第2話

ホームレスになるにはまず準備がいる。多分、この世の中の大半のホームレスたちは自分が住所不特定者になるだなんて思っていなかっただろうけど。それでも、俺には準備がいる。

職場へ向かう間はずっとどう生活していこうか考え、仕事中は外回りの時に見かける路上に寝そべる彼らをじっと見入ってしまう。問題は我が家だ。だが、もう我が家と呼べるか定かではない。俺はもうこの家からいなくなりたいのだから。これはなんだろうか、先日ネットニュースの見出しにもなっていた「プチ家出」みたいなやつなんだろうか。いいや、いや。違う。俺はもう30を超えた大人だ。ちゃんとやれるさ。

「離婚してほしいって、何?」

立川と最後に「なみや」で飲んだのはネットカフェに立ち寄った時だ。あれからもう2ヶ月が経った。

今朝、妻である梢に「離婚してほしい」と言って家を出た。彼女の驚いた顔を見て。逃げ出すように玄関を開けた。

「離婚って、何?」

当然の如く梢は俺が帰ってくるなり鬼のような顔つきで問いただしてきた。予想はついていたが、なかなか冷や汗ものだな。

電子レンジで何かを温めている音と、娘の華が見ている子供番組の音が同時に聞こえる。リビングのベージュ色のテーブルを挟んで、向かいにいる梢は腕を組んで俺をただただ見つめている。

「理由は、言えないんだ」2人のことは心から愛している。

「どうして?」

「どうしてもだ」言ったらきっと心から呆れるだろう。

「まだ華は小さいんだよ。お父さんがいなくなったら寂しいよ。私だって」梢の口から永遠に漏れていくであろう言葉の羅列を、遮った。

「本当にごめん」

土下座。人生で初めてだ。額に当たる冷えたフローリングは、今までの夫婦生活の真逆だ。俺たち夫婦はどこから見ても仲睦まじい夫婦であったし、可愛い子供にも恵まれ、これからという時だ。十分分かっているつもりだ。でも、俺はどうしても今の生活から抜け出したいんだ。

「もういい。もういいです。顔を上げて」

上の方から梢の声が聞こえ、言われた通り目線を彼女にやる。梢は泣いていた。

俺は最低な男だ。ホームレスになるには大きすぎる代償だ。自分で言い出したのに、家族を失うというのは恐ろしいものだ。つん、と胸が痛んだ。

それから2日後に離婚手続きを終え、その1週間後に梢は鼻を連れて故郷である長野へと戻って言った。幸い、この家はマイホームではない。大家さんには「あらまあ、大変ねえ」と言われ、近所の奥様集団には「理由もなく別れを告げた元夫がいる」という視線をこれでもかというほど浴びた。

華は最後に言っていた。

「ぱぱ、いっしょいこ」

小さな手を梢に握られ、引きずられるようにしながら顔だけをこちらに向けて。

俺は家族というものから解放された。妻と娘と別れても、心に決めたホームレスになりたいという欲望が消えないことが少しだけ恥ずかしい。俺は華を見送ったあと、住んでいたマンションのゴミ捨て場に行って、どうしたらホームレスらしいゴミの漁り方ができるか、なんてことを考えていたからだ。

梢と華の物が部屋からなくなり、俺の荷物ももうほとんどない。ホームレスに家電など以ての外だし、家具なんて持っていたところで邪魔なだけだ。服はどうしたらいいのかと悩んだ結果、やはり今着ているものとスーツ以外は捨てることにした。会社を辞めるためにはスーツが必要だ。辞表を出しに行かねばならない。

フローリングに座り、あぐらをかき「はあ」とため息をつく。

床の板目に沿って指を動かし、反対の手では床に肘をついて顎を手に乗せる。

現代、離婚を申し出るのと辞表を出すこと、どちらが難しいだろうか。

ルルルル、と床にある携帯が鳴る。もしや梢のご両親ではと思ったがそれは思い過ごしだったようだ。

「もしもし、立川?」「あー、よう。嫁さんはもう家にいないのか」「ああ」「そうか」

「華もいない。家だってほとんど空っぽみたいなもんだ」

「そうか」さっきよりも暗い声で立川は返事をする。

「何か用か? お前が電話をかけてくるなんて珍しいじゃないか」

「気になったんだよ。お前がどんな心境かは知らねえけど。ま、なんだ、飲みにでも行こうぜ」

「ああ。そうだな、今夜か?」

「いいぜ。じゃあなみやでな」

夜8時に「なみや」で待ち合わせることに決まり、電話が切れた。

そういえばこの携帯も、もうすぐ必要なくなるんだな。どういう気持ちなんだ、誰とも、どこにも繋がっていないホームレスって。俺はSNSはやっていないから現代の子のように逐一携帯を見たりしないが、家がなくなって家族もなくなって、仕事もなくなったら。もう本当に、誰とも繋がれないのである。

そんなことを考えていたらあっという間に夜になり、俺は「なみや」へと向かった。

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吾輩はホームレスである わさお @wasao1998

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