374.わからないと逃げるのは簡単だが
マルコシアスが管理する森に入るなり、ヴィネが飛びついてきた。反射的に受け止めたのはアルシエルだ。
「あ、間違えた」
がっかりした様子で離れるヴィネは、強大な魔力が転移したのでサタンだと思ったらしい。確認するより早く抱き着いたのだが、アルシエルの逞しい腕にぶら下がって唇を尖らせた。
「失礼なやつだ」
苦笑いするものの、何度か鍛錬に付き合ったアルシエルはそれを許した。きょとんとした顔でアルシエルを見つめるイシェトが、ぼそっと呟く。
「前より楽しそうね」
「好きに生きているからな」
敬語も捨て、望んだ最強の主君も得た。もう何も我慢しないと言い切ったアルシエルの表情に、イシェトは笑顔を浮かべる。
「それでいいと思う」
くしゃっと髪を乱され、イシェトは擽ったそうに首をすくめた。
「あれ? 夢魔……アルシエルの知り合いって」
眉を寄せたヴィネが、イシェトの顔を覗き込む。サタンと出会う前は森の奥にこもっていたハイエルフが、魔王の顔を直接知るはずはない。だが夢魔が王になった話は聞いていた。
「魔王だったりする?」
「前の、魔王だった」
言いにくそうなイシェトの答えを聞き取り、ヴィネは「へぇ」とあっさり受け流した。そんな軽い反応は予想外だったイシェトが目を丸くする。
「別にいいや。それより記憶落ちの臭いがする奴探してるんだろ? こっちで見つけたぞ」
すでにクリスティーヌ経由で情報を得ていたヴィネは、すたすたと先頭を歩き出した。様子を見ていたアスタルテは結局口出しせず、軍服に似た禁欲的な姿で後に続く。歩きにくそうなイシェトを、アルシエルが背負った。
「アルシエル、リリアーナの前では配慮しろ」
「……なぜだ」
「わからないか?」
アスタルテの指摘の内容も理由も、アルシエルは理解していた。まだ幼竜だった娘を群れに置き去りにし、馴染ませる努力もしないまま放置した。孤独な幼少期を過ごした娘は呼び出されて、大喜びで応じただろう。それをサタンの排除を命じる形で切り捨てた。
主君の命令を守るため必要だったと、アルシエルは逃げることも可能だ。だが本人が一番自覚していた。妻を失った悲しみを娘に押し付けたのだ。彼女のせいではないのに、リリアーナを見ると思い出すから……。身勝手な感情で子供を放棄した。
黒竜という最強種であっても、リリアーナが無事に育ったのは偶然だ。彼女自身の強さに他ならない。強さの分だけ心を傷つけ、孤独を耐え抜いた証拠だった。アスタルテの指摘は、言われずとも自覚がある。
「わかった」
後ろでイシェトが溜め息をつく。
「だから何度も言ったわ。娘を連れてきたら? って」
幼子姿の元主君にそう言われ、アルシエルは己の不甲斐なさを噛み締めながら足を進める。可能なら、今すぐ敵と対峙してこの複雑な感情を叩きつけたかった。
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