11.4 「未来で、君はもう一人の私に会うのだね」
十四歳のミランダは泣いていた。
またオーシュが酷く暴れたようだ――まるで大地震でもあったかのように本棚が倒れ、吹き抜けの二階から多量の本が落ちてきたかと思うと、机のランプが引火してしまった。
気が付くと全ての本は燃え落ちていた。
部屋は煤けて真っ黒になっていた。
十二の扉も、開けるとそこは壁。今はもうどこにもつながっていないのだ。
「お嬢さん、腹が空いてはいないかね」
そこへ何故か、忌まわしいあの声がした。
見れば、死んだはずのソウィユノが立っていた。
パンと水を持っている。
(おい、やめろ、そいつは筋金入りの異常者だ。耳を貸すな)
「……」
おや、連れないね、とソウィユノは
「何も入っていないよ。この世界には、嘘はない」
燃えさしの散らばる床にパンと水を置き、パンの片方を千切って、ソウィユノは頬張った。
「ああ、腹いっぱいパンが食べたいものだね」
ミランダもパンに手を伸ばす。
「嘘がないからこそ、多少の誤魔化しをするのに、もう一人の私は苦心したようだ」
(相変わらずスカしていやがる)
「……どこかでお会いしたことが?」
「君とは、残念ながら、覚えがないね。だが君の心のほうは、どうも私を知っているらしい。未来で、君はもう一人の私に会うのだね。悲しいことだ」
(もう一人のってのはどういうことだ)
「……」
「解らないよね。自己紹介をしよう。私は
(オーシュの――意識世界)
ソウィユノによると。
クック=ロビンは無欲のソウィユノが、オーシュの記憶と自己認識を封印して作り上げたカナリアだった。有り
そのためミラとクック=ロビンの意識世界だったこの世界が、クック=ロビンの覚醒によってオーシュに乗っ取られてしまった形になる。元々オーシュの世界でもあったわけだから、乗っ取られたというのも少しおかしい。パワーバランスが大きく傾いてしまったのだ。
今、ミラの精神はミラの体ではなく、大部分がオーシュの体にある。
大部分。
精神と肉体は不可分ではないから、全てではないらしい。
同様に、ソウィユノもここに取り残されたのは全てではない。
残りの部分は、既に死んでいる。
いわば、寄生虫だ。
「オーシュの記憶と自我を封じ、カナリアとして潜伏させたのはもう一人の私だ。あのお方に関する情報に釣られて、オーシュの記憶を探る者が現れたとき、勇者達に通報するようにね。海賊はうってつけだ。世界中色んな街で、色んな悪党と接触するからさ」
(通報――? どうやって)
「あのお方――? 通報――?」
「……ああ、わからないよね。通報というのは、クジラの歌を使って、オーシュの居場所を伝えられるようにしたんだ。彼はそういうのが得意でね」
『神官はクジラの歌が得意』
あの日記の一文はクライスラーがクック=ロビンの特性を便利に使っていたことを示唆していたのか、とミラは知る。
つまりミラやジャック達の素性は、既に勇者側に伝わったことになる。
さっきクック=ロビン、いや、オーシュがジャック達の本名を唱えていた。
いつでも報復の対象になり得る。自分たちの命はもう風前の灯だ。
だが記憶そのものがソウィユノによって作り替えられていたとしたら、あの勇者の指導者の姿が正しかったのかどうかも――。
それは杞憂だ、と思い直す。
ソウィユノは嘘を
「まったく、あの私はどうかしている。利己的な卑劣漢だ。私はもう、うまく怒ることができないのだが……」
どうやら怒りをあちらに置き忘れ、自責の念はこちらに置き忘れてしまったようだ。
二人が分離したのは「もうだいぶ前のこと」らしいが、このソウィユノにはもう時間の感覚はない。
オーシュをカナリアとして矯正するため、かつて無欲のソウィユノはこの意識世界にダイヴしたのだという。
この図書室を初めて訪れ、ソウィユノは少し驚いた。
オーシュの意識世界が、意外に知識と思慮に溢れていたからだ。
「私は、正直なところ、彼にこれほどの知性があるとは思っていなかった。トドかアシカのような獣に近いと思っていたからね」
気象科学、海洋生物学、地学、船舶、海洋魔獣、軍事、
本棚に溢れる選書は、多岐に渡りつつ抑えるべきところを完璧に抑えていた。
ソウィユノは彼を本物の研究者と見直す。
「空恐ろしいとさえ思った。あの傲慢な私がだ。
「……」
「ああ、御免。退屈だよね、こんな話は」
ソウィユノは、水差しを傾けてカップにおかわりの水を注ぐ。
「ささ、飲んで」
(こいつ、なんか調子狂うな)
ともかく、予想を超えて奥行きのあるオーシュの意識世界。
それを見た無欲のソウィユノは、自身の半身をここへ遺棄することを思いついたのだ。
「無欲のソウィユノ。君もあれを見たのなら、きっとさぞ気持ちの悪いモンスターだと思っただろうねえ」
(ああ、ゾッとしたよ。変態野郎だと思ったけど、あいつの眼の奥の闇は、そんな言葉じゃ表せねえ)
ミランダは、こくりと頷く。
勿論十四歳のミランダはソウィユノに会ったことなどないはずだが、それでもミラの意識を反映して頷いた。
それとも、誰かと勘違いしているのか。
「あいつは……空っぽなんだ。勇者として、より高みを目指すために、人間の部分を棄ててきた。最後に棄てられたのが私さ」
出世のために必要なものだけを残し、人間らしい感情の大部分をここへ置き去りにした。
だが、そこまでする必要があったのかとミラは思う。
本名で生きるために生まれ故郷を消すような男だ。
――人間ヅラして座っちゃいるが、この半分のソウィユノ、てめぇだって同じクズ野郎なんじゃないかよ。
「ははは……そんな風に睨まれたら、私は、少し変な気持ちになってしまうよ」
(何言ってんだてめぇは。気持ち悪ぃ野郎は半分にしても気持ちが悪ぃな)
「――どうやら、嘘は吐けないね」
ソウィユノは立ち上がった。
「そう。私だってあいつだ。私の大嫌いなあいつだ。ろくでなしの人殺しだ。私のこんな気持ちは、あいつにとって邪魔だった。しかし本当に邪魔だったのはそこではなかった――」
奴は真っすぐに、ミランダを見る。
「私は、君みたいな少女がたまらなく好きなんだ――。若ければ若いほど、十歳くらいまでいけてしまうんだ。世間ではなんていうんだろうね、そう――」
少女性愛者の勇者なんて、いたらちょっとまずいだろう――?
ソウィユノは、一点の曇りもなく、
***
「この変態野郎、あたいから離れろ!」
ソウィユノの顎を、下から思い切り蹴り上げていた。
(あっ、蹴れた)
ソウィユノは跳ね上がって床の上に転がる。
ミランダは、ミラを見て驚いていた。
「――あなたは……もしかして私? 大人の?」
「そうだが……どうしてあたいが見えるんだ」
酷いじゃないか、とソウィユノが起き上がる。
「私は純粋な気持ちで少女を愛しているだけなのに……やましいことなど、何も」
「うるせえ死にぞこないが! あたいはてめえだけは許さねえぞ! さっさと説明しやがれ!」
「ああ、そうか。老化が進むと君のようになるのだな。時の流れとは残酷だ」
「てめえには時間なんかねえんだよ! 死んだんだから!」
あいつ死んだのか、と他人事のようにソウィユノはいう。
「君が? あいつを?」
「いや、あたいじゃねえ。マーリーンだ。あたいの記憶を見たんじゃねえのか」
「生憎、私はただの居候でね。オーシュのようにはいかない。ところで聞き捨てならないね、マーリーンとは? あの伝説の大賢者か? マーリーンならあいつを殺せるだろうが、生きているわけないじゃないか。おっと、お嬢さん、物騒な言葉で済まないね。耳を塞いでおいておくれ」
まったく調子狂うなてめえはよ、とミラは毒吐く。
「……いいんだよ。知らねえならしょうがねえ。それよりお前の知ってることを全部話せ。クックよか話が通じるんだろ」
外の話が聞きたいなぁ、とソウィユノは子供のようなことを言うが、ミラは「まずてめえからだ」だと凄む。
「構わないが、私は無欲のソウィユノの邪魔になった人格であって、あいつの記憶ではないんだ。そこのところが、オーシュや君、そこの麗しい君とは異なる」
「つまりどういうことだ」
「ソウィユノ自身に深く関わることと、ここで見たオーシュのことしか知らない。無欲のソウィユノは記憶ではなく、人格のみを棄てていったんだ」
「使えねえ野郎だ。……まずあたいがどうなったかは判るか?」
「予想はできる。現実世界のオーシュが、君の姿を認識した。それで君がここで実体のようになった。そうなる前から、ずっと君はここで小さな君自身の行動に影響を及ぼしていたんだけど」
ミラとクックはここへ来る前一緒にいたのだ。
クックの、オーシュとしての自我が覚醒したということは、つまりそういうことだ。
「お次はお前らの指導者のことだ。名前は? 出身は? 能力は?」
「ソウィユノの認識上の情報はあるが……名前はない。あったとしても知らない。出身地なんて考えたこともない」
「ゴアの野郎もそう言ってたぜ。何なんだお前らは。どういう組織だ」
「あのお方は――、そう、かつては私もあのお方の呼び名を探していた。『コラプサー』という呼び名を考えていたよ。畏れ多くて言えなかったが。私は心の中で、あのお方をコラプサーと」
「なんだそりゃ。キメェな。どういう意味だ」
ソウィユノは立ち上がって、そこに落ちていた宇宙の本を取り上げた。
もっとも大部分は燃え落ちて、分厚い表紙と真ん中程が残るだけだったが。
「古い、高密度の天体の名だよ。事象の地平面の中心。普通の星と異なる、光を吸い込む暗い星だ。まさにあのお方そのもの」
「見えねえじゃねえか」
「百年以上も前、超新星爆発というのが起こった。それで夜空は昼のように明るくなったんだ。そういうときなら、もしかして見えたかも知れないね。その、夜空で最も暗い星が」
「ロマンばっかり先走らせやがって」
お前のネーミングセンスはジャック以下だよ、とミラは少し笑った。
宿敵ソウィユノを前にして、不覚にも少しだけ笑ってしまった。
「私もさすがにこれはないなと思い、その後は単に『スティグマ』と。シンプルが一番……」
「スティグマ」
不意に、ミランダが声を出した。
「私、その人――知ってる」
なんだって、とミラとソウィユノは同時に声を上げる。
ミランダが知っているなら、ミラも知っているはずだ。
(まさか、どうしてあたいがそいつを知っている――? 知っているなら思い出せ)
――激しい雨。
ミラもさっきの記憶のフラッシュバックの中で、その聖痕という響きには何か引っかかりを感じたのだ。
――夜だった。
無論はっきり見えたわけではない。
――馬車を下りて。
遠巻きの横顔だ。
ローブも着ていた。
その人は――と、ミランダは目を見開いた。
――稲妻に浮かぶ。
「お父さんに――神を授けた人だ」
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