Fuge
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イベント日程が決まってから、日々の通常業務である仕込みや製造、販売に加えて、イベントのための事務仕事や話し合い、クリスマスの注文商品の発送準備、それから自分の新作のための研究と試作に片付けで、匠の帰りは毎夜遅くになった。ふと思い返すと、響子ともたまにメールか電話をするだけで連日顔を合わせていない。ただ、匠が家に着くと、普段ならその時間に電気がついている寝室ではなくピアノがある居間から明かりが漏れていて、まだ練習しているのが分かった。
試作を持っていこうか迷ったが、集中しているところを邪魔したくはないし、匠自身も翌朝が早い。翌日のケーキの味がブレるのを避けるには、最低限の睡眠が必要だった。
そうこうしている間に三週間が過ぎ、気づけば演奏会初日——イベント当日になっていた。
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「どうもありがとうございました。良いクリスマスを」
カフェ利用の客を見送って扉を閉めると、匠はそのまま戸に背を預けて脱力した。もともと目抜き通りから一つ入ったところに建つ割には評判の店だ。地元の人間だけではなく、わざわざ電車に乗ってやってくる者も多い。それに加えて最高潮まで来ている街のクリスマス・ムードも手伝ったのか、店には朝からひっきりなしに客が訪れ、カフェとショップと厨房の間を行き来していた匠もさすがに四肢を重たく感じ始めていた。おまけに営業のための愛想笑いがこの上なく苦手なのに、店の表に立つ以上、今日は一日中それから逃れられなかったのだ。精神的に感じる疲労はむしろ、普段しない笑顔を顔に貼り付け続けたせいもあるかもしれなかった。
しかしそれより何より、新作のケーキだ。ふとすれば無意識にショーケースへ目が行き、数の減り具合を気にしてしまう。自分の作品を注文した客がいれば、知らずのうちに彼らの会話へ耳をそばだてていた。
さすがにカフェの中で大っぴらに商品を悪し様に批判する客はいない。聞こえてくる感想は好意的な言葉ばかりだ。でも全てが全て、正直な感想なのか? 狭い店の中だし、落ち着いたこの店のカフェを利用する客層は比較的育ちの良さそうな大人ばかりだ。世辞の一つも言うだろう。
それでも、今日の分の匠のケーキは全て早くに売り切れた。まだ神経が完全に緊張を解いたわけではないが、一応、やっとのこと息が出来る気がする。
五時を過ぎた頃から、店の客足も
扉に寄っかかったまま、匠は壁にかかる時計を見た。閉店十分前の五時五十分——演奏会開演の十分前。
演奏会会場は音大のすぐ脇にある楽器店に併設された小ホールだ。店から急いで行けば十五分ほどで着く。
売店の隣のスペースに
「すみません店長、ちょっと」
響子の出番は確か、プログラムの二曲目から。
最後の客を見送ると、匠はコートを片手に冬空の下へ飛び出した。
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薄暗い舞台袖は、ライトの当たった舞台と比べて気温が低い。響子はパイプ椅子に座って手の中のカイロを握り締めた。
師匠の演奏がスピーカーと生の音と二重になって聞こえて来る。通称、《きらきら星変奏曲》、モーツァルト の《「ねえお母さん、聞いてください」による変奏曲》。主題はもともとフランスの流行歌で、女の子が恋する気持ちを母親に打ち明ける曲だ。
もう最終変奏に入る。響子は客席全体を映し出すモニターの方へ顔を動かした。視線が無意識に画面の左端に移動し、そしてモニターから離れ、我知らず床に落ちる。
すると舞台へ繋がる扉越しに、堰を切ったような拍手の音が耳に飛び込んできた。響子はびくりとし、反射的にカイロを脇の譜面台に置いて立ち上がった。
「さぁ、響子ちゃん」
扉が開いた途端、拍手の音が耳へ飛び込み、袖に戻ってきた師匠が自分と入れ替わりに響子を喝采の渦の中へと
一歩踏み出せば顔を照らすライトが眩しく、素肌の腕にも熱を感じる。背中を意識的に伸ばし、顎を上げたまま、中央まで進み出てドレスの裾を持ち上げ、礼をする。自分に当たる光が強くて、客席の顔はよく見えない。
厳かに佇むグランドピアノの前へ座り、鍵盤を見つめた。艶々と光るキーが眩しい。その上に両手が影を作る。大きく息を吸い、目を閉じる。さっきまで冷え切っていた指だが、今はしっかりした感覚がある。
鼓動の音が全身に伝わっていくようだ。拍子を取るように呼吸を繰り返しながら、瞼を閉じる。
現実から自分を切り離し、描き出す音の世界へ意識を移行する。
瞼を開けて、響子は手首で緩やかな弧を宙に描くと、指をそっとキーに下ろした。
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