Finale

❄︎ ♪ ❄︎ ♫ ❄︎ ♪ ❄︎ ♬ ❄︎


「……今日までね、これでいいのかなって……ずっと、分かんなかったの」


 響子の視線は、両手の中に収まったマグカップの水面から動かない。顔は口元だけ微笑み、その瞳が潤む。


「曲の理解とか……どこまで弾いても、答えが、見えなくて。モーツァルトとブラームスたちなんて何十年も離れてて……ピアノも全然、違うし……弾き分けられてるかなって……」


 涙がぱた、ぱたりと、テーブルの上を濡らしていく。


「何考えてんのか、ちゃんと聞けてるのか……どうなんだろう、って、ぐるぐる、してて……」


 ぽつり、ぽつりと、切れ切れに言葉が紡がれ、長い髪がしゃらりと揺れて、腕の中に顔がうずまる。


「……プロが、お客さんにっ……不安なもの出すなん、て、ぜったい、駄目なのにっ……」


 しゃくり上げる間隔が短くなって、文を遮る。


「弾いてるっ……間じゅう……っ向き合えてるかっ……」


 不安で、と吐き出した最後の語は、ほとんど嗚咽に混じって消えそうだった。匠が手をかけた響子の肩が小刻みに震え、乱れた呼吸と共に声が漏れ出て、静かな部屋の空気を揺らす。

 数十秒、数分間、それが続いた。カチコチ、時計の秒針が進む。


「確かに、お客さんには自分が満点で自信のあるもの、出さなきゃって思うけどさ」


 ちぢこまった響子の肩を呼吸の速さで叩いてやりながら、匠は空を見つめ、ゆっくりと口を開いた。


「人と人との関係なんだから、自分のアウトプットが良いものかって、相手を通して初めて分かるんじゃないか」


 口に出しながら、響子に話しているのか、自分に言い聞かせているのか、匠にも分からない。ものを作って渡すときの不安。演奏だけではない——ショコラも。

 相手を喜ばせたいから作るものであるはずなのに、自分だけが良いと思っていたらただの独りよがりだ。差し出したときに相手の笑顔が見られて、受け取って味わってもらう。そうして返ってきた答えを聞いたあとで、初めて完成体になって、安心できるんじゃないか。


 そう話し続ける匠に、響子は「でも」とか「そうなんだけど」とこぼしながらも、繰り返し首を縦に振る。嗚咽が次第に、鼻をすすり上げる音に変わっていく。


「それに、」


 匠はひと呼吸して、声を一段大きくした。


「ちゃんと向き合ってたじゃないか」


 響子の身体が固まり、鼻水の音が止まった。顔に当てられた指の間から呟きに近い声がする。


「たくちゃん……来てたの……?」

「うん。聞いてたよ。俺は良かったと思う、どれも。ラフマニノフも、響子が言ってた通り好きなやつだった」


 ため息と一緒に「うそでしょおぉぉ」、と情けない声を出しながら、響子の顔が腕の間に陥没した。


「たくちゃんいるの分かってたら、あんな不安は無かったのにぃぃ」

「なんだそれ」


 鼻声混じりの響子の言葉を聞いて、匠は、ぽん、と丸っこい頭を叩き、苦笑しながら立ち上がった。すぐ隣のキッチンに置きっぱなした荷物を拾い上げ、食器棚から一枚皿を取り出してテーブルの方に戻る。


「響子」

「うぅ、あい」

「顔、上げてみ」

「うぐ、なに……」


 のろのろと腕から顔を上げた響子の眼は、泣きはらして真っ赤に腫れている。しかしそれがテーブルの上を見た途端、まんまるになって輝いた。


 白い丸皿の上には、小さなブッシュ・ド・ノエル。全体が甘くなりすぎないように、スポンジはビター・チョコレートにし、その上にガナッシュとラズベリーのクリームを重ねて巻き込んだ。そうしてできた切り株上をホワイト・チョコレートとキュラソーを混ぜたクリームの雪がを覆い、真っ白に焼き上げたメレンゲが雪玉を作る。小さなスポンジを載せて作った木のこぶの横には、ココア・クッキーのキノコとミックスベリー・チョコレートでコーティングしたプラリネ製のプレゼント・ボックス。仕上げに星屑のようなアラザンをふりかけ、光を返して雪の結晶がきらめく。


「これ? 新作? すごい、綺麗、可愛い」

「いいからまず食べてみて」


 さっきの涙はどこへやら、興奮してケーキを凝視する響子にフォークを渡してやる。そっと上から切り株を崩して口に運ぶと、響子は「んんん」と小さく唸った。


「なんですかこれはぁ〜っ……夢見てるみたいな幸せ味っ……!」


 言いながら、また目が潤んでいる。でもそれは、さっきの涙で滲んだものとは全く違う。こくん、と飲み込み吐息を漏らす。

 その満ち足りた笑顔を見て、匠はテーブルにとさっと肘を立て、手のひらで顔を覆った。


 ——こっちも、その顔先に見てれば、安心したのに——


 一日中感じていた不安からようやく解放された気がする。新しく生まれたばかりの自分の作品。ショーケースから一つ、また一つと数が減っても、美味しいですね、とどんなに聞いても自分を捉えて離さなかったものは一瞬にして消え、体が軽くなる。


 響子はまだ「うわぁ、うわぁ」と感嘆を繰り返し、空中に掲げた皿を回して四方からケーキを眺めまわしている。そして顔を隠したままの匠に待ちきれないと言わんばかりに声をかけた。


「ねえたくちゃん、もう一口食べていいっ?」

「ちょっと待て、俺が先」


 響子の右手ごとフォークを奪い、匠は切り株の端を口に運んだ。


♡♡♡♡♡ ❄︎ ♪ ❄︎ ♫ ❄︎ ♡ Fine. ♡ ❄︎ ♪ ❄︎ ♬ ❄︎ ♡♡♡♡♡

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