178.浮気を咎められる理由がない
執務室で手紙の確認をしようと手を入れたオレは、冷たい何かに眉を寄せる。先日送り返したケット・シーやネズミが向こうに届かなかったのか。うまく行かぬものよ、そう諦め半分で執務室の床へ落とした『何か』の正体に途中で気づき、急ぎ手を差し出した。
地面に落ちるはずだった魔族を受け止め、柔らかいが冷たい身体をソファへ横たえる。見覚えのある頬を手で包むが、目が覚める様子はない。魔族の生命力を考えれば仮死状態なのは理解できるが、しばらく動けずに見つめた。
もう二度と顔を見られないと思って諦めたが、オレの配下として昔から苦楽を共にした友人でもある。横たえた少女の名を小さく呟いた。魔族らしい特徴のない彼女を置いて離れかけ、迷う。この場に置いていくより、連れて行った方が早く処置できるのではないか。
戦争が一段落した城内は慌ただしく、この部屋に出入りできる者も少なくない。無防備なアナトを置き去りにすることに、躊躇いを覚えた。すぐに考えを纏めてアナトを抱き上げる。小柄な子供に見える少女を右手で縦に抱いたオレは足早に部屋を出た。
「……今の、魔王様じゃないですか?」
見たことがない女の子を抱いてましたけど? そんなマルファスの発言に顔を上げたアガレスは、彼の腕の書類をさらに高く積み上げた。
「バカなことを言っていないで、仕事をしてください。これからの戦後処理が大変なんですから!」
「変だな。見間違いか」
足早に歩く魔王を見送ったマルファスの呟きを、壁際のネズミが拾い上げる。それはクリスティーヌ経由で、リリアーナに届き……ばたばたと足音を立ててドラゴンは城内を駆け抜けた。
「サタン様、浮気した」
ぐずぐずと鼻を啜りながら、リリアーナは尻尾で周囲に八つ当たりをする。淑女教育の成果より、幼子特有の感情の爆発の方が強かった。我慢できずに壺や花瓶を飾った台をなぎ倒し、尻尾を叩きつけた床が凹む。
「リリアーナ様、叱られますわ。直接文句を言ったらいいのです」
ロゼマリアのもっともな指摘に、リリアーナは全力疾走した。彼女が駆け抜けた後で、飾られた絵画が落ちたり窓にヒビが入ったが当人は気付いていない。
ようやく見つけた背中に、大声で叫んだ。
「サタン様の浮気者!! その子誰っ!!」
直球すぎて、追いかけたオリヴィエラが笑い出す。クリスティーヌに引っ張られて走るロゼマリアは、息が切れてしまい言葉が出なかった。
後ろから不名誉な呼び方をされたオレは振り向き、なぜか揃った4人に首をかしげた。何を怒っているのか、リリアーナは興奮状態だ。浮気者と叫ばれた理由がわからない。びたんと尻尾で地面を叩き、リリアーナは大声で泣き始めた。駆け寄ったクリスティーヌがハンカチを手渡す。
地下牢へ続く階段から、ウラノスが顔を出した。騒動に気づいたのだろう。にやにやと締まりのない顔で、アナトを抱き上げたオレとリリアーナを交互に見つめて呟いた。
「これはこれは……我が君は女心に、少々疎いようですな」
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