309.傲慢と強欲の命じるまま、我が手に戻れ
切り裂いた膜の手応えは柔らかい。目の前の景色が一変した。いつもと同じ離宮の姿は投影された幻覚だったようだ。
切られた場所から散るように崩れる膜は、隔離結界の一種だろう。空間を隔てて隔離された風景が重なって滲む。すぐにブレが収まり、崩れかけた離宮の建物が目に入った。
「リシュヤ!」
何度も手伝いに来て子供と遊んだリリアーナが走り出す。飛び込んだ彼女が向かう方角から、魔力の高まりを感じた。同時に威嚇する一角獣の咆哮が響く。
「先に行くぞ」
リリアーナを連れ戻す時間を惜しみ、転移でリシュヤの魔力を終点とする。その場は驚くほど血腥い光景が広がっていた。鉄錆た臭いが鼻をつき、真っ赤に濡れた大地で少年姿のリシュヤが嘆く。頬に血の涙を溢し、何かに取り憑かれたように血走った目でオレを睨みつけた。
操られて相手を認識できないのではない。この惨状に取り乱し、精神が崩壊寸前だった。幼子を抱き抱え、喉が裂ける泣き声を上げる。その姿は己の無力さを嘆き、奪われた宝をまだ守ろうとする悲しみと覚悟が感じられた。
何が起きたのか。尋ねるのを後回しにしなければならぬ。まずは子供の回復、それから興奮状態のリシュヤを落ち着けなければ。
「っ……何?!」
駆け込んだリリアーナは、驚きに足を止める。それから狂ったように叫ぶリシュヤの姿に目を細めた。履いていたサンダルを脱ぎ、右手を竜化する。流れるように体内の魔力を制御して見せた黒竜の娘は、オレの前に立った。
「私が引きつける」
その一言に「任せる」と返した。驚きが心に広がる。まるでククルやアナト達のようではないか。オレが優先する治癒を魔法陣から読み取り、混乱から我を失ったユニコーンの足止めを申し出た。愛玩動物から配下に格上げか。
死んですぐなら引き戻せる。子供達が倒れて見える場所ではなく、離宮がある敷地全体を範囲指定した。長い槍を短く持ち、己の喉をついた姿は自殺に見える。だがあの子供達がそんな死に方をする意味も理由もなかった。
人間を操っているとしたら、闇はまだ仕掛けを残しているだろう。リリアーナには守護の指輪を持たせている。収納空間から箱をひとつ取り出し、中の王冠を無造作に頭に乗せた。魔道具の一種だ。致死に値する強烈な魔法や魔術であっても、一度だけ反射する。
過去の魔王の遺産を使い、万が一の場合へ対策を施した。魔法陣を編み上げて、空に放る。大きく湾曲して、指定した範囲をドーム状に囲った。大地に触れたドームの縁から新たな魔法文字が生まれ、次々と連鎖するように埋め尽くす。そのままオレの足元まで文字が覆い尽くした。
「傲慢の王たる余が命じる『止まれ』」
時間を巻き戻す治癒は、大量の魔力と集中を必要とする。人数が増えれば、その分だけ術者の魔力を消費する危険な術だった。これを使う間は己を守る者が必要になる。治癒魔法陣の中心から術師が動けば、治癒の魔力は拡散して消える欠点もあった。
それでも個々に治癒したら間に合わない。この子達を保護したのは、死なせるためではない。偽善のためでもなかった。目の前の赤が、怒りの色として目蓋の裏に焼き付く。
「強欲の王として命じる『我が手に戻せ』」
失われる命を食い止め、戻れと命じる。世界に干渉する強い意志に比例し、大量の魔力が吸い出された。
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