305.阿吽の呼吸を得てこそ配下
我が魔王陛下の決定に従う――配下ならば当然だ。アースティルティトの名を捨てたのも、あの方の足を引っ張らないためだった。吸血鬼の始祖、その肩書は伊達ではない。そして増やした吸血鬼の始祖への執着もまた……異常だった。
他種族には理解できないだろう。始祖に固執し、どこまでも追いかけようとする。彼らの執着を断ち切るために、始祖の名を捨てた。辿ってくる同族など不要だ。私の主君は新しい世界を手に入れたのだから。
私を崇拝するあまり、陰で陛下に攻撃した愚か者は制裁を加えた。返り討ちにあった彼らは、それでも温情で見逃された。だが私は許さない。二度と蘇ることのない死を与え、その能力のすべてを回収した。真似をする者が出ないように。この世界で魔王としての称号シャイターンを捨てたあの方は、新たにサタンの名を得られた。
ククルカンが堕神してククルに名を改めたように……我らの名は本質そのものだ。その発音ひとつ違えただけで、価値が変わる名前を捨てた陛下が何を成すか。何を選び、捨てて、拾うのか。その手元に残していただくため、必要ない重石はすべて捨てた。
先を歩く主君の背を追う者らの半数は、この世界でサタン様の温情により拾われた者だ。まだ私達の覚悟に及ばぬが、いずれ陛下の本質を知るだろう。その時は手遅れだが。
くつりと喉を震わせて笑う。この命も駒のひとつ……陛下が差し出せと命じれば、この手にあるすべてを譲る。覚悟はいつでも心にあった。
「アスタルテ」
「承知しました」
名を呼ぶ響きに含まれた意味を、彼らはまだ理解できない。黒竜王と元吸血鬼王の名が泣くぞ。返事は最低限で足りた。承知したと告げ、立ち止まらず進む背に一礼する。
美しいアーチを描く枠に切り取られた廊下からの景色は、外の曇り空に霞む。色鮮やかな花々が揺れる庭へ足を向けた。東屋のベンチではなく、地面に直接座る。ひんやりした石材の硬い床に胡座をかいた。
感知のために両手を大地に押し当てる。さらりと黒髪が背を滑り落ちた。結界を張って静けさと安全を確保し、紫の瞳を伏せる。ゆっくりと呼吸を遅らせた。意識が解放され、触れる空気と肌の境目を曖昧にする。
ククルの元へ、己の意識の糸を絡めた。こちらは囮だが当然、闇は手を伸ばす。強い魔力が消えれば、弱って操りやすい媒体を求めるだろう。糸から膜へ形を変えて、ククルを包んだ。準備はこれでいい。
拡散する意識を大地に潜らせた。敵である闇が使ったのも似た手法だろう。世界に己を溶け込ませ、水脈を遡ってバシレイアに侵入した。結界による遮断は、水の流れを遮らない。自然と同化することで、自分の存在を結界に認識させなかった。
目の付け所は悪くない。この世界なら通用する手法だが、私が知るあの厳しい世界では使い古された方法だった。それだけ使われれば防ぐ方法や追跡の技術も確立する。地脈は使えないだろう。それほど脅威となる存在ではなかった。
この程度の小物が……あの方の手にある駒を狙うなど傲慢にも程がある。何度も顔を合わせたアガレスの気配に絡む細い糸を見つけて、印をつけて追い始めた。
攻撃を仕掛けるなら、反撃で滅ぼされるのも覚悟の上――そうでなくては面白くない。
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