吾輩はホームレスである

わさお

第1話 

ホームレス(英: homelessness)は、狭義には様々理由により定まった住居を持たず、公園・路上を生活の場とする人々(路上生活者)、公共施設・河原・橋の下などを起居の場所とし日常生活を営んでいる野宿者や車上生活者のこと。広義には、一時施設居住や家賃滞納、再開発による立ち退き、ドメスティックバイオレンスのため自宅を離れなければならない人など住宅を失った人のこと。


ふらっと立ち寄ったネットカフェで、なんとなく調べてみた単語が「ホームレス」だなんて自分でも笑える。隣の個室から僅かに漏れているであろう煙草の煙が俺の鼻をくすぐり、同時に不快感を与えてくる。

薄暗い個室。硬くも柔らかくもないマットレス。安そうな低いデスクの上に、パソコンが置いてある。自分の背よりも低い扉をスライドして入った瞬間思った。ここは俺の居場所だ、と。

仕事は順調。妻とは付き合ってから今まで愛情が尽きたことはないし、娘も先月で2歳になった。この俺を幸せ者と呼ばない奴がいるなら、そいつは俺に嫉妬しているだけの寂しい野郎に違いない。しかし、ふと思うときがある。本当に俺はこんなことをしていて良いのだろうか、と。いや、嫌々妻と結婚したわけでも子作りをしたわけでもない。何年前かの就職だって俺は自分の意思で会社の面接を受けたんだ。人生というのは、時に何かの過ちを犯してしまうこともある。あるが、30になってまでわがままは言っていられないのだ。

「冒険しようぜ日野!」

ビールを半分ほど飲み干したジョッキを掲げ、真っ赤な顔で同僚である立川がテーブルに身を乗り出して言った。「でかい声やめろよな」控えめにしろ、と立川の額に手を置いてグイグイと身体を治すよう促す。立川は俺の手の力に負けず、「冒険だよ。ぼ、う、け、ん」と強調して言った。

立川とは入社時からの友人でもある。仕事の話をするより女の話や会社近辺のラーメン屋や飲み屋の話をする方が多い。火曜の夜は必ず2人で飲みに行くのがいつからか決まりごとのようになっていて、出勤時の挨拶が「なみや」だ。「なみや」というのは俺たちが通っている居酒屋だ。俺が妻へプロポーズするときも、立川は案を出してくれた。ラーメンの具の中に結婚指輪を入れろ、なんて案だったから即却下してやったが。

「お前はお利口さんすぎんだよ。前から言ってんだろ、たまには羽目を外せよ」

「仕事に家族。俺はもう十分幸せなわけ。その一瞬の緩みで全てを失うかもしれない」

「お利口さんっつうか、固え。ガチガチだな」立川はため息を吐いたあと、残りのビールをぐいっと飲み干す。

「奥さんはどうなんだよ」「…………」

俺はこの手の話は苦手だ。立川が妻のことを聞くときは、必ずセックスの話だからだ。しょうがない奴だ。立川は基本いい奴だが、夜の遊びが激しい。学生時代は女遊びも激しかったとか、風の噂で聞いたことがある。

お待たせしました、とピンク色のポロシャツを着た女性がイカの一夜干しが乗っている皿をテーブルの上に置いた。「どうも」「どうもお」女性が俺たちに目を合わせることなく後ろを振り向き、厨房の方へと行くのを見送ってから、また立川が口を開いた。

「なあ、今夜、行こうぜ」

ああ、出たよ、と俺は目を伏せる。

「お前だって溜まってんだろ? たまには良いじゃないか。奥さんにはバレねえよ。新宿と荻窪、どっちがいい?」

「荻窪?」

「ああ、最近開拓してんだ。静かでいいぜ。何年か前に行ったラーメン屋あるだろう。あそこの奥の細道、いい店あんだぜ」

立川は俺の後ろにあるテレビを見ながら、饒舌に言う。「いや、俺はいいって」「なあんだよ! つまんねえ奴! 姉ちゃん! ビール!」と立川は空のジョッキをテーブルに叩きつける。

これもいつものことである。俺が立川の誘いに乗ったことは一度もない。断る度に立川は怒鳴り声を俺に浴びせ、ぐちぐち言いながらビールを飲むのだ。俺が断っても立川は1人で風俗へ行く。俺と行きたがるのは彼自身に良心があるのだろう。女を買っているという罪悪感が。

そして、話は冒頭に戻る。

「なみや」を出て駅まで2人で行って別れた。立川は荻窪へと向かったらしい。

電車に揺られている間、こんなことを思った。俺は自分のために何かしてやれているだろうか、と。

ネットカフェの狭い個室、暗がりにパソコンの画面だけが眩しく灯っている。

俺が今、憧れているのはホームレスだ。

家も金もなく、小汚く、路上で暮らしている彼らに、俺は憧れているのだ。こんなことを思っていたら、誰かに怒られそうだ。だからずっと、口には出してこなかった。彼らは持っているものこそ少ないが、自由という大きいものを持っている。俺はおかしいんだろうか。おかしいんだろうな。

誰か俺を叱ってくれ。

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