8.3 「ここへ来てはいけないと言ったはずだぞ」

 ミランダは十歳の少女だった。

 だった――ではなく、少なくともこの意識世界では彼女はまだ十歳の少女だ。

 気が付くとそこは書斎――というよりむしろ図書室のようだった。

 部屋は円形の吹き抜け。

 中央に机があり、一階の壁に沿って十二の扉がある。

 扉には引っ掻いたような傷で、一から十二までの番号が記されている。

 十二の扉は部屋の雰囲気に合わず、まるで沈没船から外してきたような扉だった。

 ――ここがあたいとクック=ロビンの意識世界――?

 彼のイメージともあまりにも異なる。

 ミランダには居心地がよい。全く同じ部屋を知っているわけではないが、初めて来た感じもしない。

 これは自分達で作り上げた世界だ。

 部屋自体もよく見れば古く、微妙に歪んでいる。

 一つの扉、真正面の十二と書かれた扉の向こうからシュッシュッっと異音がする。

 彼女は腰の短剣を探したが、そこには短剣などない。すそのごわごわしたフリルがあるだけだった。


(――畜生が。動きにくい格好だぜ)

(あれ? 私ったらなんでナイフなんか)


 ミラとミランダの意識が混線した。

 慎重にドアを薄く開いてそこを覗くと、デッキブラシだけが動いて汚い便所を掃除している。

 無人のデッキブラシだ。

 クック=ロビンとミラの心象風景のぶつかる特異点。それがこの世界だ。


「クック――? いないの?」


 便所を掃除していないならクック=ロビンがどこにいるのか、もう見当もつかなかった。

 二つ目の十一の扉は鍵がかかっているらしく、ビクともしない。

 上部に丸い覗き穴が付いているのに、十歳のミランダの背では届かない。


(時間がねえ。早く勇者に関する記憶を探さないと――)


 反対側に走って六の扉を開ける。

 少しだけ、スッと薄く開いただけのつもりが――扉は勢いよく開いた。

 あっと思う間もなく景色が一変する。

 霧深い、鬱蒼うっそうとした森の中だ。

 カーディガンにスカートでは寒い。

 気付くと、手に小さなクマのぬいぐるみを持っていた。


「ミランダ」


 不意に声をかけられ、彼女は振り向く。


(親父――)

「パパ」


 父がいた。

 体が勝手に、父のほうへ駆け出してゆく。

 父の腕に抱かれ、ミランダは安堵した。


「ここへ来てはいけないと言ったはずだぞ」

「わかってる。でも」


 そこは、町の共同墓地だった。


「ここは死者の眠る場所だ。命を終えた者たちの場所」

「パパの患者さんも?」

「――そうだ」


 父は掌で涙を拭い、苦々しく言った。

 彼は医師だった。

 つまりここは、彼に救えなかった者たちの霊廟れいびょうでもあった。


(ふざけろ。なんでこんなもの見せやがる)


 ミランダは父から突き離れた。

 一心不乱に、森へ駆け出す。


「ミランダ! どこへいく!」

(パパ来ないで)

(こんなことしてる場合じゃねえ!)


 森の奥、木々の間に、壁もないのに扉が一枚だけあった。

 ミランダはそこへ飛び込んだ。

 扉には数字があった気がする。だが何番だったか、見ている余裕はなかった。

 再び扉は消え、森も消え、そこに町があった。


(クソッ! またかよ)


 ミランダの生まれ育った町だ。

 ヘイムワース子爵領、ペニー。小さいながら豊かで、当時の平均寿命は八十一・五。

 矍鑠かくしゃくとした老人の多い町で、子爵の娘として彼女は育った。

 子爵は医師として大成し、領内に次々に診療所を立てて領民からも信頼されていた。


「ご機嫌よう」


 日傘をしたご婦人が小さなミランダにうやうやしく挨拶する。

 すれ違う人が皆、ミランダに対してそうした。

 嫌味はない。心からの敬愛を込めてだ。


「ここは五番です」


 挨拶に交じってそう声がして、ミランダは振り返る。

 異形の男がいた。

 三角形の頭頂部。異様に発達した下半身。肥った上半身は半裸だ。

 生まれてからずっと地下室に閉じ込められていたというほどの白い体。

 行き交う人々は誰も、この異形の人影を気にしていないようである。


「あなたは、どなた」

「クック=ロビンです」

「お話ができるの?」

「記憶の中だから、ね。夢みたいなもの、かな」

「へぇ、あなた、存外知的なのね」

「図書室を見ました、か? ぼくはあそこで本を読んでいました。ずっと、海の物語を」

「いいえ、あなたはお手洗いをお掃除していたのですわ」


(私ったらなんて酷いことを言うんだろう)

(おい、余計なことを聞くのはやめろ。勇者について聞き出せ!)


「あなたのお話を聞きたいの」

「図書室に戻って、そこにある本、を全部読めばいいよ。なんでも、書いてあるよ」

「そんなことをしていたら歳をとって死んでしまうわ」


 クック=ロビンは顔を歪めて、顔全体で笑った。


「――平気だよ。ぼくも、きみも若いからね。でも、そう。あまり時間はなさそう」


 上を仰いだ。

 つられて仰ぎ見て、彼女は絶句した。

 天頂に輝く大きな太陽は、真っ黒だ。


「六番か七番に、お行きなさい」

「どこにあるの?」

「ええと……こっちです」


 クック=ロビンは、ミランダの手を繋いで走り出した。

 路地の日陰を駆けまわる。


「六番は違うわ。さっき行ったもの」

「何がありました?」

「パパが、森の中の共同墓地に」

「へぇ。さぁ、ぼくの六番と、違うのかもね」


 張り出した釣り板の看板が目に入った。

 四番だ。

 その中に、クック=ロビンは飛び込んでいった。


「ちょっと! ここは四番じゃなくって!?」


 ミランダも後を追う。

 路地が消えた。

 今度は海岸にいた。

 ごつごつした岩が飛び出した海岸に、異様に長く長く飛び出した堤防。

 その堤防の先端に、ミランダはいた。

 岸には村が見える。

 村までは軽く千メートルはあるだろう。距離感がマヒしているのか、本当に途轍もなく長い堤防なのか。

 堤防を降りた岩場に、少年がいた。

 少年は、船の模型やら、何に使うのかわからないいろいろな大きさの球体を浮かべて、何やら遊んでいるようだった。


「ねえ。あなたはどなた。そこで何をしているの?」

「君こそ誰? 実験だよ」


 彼は手を使わず、一つ一つの船や球体を沈めたり浮かべたりをしていた。


「それなんて魔術? 水? 空気?」

「うるさいなぁ。その両方だよ。あと電気」

「電気? 髪の毛やお洋服がぱちってする、あの煩わしいものかしら。あんなもの何に使うの」

「うるさいって。いちいち説明していられないよ。子供にはどうせわからないだろ」

「あらあなた、随分じゃない? わたしのお父様はお医者なのよ」


 どうも少年の機嫌を損ねたらしく、彼は何も答えてくれなくなった。

 彼は自分の実験とやらに夢中で、時折独り言のように何かを呟くのみだ。


「……取り込んだ水を分解して……浮力に……推進力は……こう……蓄電は」

「つまらないわ」


(つまらないわ)

(いや、クックを探せよ! 村に行けば扉くらいあるだろ!)


 彼女が堤防を戻り始めると、向いから大勢の人影がこちらに向かってやってきていた。

 きれいに整列した男たちは、どうやら軍人に見える。

 男たちは堤防の幅一杯に広がって、どんどんこちらにやってくる。

 すれ違うような余裕はない。

 ミランダは、堤防の端ぎりぎりに寄って身を小さくしていたが、男たちは彼女にまるで気付かないかのように行進してゆく。


(ちょっと、あぶな――)


 彼女の黒く浅い革靴が、堤防の左の端を踏み外した。

 大きくバランスを崩す。

 立て直そうにも、体のすぐ右側を男たちが行進しており、それに右腕を取られて回転し――。

 ミランダは海中に落下した。

 体を包む無数の泡で何も見えない。


(あ――)

(まずい! 浮かび上がれ!)


 無意識に上げた小さな悲鳴で、肺の息を吐き出していた。

 苦しいと思う暇もない。


(ダメだ ! 意識世界で意識を失ったら――!)


 ミラとミランダの意識は、そこで途切れた。

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