Fantasie et Adagio con melancolia
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匠が楽器店に着くと、ちょうど片側だけ開けたホールの扉から拍手の音がホワイエへ漏れ出してきたところだった。
「お客様、今なら曲間ですから、客席に御案内できます」
足元にお気をつけください、と係の人に促され、匠はコートを脱ぎながら客席へ滑り込んだ。最後列、舞台から見て左端の席へ、音を立てないように腰を下ろす。
走って上下する肩が落ち着いて来たところで、舞台袖から響子が淡い桃色のドレスの裾を軽く持ち上げて進み出てきた。鳴り渡る拍手の中を中央まで来ると、客席に笑顔を向けて礼をし、ピアノの前に座る。それを合図に客席の音が鳴り止み、静寂が空気を緊張させた。
響子の身体がわずかに動き、沈黙が破られる。
優しいイ長調の和音。ふわりと丸い音がホール全体に満ちる。客席に座る匠の全身が、綿毛のような柔らかな響きにそっと包まれた。モーツァルトのピアノ・ソナタ「トルコ行進曲つき」。第一楽章は変奏曲形式。柔和な主題は子守唄のように暖かく、それでいながらしっかりと芯の通った音。
響子のモーツァルトだ。
第二楽章のどこかからかうような調子のメヌエットを経て、有名なロンド形式の第三楽章。時に軽妙に、時に豪奢なトルコ行進曲は、トルコ包囲開放から百年のウィーン市民のお祭り気分を表すようだ。くるくる表情を変えながら繰り返される主題の後でトライアングルが聞こえるかのようなコーダまで意気揚々と行進が終わると、二曲目に入る。
ブラームス《二つのラプソディー》第一番。響子がいやに熱心に弾いていた大曲だ。
——しっかり、作曲家と対話してるじゃないか。
単純に捉えれば気紛れに思える狂詩曲も、理知的な作曲をするブラームスの秩序を保った構成だ。その道筋をしっかりと示す、時に力強く、時に情感に満ちた音調が響子の指から生まれ出る。
充溢したピアノの響きは、モーツァルトの華奢で軽やかな音とは全く違う。いつだか響子が言っていた。モーツァルトが使っていたフォルテピアノはまだ鍵盤の数も少なく、響きもサロンに似合うもので、玉のように鈴のように転がるモーツァルトの音によく合うと。それに対してブラームスはモーツァルトにしてみれば孫の世代。コンサートグランドのようなどっしりしたピアノが生まれ、堂々たるオーケストラを連想させると。
ピアノの違いを感じさせる、響子の音の変わりよう。まるでモーツァルトの時代からタイムスリップしたような、重厚なブラームス。
鍵盤ぎりぎりまで低音が下がり、静かに曲が閉じられる。ペダルによりアルペジオの残響が消えるのを待って、最後の曲に入る。
ラフマニノフ、幻想的小品集より《道化役者》。
短く爪弾く音が高音へ上がったかと思えば、翻って今度は低いところでからかうように。あっちへ行ったりこっちへ行ったり、落ち着きはないが楽しそうに。
——確かに、この曲は好きだな。
時に跳ねて、時に歌って、自由気ままに音が遊ぶ。予想もつかずに飛び回り、弾ける響きが空気を揺らす。真面目で重いブラームスより、こちらの方がよほど響子らしい。
上から下まで、指が鍵盤いっぱいに広がって、響子の指が最後の音を爪弾いた。
終曲——息を呑むようなわずかな瞬間の後に大喝采が客席から巻き起こる。遠くに座る匠の目から見ても、立ち上がった響子の頬が上気しているように見える。客席は体を回し、背筋を伸ばして立ち上がると、満面の笑みで礼をとった。
ホールを震わす大きな拍手に包まれて、響子の姿が舞台袖へと消えていく。そのドレスの裾が見えなくなってもなお鳴り止まない音の渦の中、匠はそっと席を立った。
楽屋を訪ねようかとも思ったが、写真撮影やら差し入れやらで友人達も多く詰めかけるだろう。自分も勝手を言って抜けて来た身だし、店の方へ戻らなければならない。コートに袖を通しながら、匠はホールを後にした。
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「なっ……」
自宅へ続く道に入る十字路を曲がったところで、匠は目に入ったものに仰天して思わず声をあげた。
「あ、たくちゃん。お疲れ」
玄関前に立っていた響子が、コートのポケットから片手を出して手のひらをこちらに向けた。
「何やってんだ、このくそ寒い中で! もう十時過ぎてんだぞ」
「や、そろそろ帰ってくるかなって」
「風邪ひくだろ!」
「ずっとじゃないよ。ついさっき出てきたとこだよ」
「そういう問題じゃ……あー、もういいからさっさと入れ、もう」
急いで取り出した鍵を玄関扉に突っ込み、匠は響子の背中を中に押し込んだ。外気が少しでも入ればすぐに冷え込む。片手で玄関の電気を点けると、もう片方の手ですぐにドアを閉めた。
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「ふぃや〜。あったまる〜」
匠が作ってやったホット・チョコレートを一口飲んで、響子は満足そうにクッションにもたれた。舞台に立った時のきりりとした表情と比べると別人のような気の抜け方だ。膝にマグを載せて体操座りする響子の隣に、匠も自分のマグを持って腰を下ろす。
「たくちゃん、お客さんたくさん来た?」
「ん? 大入り。疲れた」
「愛想笑い大嫌いだもんね」
「嫌いなんじゃなくて、苦手」
そう答えて、匠も湯気のたつマグに口をつける。カカオの香りを含んだ湯気が鼻先を温め、喉を通った熱と糖分が冷えた身体にじわりと広がる。
「で、そっちは?」
「うん?」
「演奏会。楽しかった?」
弾けるような返答を予測したが、違った。
数秒間、間が空いた。
時計のカチコチという音だけが、部屋の中に響く。しばらくその音を聞いたあと、響子は返事の代わりにクッションから背中を離し、前屈み気味になって、マグを包み込む両手を強ばらせた。
笑みの形を作った唇から、言葉が漏れる。
「大失敗、しちゃったぁ……」
響子の頬を、一筋の涙がつたった。
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