11.2 「おい、流されてるぞ」

 後からブリッジへ来たジャックらが、サーチライトのスイッチを探す。

「これか」と押すと、鋭い光線が甲板を照らす。

 軍用船の高いブリッジの更に上部から、サーチライトが点灯したのだ。


「――ブラックホールとは言うがね、光を当ててもどうにかなるものではないよ。光を吸い込んでしまうからブラックなんだ」

「どうやらそういうことじゃなさそうだ」


 ノヴェルはスティックを操作して、サーチライトを動かす。

 その狙いは暗黒天体ではなく、その下のスティグマを捉えた。

 光線は、スティグマに真っすぐ注がれている。

 すると――眩しく照らし出されたスティグマはこちらを見遣り、切れ長の目を少し歪めて、いやそうな顔をした。

 不快感だ。

 あの、魔術と砲撃の集中攻撃で眉一つ動かさなかった魔人を――不快にさせた。

 すると同時に、黒体がやや縮退した。

 直径凡そ三百八十……三百五十……三百四十メートル。


「光は曲がって行かない……。蜃気楼とかそういう手品じゃない」


 海上は高湿度。更にまだ煙も漂っており、光の軌跡は見て判る。

 それは真っすぐスティグマに注ぎ、逸れた部分も真っすぐその後方へ伸びていた。

 屈折はない。

 黒体の重力による屈折もない。

 黒体が光を反射しないのは、重力によるものではないのかも知れない。

 内側と外側で性質が異なる可能性もあるが、否、それはともかく――と、ノートンはやや驚いた顔でノヴェルを見た。


「ああ、大した意味はない。役には立たないが役立たずじゃない。こういうことか、ジャック君」

「だろ?」

「ならば磁力はどうだ。磁力は効くか? 何か、通電できるものは……」


 にわかに活気づくブリッジ。

 だが――スティグマがこちらへ向け、スッと腕を刺し伸ばす。

 すると、静止したブラックホールがブリッジ目掛けてゆっくりと――動き出した。

 直径三百四十メートル。

 一時よりもだいぶ小さくなったとは言え、尚巨大だ。


「やばい、こっちに来る!」

「脱出しろ!」


 黒体は、ゆっくりとブリッジ上空へ迫る。

 脱出は難しくなかったが、どれほど距離を取れば死なずに済むのかそれは判らない。

 三人は船の縁ぎりぎりまで逃げ、身を伏せた。

 辺りが急激に暗くなる。

 周囲はすっぽりと、巨大黒体の作る日陰の中だ。

 黒体はブリッジの上部を掠め、ゴリゴリと音を立てて飲み込んでゆく。

 放出されるであろう熱線、光、そうしたものすら、捩じれた軌道を描いて自らの中に封じ込め――船の後方へと飛び去る。


「俺達を狙ったのか」

「サーチライトかも知れない」


 たしかに、サーチライトはブリッジの上部に付いていた。


「ブラックホールは、どこへ――ああ、ああ、まずいぞ!」


 後方を見たジャックが慌てた声を上げる。

 珍しく、真剣にまずいときの声だ。

 ブラックホール。

 それは夜空に浮かぶ星の海の中、天ノ河の中心にあって、決して見えない天体だ。

 高密度、大質量、途轍もない重力で、空間さえ歪ませ、光も逃れられない。

 それが、海に落下していた。

 海水を大量に飲み込み、猛然と多量の蒸気を噴き上げて、海に沈む。海であった空間が黒体に置き換わってゆくのだ。

 黒体は更に収縮しながらも、沈んでゆく。

 それは、海原に巨大な穴を出現させた。

 周辺の海水が、滝のように落ち始める。

 南部大陸の山には、悪魔の胃袋とも呼ばれる、四方を囲む複数の巨大な滝から成る大瀑布ばくふがあると聞く。

 南方の島には、海底の色がまるで海中に巨大な滝があるかのように錯覚させる場所があると聞く。

 それらよりも荘厳そうごんで巨大な――本物の海の滝が、そこに生まれていた。

 見れている場合ではない。

 真っ先に救命艇で逃げ出した乗組員らでさえ、滝に落ちる海水の流れには逆らえない。

 彼らは水魔術で必死に進もうとするが、ぐるぐると回転しながらゆっくりと滝の中心に向けて流れてゆく。

 助けてくれと手を振っても、どうすることもできない。

 相手は自然だ。いや、厳密に言えば人工の自然だが、自然さえ操作する力をスティグマは見せた。

 水魔術の最高位でもこれは絶対に不可能だ。

 ソウィユノが心酔した力。

 ゴアが夢見た力。

 たしかにこれは――すべてを圧倒してしまう。


「おい、流されてるぞ」

「……」

「この船だ! しっかりしろ!」


 どの船も例外なく、あの瀑布へ吸い寄せられている。

 滝壺は、ここからでは見えない。

 爆音、そして立ち上る大量の水煙……。


「船倉へ逃げろ! 一番頑丈そうな箱に逃げ込むんだ!」


 全力で叫んでも、この音ではとても聞こえる気がしなかった。

 こういうときのジャックの勘は鋭い。

 甲板に寝かせたミラの足と頭をジャックとノートンが持ち、船倉への階段を駆け下りる。

 途中で会った水兵らにも身振り手振りで呼び掛け、船倉へと避難する。


「スピードが上がってる! 早くするんだ!」


 水の落ちる轟音も、ここでは少しマシだ。

 二十名からの水兵らと共に船倉に着くと、そこにはコンテナが沢山積載されていた。

 コンテナは鉄製で密閉性がありそうだった。

 横長の直方体で、両端にドアがついている。

 船は、気持ちの悪い回転を続けている。

 時折何か大きなものにぶつかる衝撃があり、その度に絶望的な悲鳴がそこらじゅうで上がった。

 殆どが食品やリネンなどの消耗品のようだが、一部調度品や絵画、布などを入れたものがある。

 また、中にベッドのようなものがあり乗員が隠れてプライベートを楽しめるようなものもあった。


「水と、衝撃を吸収するものを探せ!」


 二十数名の水兵も交じえ、大勢が救難物資をかき集め始めた。

 コンテナから不用品を運び出す者もいる。

 空いたところへ、乗員の枕やらリネン、着替えやらをクッション代わりに詰め込む。

 大人でも十人ほどが裕に入れそうな大きさではある。

 ただ、ノヴェル達が見つけたものは既に箱がいくつか入っており、クッションを詰め込むと三人が限界であった。

 ノヴェルとミラ、そしてノートンがそこに押し込められた。

 ジャックが、外からそのコンテナを閉めようとした。


「ジャック! 入れ!」

「ジャック君!? 私も手伝う!」

「馬鹿野郎! お前がいなきゃ誰も内側からこのコンテナ開けられねえだろうが!」

「ならば君も入れ!」

「定員オーバーだ! 俺は他を当たる! 心配するな!」


 船はもはや回転していない。

 その代わり速度がどんどん上がっているのが判る。

 ガシャンとひと際大きな衝撃があり、船倉の照明が消えた。

 ジャックは強引にノートンをコンテナに詰めると、扉を閉めて外からロックを掛けた。


「ジャック君! ジャック!」


 もうノートンの声は届かない。

 速度は更に上がってゆく。

 やがて、船倉のコンテナが一方に滑り始めたかと思うと、照明が明滅した。

 船倉全体が傾き、コンテナ同士がぶつかって、一方に落下する。

 轟音に次ぐ轟音。

 船倉は真ん中から砕け、半分がどこかへ行ってしまった。

 暗闇になった船倉に光が差し込む。

 水の落ちる音が再び戻ってきた。

 足元に大瀑布が見える。

 轟轟と落ちてゆく大量の海水。

 その先は多量の飛沫で真っ白になっており、滝壺は見えない。

 そこへ、船の半分が先に落ちて行った。

 向かい側を、側面からずるりと落ちてゆく船。

 ほんの一時この星に出現した、それは幻の絶景であった。



***



 ブラックホールは既に消失していた。

 それが穿った海の穴は、深さ凡そ百二十メートル。直径凡そ二百四十メートル。

 今は流れ込む水量で、深さこそ六十メートル程度まで下がったものの――依然として船を、命を飲み込み続けていた。

 人の泳ぐ力など、なんと儚いことか。

 真っ二つに切り裂かれた海賊船が、それぞれ流れ落ちてゆく。

 続けて、ブリッジを消失した大型の軍用船が――半分に折れて流れ落ちる。

 ほぼ同時に、その向かいを中型軍用船が、側面から滑り落ちてゆく。

 水柱が滝よりも高く上がる。

 海賊船は、残った水兵でなんとか流れに逆らっていたが、徐々に滝に引っ張られてゆき――。

 ダイムラーの船が落ちた。

 水兵数最多を誇るクライスラーの船も、反抗空しく、飲み込まれた。

 動力に乏しい救命艇など、一艘すらも残っていない。

 戦場となった海域はこうして、静かな海に戻った。

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