのだ。
まさかと思っても、雪か氷としか言いようがない。
「ああ……これは、雪? いや、氷か――?」
『だとさ、姫さん。係官、まず浮上しろ。動けるか?』
やってみる、とエイスは船の操縦桿を操作する。
ギギギ、と船体が
周辺に泡のような白い砂煙が立ち上る。
その向こうを、こちらへ向けて歩いてくる人影がある。
キュリオス墜落と共に、どこかへ飛ばされたであろうその男は、またここへ戻ってきた。
長年太陽から逃れた白い体は深海の低温に耐えるよう脂肪を蓄え、頭蓋は水圧を低減するように鋭く変形した。
その細い腕は水中でも抵抗なく素早く動き、強靭な脚は強力な魔力を支え、大洋を渡ることを可能にした。
勇者・高潔のオーシュ。
「うおおおおっ! 動けぇぇぇ!」
エイスは叫んで、レバーを全開にした。
補助のみで、キュリオスは跳び出す。
真っすぐ、前方の異形に向かって――。
オーシュはそれを受け止めるも、キュリオスと共に後ろ向きに海底をぶっ飛んでゆく。
奴の顔がへばりつく。
――ミランダ、どこだ。
ぎょろぎょろと船内を
自滅覚悟で海底に寄せると、寸でのところでオーシュは離れた。
やけに諦めが早い――いや、そうじゃない。もう、こちらが
ソナーは役に立たない。
海底の雪原を、闇雲に、のろのろとキュリオスは進んだ。
『――いいか? まず船っていうのは、浮力という水の力で浮いている』
「知っている」
「オレも知ってる」
「あ、自分も、知ってます」
「それがどうかしたんで?」
『……ジャック、わたくしが話しましょうか』
『いいんだ、ちょっと頭を打ったせいだ。大丈夫! いいか、それで、その海底の氷は、ただの氷じゃない。ええと』
『メタンハイドレートと呼ばれています。昨夜、ノートンにお話しした論文の改訂版を見つけました。低温、高圧で凝固、固体化した、
ほう、とノートンが嘆息する。
冷たい海流が流れ込む場所には、そういう場所があるらしい。
その燃える氷を、誰も見たことはなかった。論文の中で、その存在が予想されただけのことだ。
今オレ達はそのすぐ上にいる。
メタンガスは可燃性で、海中の微生物にとっては重要な養分になる。
海底の生物が多く集まり、例えば
『そしてその結晶が気化すると、泡のようになって海面に上がります。すると船を支える浮力が消失し、
オーシュが知らない海の秘密。
それなら可能性がある。
『それで、そいつを一気に気化させて爆破してやろうというのが俺の作戦だ』
ノートンは深い、海よりも深く残りの寿命より長い溜息を
そして「不可能だ」と言った。
「気化? どうやってそんなことをする? キュリオス一隻、しかもここには火の魔術の使い手がいないんだぞ! 水兵、海賊、漁師――そっちにだって殆どいないのではないか!?」
ノートンは火の魔術が使えない。煙草にもライターを使っていたくらいだ。
電撃を試すにも、アームも折れてしまった。
『大丈夫だ。メタンガスは液体にならない。氷を破壊すれば気化する。お前らはただ無事に上がって来い』
「おい! 広範囲を同時に破壊することが必要なんだぞ! 手順を教えたまえ! 少々不安だぞ! 見ていられるか!」
広範囲。同時に。
さすが
その上で不可能だというのだから、きっと不可能なのだろう。
手順ねぇ、とジャックは申し訳なさそうに言うのだった。
『済まないが、手順は交渉中だ』
***
数分前。キュリオス墜落後。
「船を――買収せよ、と?」
皇女は困ったように首を
運び込まれたジャックは、皇女にそう持ち掛けたのである。
「頼む。この作戦にはどうしても、彼らと、彼らの蟹漁船が必要だ」
「ジャックの旦那。あんたの話じゃ、俺らの船が沈むこともあるんだろう?」
漁師に詰め寄られて、ジャックは少し考えたが、神妙な面持ちで答えた。
「――そうだ。気化したガスが上がってくれば、そういうことも考えられる。それはどう言い
「いいや、皇女様の助けになるんだったら上等よ! その代わり、沈んだらきっちり助けてくれよ!」
***
『
「籠!?」
キュリオスがよろよろと浮上を始めると、間もなく投棄が始まった。
蟹漁に使う巨大な、重い鉄の籠が、上から次々に降ってくる。
幅二・五メートル、高さ一・五メートル。
蟹漁船は山ほど積んだこの籠を海底に沈めて、蟹で一杯にする。
籠の重量は空でも百キロ以上。格子状で、勿論浮かず、抵抗も少ない。沈下速度は、コンテナの何倍も速かった。
キュリオスは降ってくる籠を辛うじて避け続ける。
一部が船体に当たり、斜めに傾く。
「ジャック君! おい! 危ないだろう!」
オーシュは軽々とこれを御した。
避けながらも、水面の方を気にしているようである。
「ジャック、オーシュが上を見てる。注意しろ。おおっ、左だ! 左に動け!」
深海五百メートルである。
オーシュは海面を向かうことなく、その場で籠を
躱したばかりの籠に乗って、こちらを
そのままくるりと前転し、勢いで足元の籠をこちらへ投げ飛ばしてくる。
籠はキュリオスを掠めて、他の籠に当たって底のほうへ飛んで行った。
――怒っている……? いや、混乱しているのか……?
海を汚された怒りか。本能的なものだろうか。
「あいつ……怒ってるのか? 籠を見て興奮してるみたいだ」
「まさか本能まで魚になったとか言うのではないだろうね、ノヴェル君」
やっぱそんなことないよなぁ、と言いつつも――もしかすると当たらずとも遠からずなのかも知れない、とノヴェルは思った。
「そうか。あいつは、オレ達があの籠であいつを捕えようとしてると思ったんだ。それで『馬鹿にするな』って……」
「なるほどなぁ。じゃあそいつをいっそ利用してやりやしょうや。おい、化け物! こっちだ!」
エイスが操縦桿を繰って、素早く海底へ潜らせた。
オーシュがそれに気づいて追従する。
海底では、沈んだ籠の周囲から気泡が立ち上り真っ白になっていた。
その間を器用に抜けて進むと、キュリオスがガクンと落ちる。浮力が少ないのだ。
籠の周りをくるりと旋回して見ると、オーシュも足をとられ藻掻いていた。
何が起きているのか判らないようである。
「いいぞ。しかし漁師だの水兵だの海賊ばかりで、どうやって点火するつもりなんだ、ジャック君」
その時、ノヴェルは気付いた。
「ノートンさん! 上を!」
海上から、沢山の光が落ちて来ていた。
きらきらと眩しく輝きながら、それは海底の雪原へと降り注ぐ。
ノートンも、エイスも、言葉もなくそれを見上げる。
光球は、次々と海底に落ちて転がった。
真っ暗だった海底が、今やライトなしでも見通せるほどだ。
落ちてゆく光球のひとつを、ノヴェルは見た。
それは、小さな光球二つの
――サイラスと同じ。
これは――フィレムの森で加護を受けた火の魔術の特徴――メイド・イン・ポート・フィレムだ。
ポート・フィレムの人間は、たとえ漁師であっても火の魔術を使い
しかも、強力だ。
***
「皇女陛下、指揮官代理、退避完了しました」
よし、とジャックは言い、無線機に向かった。
「こちらクイーン・ミステス・ワン。キュリオス、急浮上せよ。カウントで点火する。十、九、八……」
***
キュリオスは急浮上を開始した。
操縦席は殆ど真上を向いて、ノヴェルとノートンは加速に耐えて壁にしがみつく。
「くそっ……こんな……無茶な……」
『五、四』
歯を食いしばりながら、ノートンは、祈るように「頼む」と言った。
『三、二、一、点火』
その声と共に、背後の海底が一層眩しく光るのが判った。
足元も頭上もないような衝撃波に飲まれ、船体は回転を始める。
さっきの墜落の比ではない。
それでも――ノヴェルは見た。
前部球面ガラスの向こう、真っ暗だった海底で次々と生じる真っ白な爆発。
所々は赤く、所々はオレンジ。
それはまさに、このほんの一瞬だけ海底に咲き乱れる花々であった。
オーシュは爆発に呑まれながら、体を
全ては一瞬のことだった。
花々が、高潔なる勇者を包むように上昇する。
それはキュリオスをも包み込む。
キュリオス――その名は、エドが名付けたものである。
「好奇心」の意味を持つその歪な夢のかけらと共に、彼らは皆、恐ろしい速度で海面へと――。
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